ここから本文です

書庫日々の泡

記事検索
検索

柴山発言、どこが「バカ」か

10/4(木) 産経新聞

この主張には、少なくとも欺瞞2点ある。

>当時の下村博文文科相も「教育勅語の内容そのものについては、今日でも通用する普遍的なものがある」と述べており、柴山氏の発言は従来の政府見解と特段異なるわけではない。

下村答弁をもって「従来の政府見解」とする一方、それ以前の政府見解を一切参照しないのは欺瞞である。
下村以前の政府の原則的立場は「教育勅語は戦後に排除・無効確認の決議が行われており、学校教材として使うことは適切ではない」というものであり、下村答弁こそが従来の政府見解を覆す内容だった。


>前川喜平元文科事務次官も、初等中等教育局長当時の26年4月の参院文教科学委員会でこう答弁している

この答弁も従来の政府の立場から外れる内容であり、前川氏は当初抵抗していたが、下村文科相にゴリ押しされて不本意な答弁を強いられたというのが真相。後に後悔を語っている。この点に触れず、形式的に政府答弁として扱うことは欺瞞である。

教育勅語のうち「父母を敬いましょう」「友だちは信じ合いましょう」といった通俗的な道徳に見える部分のみを抽出して、「現代の道徳と変わらないじゃないか」と主張する、これもよくある欺瞞である。

それらはすべて「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ…」に始まり「…一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」に至る皇国史観を支えるための徳目の一環であり、個人の命の重要性を天皇制の護持よりも下位に位置付ける価値観の一部にすぎない。

すべての人間が平等に大切であるとする考え方こそがより普遍的な倫理だと思うが、百歩譲って単に肉親や友愛の大切さを教えたいのだとしても、「教育勅語を現代風にアレンジ」する必要など皆無である。
にもかかわらず、彼らがあえて「教育勅語の現代にも通じる部分」としてそれらの価値観を称揚するとき、その背後にある意図はおのずと明らかだろう。
イメージ 1

上掲写真は近所の書店にて。
不振にあえぐ出版業界が、極右層という鉱脈に群がってヘイトスピーチやフェイクニュースを垂れ流す三流誌を量産した挙句、その亜流、そのまた亜流が登場するという間抜けなゴールドラッシュを象徴する光景だと思う。

『新潮45』の休刊(という名の廃刊)が決まったそうだが、月刊誌の起死回生を狙う大手出版社が安易にこうした時流に棹差したことの当然の帰結であり、自業自得と言うべきだろう。

これが「言論抑圧」だと言う人間は、言論の自由が誰のためにあるのかを考えるべきだ。
それは決して、少数派の権利を抑圧しようとする多数派や権力側の言論を守るためにあるのではない。ましてや、性的マイノリティーを痴漢と同列視する下劣な議論を擁護するための“自由”ではないのである。

新潮の一件は、ケント・ギルバートのヘイト本で稼ぐ講談社なんかにとっても他人ごとではない。他山の石とすべき事案だろう。



『新潮45』今月号をざっと読んだが、前回に輪をかけて低劣な内容で、批判する気も失せるものだった。執筆者のほぼ全員が安倍応援団の面々であり、彼らの水準というものがよく分かる。

リテラで取り上げられている小川榮太郎などは、のっけから「性的指向」を「性的嗜好」と何の注釈もなく誤記するなど、この問題について根本的に理解していないことを露呈している。

この程度の理解で、よくもまぁ何か発言できたものだと、その度胸に恐れ入る。


私の性的嗜好も曝け出せば、おぞましく変態性に溢れ、倒錯的かつ異常な興奮に血走り、それどころか犯罪そのものでさえあるかもしれない

LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう/これは〈サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ

小川氏がどんな「おぞましく変態性に溢れ」る「性的嗜好」を持っているのか知らないが、それによって誰かと結婚できなかったり、配偶者として扱われないことによる法的な不利益を被っているのだろうか。

「SMAG」とやらが、婚姻関係や遺産相続といった法的な扱いにおいて、何か差別されている状況があるのだろうか。

まさにLGBTに対して行われているそうした法的差別の是正措置に反対しているのが杉田論文であり、生来の属性を根拠にした差別的言説が非難されているわけだが。
そんな基本的論点について、この人物は理解しているのだろうか。


満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか

性的指向の如何にかかわらず、痴漢行為は他人の人権を侵害する点において非難される行為であり、法的な処罰の対象となる。LGBTを取り巻く問題とは、全く異なるカテゴリーの問題である。
頭の悪さを遺憾なく披露している。






内部から公然と批判の声を上げた新潮社文芸書編集部は、同社に残っているせめてもの良心だと思いたい。

ケント・ギルバートの民族差別本で儲ける講談社の内部からも、こうした動きが高まることを期待する。


9/13(木) 朝日新聞

9/14(金) 産経新聞



北方領土問題ではロシアに何を言われても媚びへつらって抗議なんかしないのに、面積で言えば2万分の1にも満たない竹島に関しては「強く抗議」とは噴飯モノだ。

竹島や尖閣では「断交だ」「実力行使だ」「戦争だ」と勇ましい(でも自分は決して戦場に行くつもりはない)ネトウヨのみなさんも、北方領土に関してはそんなこと言わないのは何故なんだろう。
8/30(木) 毎日新聞 

「必要な時に議事録を作り、そうでない時は必ずしも作る必要はない」
「必要な場合は議事録を残し、そうでないなら残す必要はない」

これらを簡潔に言い換えると、次のようになる。

・議事録を残す必要があれば議事録を残す必要がある
・議事録を残す必要がなければ議事録を残す必要がない

そもそも必要な議事録が残されていなかった疑いに対して、こういう無意味なトートロジーを釈明として持ち出す役人らはどうかしていると思う。その基本的な非論理性について、記事では指摘がないのが物足りない。

考えてみれば、政治家や官僚がよく使う「適切に対応してまいりたい」とか「反省すべきは反省し」とかも、これに近い無意味さを含んでいる。
適切に対応することも、反省すべきは反省することも、すべて当たり前だろう。
「誤解を与えたとすれば申し訳ない」なんてのもある。

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事