日々の気持ちを短歌に

毛衣(けころも)を脱ぎ一斉に喜びの声あげるごと木蓮の花(後藤人徳)

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5月4日(金)

近藤芳美著「新しき短歌の規定」より

岩波書店近藤芳美集第六巻「新しい短歌の規定」よりの転載です。

新しき短歌の規定 「物」への驚き―『赤光』を読みて

「悲報来」

ひた走るわが道(みち)暗ししんしんと堪へかねたる吾が道くらし

三四句不熟なるべし。

長塚節の「赤光書き入れ」はかく明快な裁断により始まる。

 赤光の中に浮びて棺(かん)ひとつ行き遥(はる)けかり野は涯(はて)はらん

「作者は太陽の光、夕日の光と率直にいふことが出来ないのである」かく言う。

 大正はじめ、『赤光』出版が巻きおこした感動は如何なるものであったのか。アララギ内部に於いて、

「殆んど斎藤君の模倣であると断言して憚らぬ」(節『斎藤君と古泉君』)状態であり、文壇では佐藤春

夫が出版記念会を申し出たと言う。吾々はそうした残された記録から『赤光』が投じた歌壇文壇の波紋の

ひろがりを想像し得て、何かこの青春の一時期を羨ましく思う。しかもかうした『赤光』を正面から批評

して、『赤光』を太陽の光と「率直」に言い得ぬと断じた長塚節の理知のまなこに今更に驚き尊敬を感

じ、結局に於いて節の『赤光』評は今日いささかも古びて居ない事も知る。「例の癖」「例の如く不解」

等々、長塚節の批評のことばは、吾々が『赤光』を読んだあとに残る何か感動の渣のようなものを拭い去

るごとく清く断定的である。

しかしながら、節が指摘した『赤光』の弊のすべてを一応肯定しながら、なお僕は『赤光』にたいして抱

く強い愛情を捨て得ない。大正から昭和の今日にかけて出版された多くの歌集と全く別個の何物かを『赤

光』はもって居る。いつ読んでも稚と共に何か一種のエマナチオンを発散する、いつか吾々は一つの精神

世界に巻き込まれ、強烈な独自な主観に酔はされて居るような事を感じる。

『赤光』のこの魅惑の力は何に由来するのであろう。そうしてこの源をさぐりあてる事が今日の作家斎藤

茂吉の力量の深さを理解し得る一つの鍵穴ともないはすまいか。僕は巨象をさぐる盲人の如きはかない勉

強を幾度か試みる。

  汝兄(なえ)よ汝兄(なえ)たまごが鳴くといふゆゑに見に行きければ卵が鳴くも

 作者は卵が鳴いたのに唯驚いて居る。手ばなしに全身的に感動して居る。

  猫の舌のうすらに紅き手の触(ふ)りのこの悲しさに目ざめけるかも

 ここでも作者は唯、猫の舌の触覚に感動する。対象に純一に感動する。さうだ、この「物」自体への驚

きであり感動なのだ。この「物」自体にうち込んだ全身的な感動と、愛惜なのだ。

 一首一首がこの「物」自体を持ち、作者は之を愛惜しつつ其の四周に自己の世界をかもし出そうとす

る。「物」への感動の純一さこそ『赤光』を他の歌集と分つ新鮮さではなかろうか。而してこの感動の執

拗さこそ、あのもやもやとまつはるような『赤光』の気分ではなかろうか。

  秋づけはらみてあゆむけだものも酸(さん)のみづなれば舌触りかねつ

  満ち足らふ心にあらぬ渓谷(たに)つべに酢をふける木の実を食(は)むこころかな

  斧ふりて木を伐る側(そば)に小夜床(さよどこ)の陰(ほと)のかなしさを歌ひてゐたり

  けだものは食(たべ)ものを恋ひて啼き居たり何(なに)といふやさしさぞこれは

 そうして又何と言う対象への愛情であろう。

  あぶなくも覚束(おぼつか)なけれ黄いろなる円きうぶ毛が歩みてゐたり

 之が明治四十四年の歌であり、

  自動車の光のまへを兎(うさぎ)一つ道よぎりたりあな危(あやふ)あやふ

 昭和八年の作である。この間二十幾年、作者は「物」への愛惜をかく持ち続けて来て居る。吾々の所謂

写生と言う事も、この手ばなしの驚きと愛情として理解してよいのではなかろうか。

 『赤光』の作者が見出し来て愛惜し感嘆する「物」はそれまでの歌の世界から見れば非常に独自であ

り、感嘆のしかたも独自である。時としてこの二つが相伴わず、対象を置きざりにして強烈な主観が押し

出されて来る。節の所謂「例の如く不解」なる歌はかかる種類のものか。

 いまの僕らはこの節の批判を知った上で『赤光』を正当評価しなければならぬ。いたずらに感嘆するば

かりで批評の理知をくらませてはならぬ。しかも同時にあの一首一首の言い知れぬ魅惑を何としても解か

なければならない。

 今日の歌壇はあまりにぢぢむさく表情が無い。同じ対象を同じように詠嘆してあきない退屈な末流ども

の世界である。僕らは『赤光』の作者の新鮮な物への驚きにも一度驚く事を今無意味とは考えなぬ。(1

947・8)

人徳の日々の歌

雑草の中にわずかに咲きておりれんげ咲く田が減りてきている

れんげ草生命力を誇りしも最近あまり見かけざるなり

やわらかき柿の若葉は風受けて輝いているかみのかがやき

新緑に覆われている山肌に竹林増えて葉を散しゆく

帰るという便りありしは十日前今日はその日も連絡はなし

備忘記録

平成17年の歌

戦いに命なくせし男らは 石の柱となりて苔むす

忠魂碑苔むし立てば 一匹のちょうちょ止まりて羽を閉ざせり

濁り田に写れる空は色青く雲真白なりその濁り田に

日米の旗ひるかえる街をゆく 黒船の祭終りたる街

爽やかな五月(さつき)の風に店先の風鈴あまた いっせいに鳴る

矢内原忠雄の今日の言葉」

「善き師よ、永遠の生命を得るために私は何をすべきでしょうか」。するとイエスは答えました、「なぜ

私を善と呼ぶのですか、善なる方はただ一人神のみです。もし生命に入りたい思うのなら、いましめを守

りなさい」。

(マタイ 19:16-17)

善き師

 教師中の教師は神御自身です。 ・・・ 

 神は世界と人生を教室とし、天然と歴史とを教材とし、聖書を教科書として、人を教えられます。神は

夕日に輝く白雪の連峰を指して人に『荘厳(そうげん)』を教え、天に星座の掛図(かけず)をかけて

『悠久(しゅうきゅう)』を教え、また国家興亡(こうぼう)の跡を歴史に示して『正義』を教えられま

す。そして世界と人生の現実に起こり来る諸般の出来事を通して、私たちが正しく判断し正しく行動した

時には『よくやりました』と賞めて下さり、誤った時には『それはいけません』と言って罰して下さる。

そして私たちに書を開かせて神の言葉を指し示し、ある時は親切に、ある時は厳しく、私たちの必要に応

じて真理を教えられるのです。こうして私たちは日毎の経験を通して神の真理を学び、神の指導に信頼し

て人生を歩みます。ある時は険しい坂を登るでしょう。ある時は砂漠を引っ張って行かれる事もあるでし

ょう。しかし神が導かれるのですから、神の導きに信頼して、死のかげの谷をも怖れなく歩みます。神の

導きに信頼して歩むことは、生徒が教師の後について遠足し、又は兵卒が指揮官の後に従って行軍するよ

うに、安らかで自由な服従の生涯なのです。

「内村鑑三一日一生きょうのことば」

あなたの心を教訓に用い、あなたの耳を知識の言葉に傾けよ。(箴言二十三・十二)

聖書は何がゆえに神の言辞(ことば)であるかというに、もちろんその中に神にあらざればとうてい語る

ことの出来ないことが書いてあるからである。その文章の優劣はわれらの論ずるところではない。歴史的

事実の錯誤のごとき、科学的証明の不足のごとき、もって神の聖旨(みこころ)のいかんを示すにあたっ

ては、さほど大切なる事柄ではない。われらは人生に関し、宇宙に関する神の真理を知りたくねがうもの

である。そうして、聖書はもっとも明白にわれらの要求するこの説明を与えてくれるのである。すなわち

聖書の完全なるは、その辞句文章等の外形にあるのではなくして、これを一徹する神の聖旨に存するので

ある。聖書が神の言辞であるというのは、その中に神の心が充(み)ちあふれているからである。

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