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甚七町を流れる常世川の由来にかかわりのある渡世人?
昔、常世川(つねよがわ)という渡世名をもつひとりの侠客が大津にいました。清水次郎長率いるあの"清水一家28人衆"のひとりに数えられていた男でした。
晩年、次郎長が幕臣・山岡鉄舟に感化され、富士の裾野の開拓に携わった折、「自分は根っからの博徒ですから」と、次郎長と袂を別ち、滋賀に流れついたといいます。 明治24年、神崎郡選出の県会議員・磯部亀吉氏が、滋賀県庁舎を彦根町(当時)に移転することを求める建白書を議会に提出しました。その主張は「大津は国の片隅にあって不便。彦根は中央に位置して便利だ」というものでした。 彼の建白書は県議会を二分しただけでなく、滋賀県全体を巻き込んで、大きな論議を呼び起こしました。大津にすれば県庁を渡したくない。一方、彦根からすれば是が非でも県庁を誘致したい ―― 。双方が中央政府への働きかけを強める中、県民も賛否両論、各地で演説会を開き、ついには双方、一触即発の事態となりました。 そのとき、地元大津の意を受けて立ちあがったのが常世川でした。 200人の子分を引き連れて県庁を取り囲み、制止に入った警察を相手に「県庁を(彦根に)もって行くなら、この常世川の屍を越えて行け」と啖呵を切ったと伝えられています。 またこれ以前には、やはり彦根の熊役、下駄常という二人の侠客が常世川を訪れ「県庁移転に憤激した常世川の子分が暴行を計画しているようだが、何とか引き止めてくれ」と直談判。対して常世川も事態を憂慮し「熟慮して穏やかにせん」と応えていることが、当時の新聞(日の出新聞・明治24年12月23日号)で報じられています。
結局、この結末は中央政府まで巻き込み、県議会は強制的に解散、県庁は大津に残され、次の移転論議まで約半世紀を待つことになります。 (以上、京都新聞滋賀本社編著・新近江史を歩く近代編、滋賀県議会史より)
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日記
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大津の侠客常世川と瀬田の侠客荒虎との大喧嘩が起り、荒虎の子分が刀をぬいて近江屋へ入り一足八文のワラジを買い、酒を出せといった。近江屋はこれに恐れをなして店を閉じ、別保に移って百姓になった。
建部大社の参道の入口に、常世川の弟子であった吉井千代吉が大きな石柱を寄進している。千代吉は常世川に劣らぬ侠客だった。荒虎がおればナワ張りの瀬田に石標を建てるなら仁義の一つもいわねばならぬ。
無ざまな引付けまして失礼さんでござんす。陰ながら親分衆にてご免を被ります。お姉さんにてご免を被ります。向かいまする上さんとは、お初にござんす。従いまして自分の出生は大津松本、縁をもちまして常世川のほとりに住居仕ります。渡世につきましては常世川一家にござんす。何々の若い者、名前の儀は何々と発しまして、家業昨今かけ出しでお見知りおかせられまして、万端よろしくお頼みもうします。
『近江今昔』(昭和39年3月31日発行 ¥280円) 著者 中神天弓
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石場の電車路に沿う地福寺は民部少輔が先祖のために建てたもので先祖の墓がある。
四十七士副将吉田忠左衛門はその末孫。
さてこそ石場に茶店を開き江戸の精報を集め山科の大石と連絡したわけが分る。瀬田回りも矢橋の渡しも江戸から上がって来る旅人は必ず石場を通らねばならぬ。そこに忠右衛門は茶店をはった。
いま一つ湊町にも武林唯七、これまたうどん屋を開き扇屋から上がって来る旅人から情報を得、山科の大石はこれで直通電話ほどに江戸の動静をもれなく知った。
『近江今昔』(昭和39年3月31日発行 ¥280円) 著者 中神天弓
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文芸の方面では芭蕉の門人中、女流として重きをなす大津の智月がある。智月は芭蕉を石山の幻住庵に訪ね、芭蕉も智月の家で泊まった。
芭蕉大阪で没するやその子乙州は芭蕉の遺骸を大津の我が家に迎え懇ろに通夜した。
智月は芭蕉がいつも茶色の着物が好きだったから、死出の旅にも茶色の衣を縫い之を着せて納棺した。いかにも女らしい心やりである。
『近江今昔』(昭和39年3月31日発行 ¥280円) 著者 中神天弓
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昭和44年編纂の大津市史に「大津京の時代から、打出浜に瓦工房が世襲であり、大津京、平安京の宮殿、社寺、民家、にも多くの飾り瓦が使われた。」
吉川英治の「鳴門秘帖」に、法月弥之丈と掏模のお伝とのからみの場面が打出浜の瓦小屋である。
郷土の歴史家のはなし。「近年まで、井上弥兵衛と名乗る、屋根土、瓦土を売る家が鳥居川にあった。」
西栄寺住職 松本さんの話「打出中学校の山手の土が瓦土として、採取されていた。」
江戸時代まで、大津絵、大津算盤、大津組紐と並んで、打出瓦は大津の名産だった。
坊主町の某氏宅に「滋賀郡松本村住人、瓦師、井塚出雲守為久、改 井上弥兵衛」刻印の立ち葵の軒瓦あり。
唯伝寺の大屋根の3mの鬼瓦に「滋賀松本村、壬申天保3年、井上弥兵衛為久」こんな箆彫が見られる。
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