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大津松本城にいた松本民部少輔は近江源氏吉田上野介通宝の子、松本城以前の吉田の祖先は竜王町川守に住み上野太郎左衛門重賢、その子出雲守重政は日置流の弓術に長じ佐々木の家来であったが、佐々木義賢はかえって重政を師として、伝授を受けた。
その後吉田重称源八郎は吉田出雲守重綱の娘婿となり射術を吉田左近右衛門業成に学び一水軒印西と号し印西流を開いた。門人多く射術を以って関白秀次から家康、秀忠、家光に仕えその子久馬助重信、三右衛門重好と相次いで名をあげた。
『近江今昔』(昭和39年3月31日発行 ¥280円) 著者 中神天弓
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日記
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湖上に高燈籠を備え湖船の便とす。暗夜着岸の目的となる。
宝浄寺の性蓮という僧が渡船の乗客から銭を乞い、高燈籠の油料とする。
石場には昔石工が多く住み小松辺りの石材を加工していた。依ってこの地名が起る。小関墓地には石場の石工の作が多く残っている。
湖上往来の船を守る社に恒世神社がある。もと常世川(恒川ともいう)残すにそそぐ浜辺にあったが、後、平野神社の末社として同境内に移った。
『近江の説話覚え書』 (昭和46年3月1日発行 ¥500円)著者 中神天弓
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大津市石場の湖岸に呼次の松がある。樹齢800余年を経た老松で寛文年間に石場の住人魚屋五兵衛が植えたものと伝えられる。(一説に松本の人、大黒屋茂兵衛が植えたとも言われる。)船頭達がこの松の根方に立って呼び答えたというところから、この名がある。
元禄時代には、赤穂の浪士吉田忠左衛門が世を偲ぶため、ここに掛け茶屋をひらいたとも言われる。
この松に隣って巨大な石燈籠が立つ。湖上の船をみちびくため、灯をともしたもので、弘化2年(1845)5月、大津の船持鍵屋伝兵衛その他の出資により、近江屋源兵衛が建てた。
『近江の説話覚え書』 (昭和46年3月1日発行 ¥500円)著者 中神天弓
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2013年3月完成予定マンションの・・・
基礎工事が始まったばかり!もう販売活動が始まっている。吃驚です。
キャッチフレーズは、
「大津」のゆとりと「におの浜」の利便がクロスする特別の地、いよいよ開幕。
大津、待望の地に、驚きの価格でDEBUT!
花火を愉しむびわ湖の特等席へ。
「大津」と「におの浜」の利便に出遭う、価値ある地に。
イメージキャラクターは、菊川 怜!
予告広告?販売予定の表示です。販売を開始するまでの間は契約または予約のお申し込みはできません。
予めご了承下さい。
12月8日 販売用の?のぼりを数本立てている。どんな広報活動が実施されるのでしょうね。
予告広告の隅に、「大津松本」で検索も・・興味をお持ちの方はどうぞ。
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代官と目付が狐狸にだまされた。だまされた人物の名まで分かっているからウソではない。大津の代官屋敷は西に寄っているので東へは手が届かず、甚七町の浜先に支所をおいて、長坂新右ェ門、藤沼猪之助という二人の目付が詰め、幕領の民政にあたっている。江戸幕府の目付というので威張り散らす。
民衆が何か願い事、訴え事があって役宅へ出向くと何じゃと怒鳴ってその権威当たるべからず。全く以って民主主義でない。盲腸的存在である。誰かちと骨をやわらげてくれるものがないか。民の怒声を聞いたのが永年狐谷に住む尾の白い狐である。平野神社はもと南の山裾にあった。京町通が出来て賽銭の都合上、今の地に移った。もとの境内奥が狐谷である。老狐は衣冠をつけて目付の役宅へ乗り込んだ。其方共これへまいれと威竹高になって二人を浜通まで連れ出す。石場、肥前町、平蔵町、堅田町は延々と続く一帯の川筋になる。流れが急で水量も多い。二人の目付大井川と知った。これを渡らねばならぬ。衣類を畳み、大小を添え頭の上にしばりつけ褌一つになって川に入る。浅いぞ浅いぞ。深いぞ深いぞと互いに川の瀬を探って呼び合い戒めつつ、ややもすれば水勢に流される。ヤア目付が狐にだまされとる。見てやれと浜通は黒山の人である。大井川の渡らしい。口々に笑う。それが朝からくれ暮近くまで続き目付が難儀して渡ろうとヘトヘトになってる。これが代官の耳に入った。下役の手付、手代、書役を連れて来てあきれ返った。コレ其方共正気を取り戻せ。恐多くも江戸幕府の目付ともあろう者が狐狸にだまされるとは何事ぞ。腑抜けになった二人を目付の役宅まで連れ戻した。まだ大小を畳んだ着衣を頭に縛りつけて川渡りの恰好をしている。畜生に劣るたわけ者と怒鳴った。
それと知った四宮の鳥居前の石橋下に永年住んで尾の白い狸がおんのれ畜生とは何事、われを軽んずる気か、急に立ち上がり、見る見る墨染の袈裟の大坊主になって代官以下十数人の下役を招き出した。ここは島が関の浜先である。代官の漁船から大網を持ち出させこれを砂浜の上に輪の如くおいて大坊主は大導師になって中央に座る。念仏唱えながら百万遍の珠数を操る法座になる。一昼夜続けてやっと百万遍操れるので代官以下は夜通し手繰っている。ヤア、今度は代官がだまされとる。見てやれと島が関は黒山の人である。夜が明けて大坊主は四之宮の橋の下へ帰った。曳山の狸はその同類である。代官はそれから四宮祭の狸山にお神酒を供える。市長になってもお神酒は供える。
代官は直接幕領の民政にあたり、大概は誅求を事とし私腹を肥やし、代官といえばその殆どを悪代官としたが、大津の代官は左様な非行はやらなんだ。威張もだんだん止んだ。全く狸の監視に依る。今でもお役人は狸橋の下に住む老狸をこわがっている。共産党議員よりもこわい。高い所へ土を盛ったり、勧めてためてもたまるほどよいものとたまわればたまわれるほど始末に困るものととよく区別して間違いなく日夕気をつけている。四宮祭曳山先頭の狸は市制目付でご苦労である。その頃の稲荷新地は浜先が小松原であった。老狐は稲荷神社が建って祀られた。
『近江今昔』(昭和39年3月31日発行 ¥280円) 著者 中神天弓
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