慈遠の創作小説.

創作小説、活動中。 不定期になりますが、Upしていきたいと思います。宜しくお願いします。

切りかぶ

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《説明》
 ⇒ハンナは健次郎と出会い、二人の恋はぐんぐんと加速をつけていくが、彼の体が二人の恋の成就をまつ時間が無かった。そして、現実に耐え切れなくなったハンナの精神は・・・・。
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      十一

 ハンナは、思い出した記憶と、光司が告白してくれた記憶が手紙により綺麗に重なり、その記憶の輪郭が克明な物になった嬉しさを感じていた。
 ある期間記憶を失っていた事は、ちょうど、彼女の脳を一部分掬い取られたような淋しさと悔しさがあった。るみを育て、そして再婚せずに生きていく事は並大抵の事では無かったし、だからと言ってゆっくり悲しんでいる暇など無く、愚痴を言う暇も無かったのだが、この事が、常に心の隙間として存在していた事は事実であった。記憶の回復は、まるで失っていた体の一部が戻って来た様な喜びをもたらしてくれた。
 そして、彼女自身がその全霊で愛した健次郎と言う存在が、陽炎でも錯覚でもなくちゃんと存在し、そしてこんなにも愛してくれていた事実があったと言う事に、嬉しさが何度もこみ上げてきた。
 だが一方で、その健次郎のそばにいる事が出来なかった事。彼を、一人で旅立たせてしまった事。父の嘘を信じたまま逝ってしまった事は、無念で悲しくて、何より申し訳なかった。
 しばし呆然としていたハンナだったが、やはり読み終えた手紙は戻しておこうと思い、足元においていたケースを取り上げた時だった。
「カラカラ」
 手紙だけしか入っていないと思っていたケースの中に、何か別の物が入っている様なのだ。
「さっきは、全然気が付かなかったけれど・・・」
 ゆっくとケースを開けてみると、鈍く銀色に光るそれは指輪だった。取り上げると、なんと二個入っていた。
「私がつけていた物だわ」
 記憶が戻った事により思い出したそれは、確かにあの頃、ハンナがつけていた物だった。言われて見ると、当時、結婚を本当に決めた時、婚約指輪だと言って買ったものだった。そんな大事な物だと言うのに、いくら記憶が無かったとは言え、この約五十年間すっかり忘れていたと言うのは、かなりの衝撃だった。
 しかし、別の衝撃が体を襲った。その事を思い出したのだ。
 一緒に買った婚約指輪は、買った時点で、お互いで持っていたのだった。健次郎は、指輪は絵を書く時に気になってしまうのでとなかなか付けてくれなかったが、とにかく失くさない様に大事に持っていた。そして、ハンナも。
 あの日この教会に向かう時、家を出たハンナは、車に乗ると直ぐにバックから大事に取り出した指輪を確かに左の薬指にはめた事を覚えていた。しかし、光司の話では、健次郎の手紙をこのケースに入れたのは彼で、しかも健次郎はハンナの事故の事を知らず、当然その時ハンナには会っていない。光司は、指輪の事は何も話さなかった。健次郎の指輪は、手紙と一緒にここに置いていった物を、光司が一緒に入れたかもしれない。でも、確かにこの指輪は、以前ハンナがつけていた物に間違いなかった。
「あっ!」
 ハンナは、その事が意味する事に気がついた。それは、光司がやった事だと分かったのだ。
 あの日事故に遭った彼女を。救急車で病院に付き添って行ったのは光司だった。意識を失ったまま横になっている彼女を見まもっていて、恐らく、その手に光っている指輪を見つけたのだろう。どんな気持ちでやったかは本人に聞かないと分からないけれど、彼はそれを外した。結婚を連想させる物を付けさせ続ける事は、彼にとって耐えられなかったのかもしれない。
 いずれにしても、それをポケットに入れた。そしてこの場所で健次郎の手紙と指輪を見つけた。元々、少なからず罪悪感もあっただろう。いや、むしろ、こうする事によって、二人の結婚を、別の世界へ封印させてしまいたいと言う意思があったかもしれない。
 とにかく、光司はそれを実行した。そして誰にも、もちろんハンナにもこの事は封印して一緒に過ごし、そしてハンナを愛していた。
 そして自分の死期を悟り、手紙の秘密を告白すると決心した。でも、もしこの指輪の事がどうしても気になら、指輪だけ先に捨てるなり場所を変えるなり出来たのを、彼はしなかった。
 そこにある光司の気持ちを、ハンナは読み取った。
 そうだったのか・・・と。

「ありがとう」
 ハンナは、ケースを両手に愛しむ様にしばらく包み込んだ後、それに向かって、そうはっきり呟いた。そして、元あった場所に、しっかりと埋めなおした。
 ゆっくりと気をつけながら立ち上がったのだが、日頃し慣れない体勢でいた事は、彼女の足を少しふらつかせたが、ハンナは足に力を入れ、よろけて倒れる事をなんとか喰い止めた。そして、二つの大きな切り株をしばし見つめ、時の流れの速さを、今更の様に実感していた。そして、その横に立つ、新しい子供の木を眺め、命や魂が引き継がれていると言う事を感じた。
「こうして、私も・・・」
 呟いてから車の停めてある方に体の向きを変えると、車から出て、ハンナの事を心配そうに遠くから見守っていた小さな二人の姿が見えた。
 そしてハンナは、言った。
「私、もう帰らないといけないから」
 踏み出した足が、やはり少しふらついた。でも、ハンナは思った。まだ、私は立派な切り株にもなっていないもの、と。


                       完



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切りかぶ 第10_4話

 入り口のドアを出たとき、ハンナは、そこまで見送りに来た牧師に向かって尋ねた。
「確か、横に大きな樫の木の切り株があって、その横に子供の樫の木があった様に記憶していたのですが・・・」
「ございました。よく覚えていらっしゃいますね。残念ながら、その子供の樫も大きくなったのですが、実は私がここで働く様になって直ぐ落雷があって、その幹の途中から折れ曲がってしまったので、後日、仕方なく根元から切り落としました。大きくて立派な樫の木だったのですが、今はその更に子供が、直ぐ隣で成長しております」
 ハンナは、納得の表情を見せた。
 教会は五十年経っても、その姿を変えておらず、ここに間違いが無かったと確信を持っていて、その横には、当時立派な樫の木切り株と、子供の樫があった様に記憶していたのだった。
「少し、見せて頂いて宜しいですか?」
「はい、どうぞどうぞ。御案内致しましょうか?」
「いえ、大丈夫でございます。お気遣い、ありがとうございました」
 ハンナは、ゆっくりとそう言って断り、失礼しますと言って歩き出した。牧師は、その場で見守っていて、一度振り向いたハンナのお辞儀に、深くお辞儀を返してから、扉の向こうに消えて行った。
「お婆ちゃんが、こんな所に来た事があったなんて、初めて聞いたわ。ねえ、どうして来た事があるの? いつ、いつ?」
 沈黙の空間から開放されたあかねは、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。ハンナは、「それはね」と言いかけてから、ふふふ、と笑って答えをごまかした。
「えー、ずるいずるーい。教えてよ、お婆ちゃん」
 あかねは高いテンションで言葉の続きを待ったが、ハンナはもう一度にっこりと笑うだけで、そのままゆっくりと教会の横の方に向かって歩きだした。
 相変わらず、ねーねーと言うあかねの問いには答えず進んでいくと、確かに牧師が言った様に、地上から二十センチぐらいの高さで切られた立派な切り株があって、その横に、それよりも少し小さな切り株があった。そしてもちろん、胴回りはまだ頼りないが、2.5メートル程の樫の木が立っていた。胴回りを比べると、既に切り株となった二本の樫の木が、以前どれだけ立派だったのかが推測できた。
「うわー、大きい」
 さすがに、その大きさに驚きを隠せないあかねは、素直にその感想を述べた。
「ねえお婆ちゃん。どうしてこの教会の事とか、切り株のことか詳しいの? ねえねえ、教えてよ」
 ハンナがそれに答えずにいると、アカネは更にしつこく聞いた。
「ねえ、お婆ちゃーん。ここまで来たんだからさぁ」
 とうとう、少し甘えて言い始めたあかねに、以外にも、いつもおとなしい武が口を開いた。
「あかね、もうやめろよ。人には色々事情があるんだから」
 兄の突然の発言に驚いたあかりだったが、ハンナも、体は一人前なのにいつまでたっても男の子から貫け切れない感じのある孫息子が、急に大人の男になった気がして、ちょっと見直していた。
「事情だって〜」とあかりは、兄に少しの反発と多くの愚痴を込めてその言葉をハンナではなく彼にぶつけたが、さすがに兄の一喝を受け、それ以上しつこく質問する事は止めた。
 ハンナは、ゆっくりと膝を折り、大きな切り株の直ぐ横にしゃがみこんだ。そして無言のまま、恐らく斧とのこぎりで時間と労力をかけて切り倒されたその表面を手の腹で優しく撫でた。表面はひんやりとしていたが、切り倒されてなお、そこに生命がある事を誇示するかの様に、しっとりとした植物としての質感を持ち合わせていた。
 ハンナは、暫くの間、両の手の平をその表面に当て、小さく左右に振りながら、いとおしむ様に撫でていた。
「お婆ちゃん、俺達先に車に行っているから」
 武の声だった。
「まだ、私いる〜」と言って、素早くハンナの横に座り込んだあかねに、武はその腋の間に手を差し入れ、ぐいひっぱって立たせた。
「行くんだよ」
 男らしい、強い言い方だった。そこまで言われて、なんとなく察しがついたあかねは、しぶしぶと言う顔をしながら、武に連れられて歩き出した。
「ありがとう、ね」
 ハンナはそう言うと、若い二人が車に向かって歩んで行く後ろ姿を見てから、改めて切り株に目を移した。
(健次郎さんは、本当に手紙を残してくれたのかしら?)
 ハンナは、完全に記憶を取り戻していた。光司の話ももちろん覚えていたし、何より、つい今日まで全く思い出さずにいた健次郎の顔や、彼の声も彼女の中で蘇っていた。だからこそ、光司から聞いたその話が、本当であるのか、それとも嘘であるのか考えていた。もし探して何も無い事が分かると、二重の意味で悲しむのだと思っていた。
でも・・・・。
 ふと、自身がその身に今起こっている病気の事を考えると、後悔はしたくないと言う気持ちが強烈に頭をもたげてきて、次の瞬間、ゆっくりと切り株の周りを調べ始めていた。
 切り株には、太く、そして大きく何度も曲がりくねった根が土の上に顔を出していた。中には土が流れ出していて、根が大きく空中に姿を表している所もあった。それらしい金属が見えないかと時計回りに三分の二を見終えた時、何となく土の盛り上がり具合がいびつな所があった。もしやと思い、少し離れた所に転がっていた折れた小枝を拾ってきて、力の限りその盛り上がりを削りだした。
 土は、長い歴史をも練りこんだ様でかなり硬かったが、ハンナの手に込められたエネルギーは、老いたりとは言え力強く、そして反復される手の動きには彼女の生きた年月が重ねられた様に繰り返されていて、まさに過去を取り返すように動く彼女の意思と熱意がそこに集中していた。
「あった・・・」
 小枝が作る軌跡の中に、明らかに金属と分かる色が姿を表したのだった。
 ハンナは、昔に比べてすっかり弱くなった腕力に気力を注入し、そしてその作業を繰り返し続けた。
 塗装が剥げた部分には錆が浮かび上がっていたが、それは、光司が亡くなる前に話してくれたスーパーなどにある子供が好きそうなキャラクターがプリントされた飴のケースだった。これに間違い無いと、ハンナは直感した。
 ケースは硬く閉じられていたが、石を使い無理やりこじ開けた。中には四つに折り曲げられた紙がちゃんと入っていて、焦る気持ちを抑えつつ広げていくと、そこには確かに見覚えのある字があった。約五十年も前の事だと言うのに、その字を見た瞬間、ああこの字だったわ、と言う思いが広がった。



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切りかぶ 第10_3話

「武ちゃん。お婆ちゃんを、ちょっと連れて行って欲しい所があるんだけど」
「え?」
 言葉を忘れたようにじっと座っていた祖母から、いきなりドライブの行き先リクエストがあるとは思っていなかった武は、本当に驚いて答えた。
「お婆ちゃん、急にどうしたの?」
 兄より先に口が回るのは、やはりおしゃべりのあかねだった。彼女もまた、いつも殆ど自己主張をせず、彼女や武が言う通りにする祖母の突然の要望に、少なからず驚きを持って質問していた。
「急に思い出した事があるの」
 ハンナは、真面目な顔でそう返事をした。そして、どう答えて良いのか分からずにいる武を見て、ハンナは笑顔で続けた。
「帰りに、ガソリン満タンにしてあげるからね」
 かわいらしい祖母の笑顔に、素直につられて笑った武は、「いいよ」と答えた。あかねは、祖母の突然の発言に湧き上がった好奇心丸出しの顔で、ハンナが案内する前方の景色に、何が現れるのかを見守っていた。約五十年前に行ったきりの道のはずだったが、蘇った記憶だからこそハンナにとっては余計に新鮮な様で、ハンナは全く間違える事なく、その場所に武の運転を導く事が出来た。
「ほら、あったでしょう」
 ただでさえ運転の未熟な武は、初めての山道とあって、途中「お婆ちゃん、本当にあっているの?」と、不安から、何度も尋ねていたのだった。確かに途中空の景色が、覆いかぶさる木の枝で見えなくなる場所が何箇所もあったが、ハンナの自信は全く揺らぐ事は無かったのだ。
「うわー、こんな所に、本当に教会があるんだね」
 フロントガラスの向こうに、急にその姿を表したのは、雨垢でその白さをくすませていたが、かわいらしい造りの、こざっぱりとした教会だった。
「車、ここに停めて良いのかな?」
 駐車場として使ってあるらしき整備されていない空き地を指差した武に、「ええ」と生返事をしながら、ハンナは窓から見えるその白い建物を見上げていた。
 停車した車から、焦る気持ちに追いつかない足の動きに、少しの苛立ちと胸の鼓動を感じながらハンナは降り、そしてドアも閉めずに、吸い込まれる様に歩き出した。いつもと雰囲気が違う祖母の動きに少し慌てて、開けたままのドアを閉めて武が続き、その後をあかねが追った。
「変わらないわ」
 ハンナの声が小さくて聞き取れなかったあかねは、「え?」と聞きなおした。
「全然変っていないのよ」
「お婆ちゃん、ここに来た事あるの?」
 ハンナは、あかねの問いに答えず歩き、そして教会の前に立ち、そして改めて仰ぎ見て、澄んだ水色の空にそびえ立つ尖った屋根と十字架を見た。
「間違いないわ」
 呟いたハンナは、またゆっくりと歩みだした。そして入り口のドアの前に進み出ると、押し開けようとして出した右手を、その扉を触れる事が出来ずに立ち尽くしていた。さっきまでわき目も振らず歩いてきた彼女だったが、そのドアを押し開ける事に、圧倒的な躊躇いを感じている様だった。
 暫くじっと黙って後ろに立っていたあかねが、たまらず、「どうしたの、おばあちゃん」と言うと、固まっていたハンナの首が、ぴくっ、と動いた。それでもためらっていると、不意に横の方から声が聞こえた。
「当教会に、何か御用でいらっしゃいますか?」
 四十代後半に見える、身長は165ぐらいだが、体重は軽く三桁はあるだろうと思える男がにこやかな顔をして立っていた。
「ごめんなさい、急に立ち寄ったものですから」
 ハンナは突然呼びかけられた驚きを見せつつ、まず、急な来訪を詫びた。
 この教会の牧師と思われるその男は、にこやかな笑みを見せつつ、「いえいえ、当教会は、いつどなたの訪れをも拒む事はございません。ささ、先ずは中へどうぞ」
 田口と名乗ったその牧師は、ゆっくりとドアを開け、三人を教会の中に導いた。完全に仏教徒の武とあかねは教会に入る事も初めてで、そのドアから中に入る時から、興味津々のその視線を、建物の上から下から左右の隅々に至るまで泳がせ、観察を始めた。
「ここは、何も変っていませんね」
 ハンナは、椅子の並ぶ列の一番前まで来た時、牧師に向かってゆっくりと話しかけた。
「失礼ですが、以前からこちらに?」
 ハンナの言葉を受けて、更に親愛の情を込めて牧師は尋ねた。
「ええ、以前・・・」
「お婆ちゃん、キリスト教徒だったの?」
「いいえ違いますよ。私はここで・・・」そこまで言っておきながら言い及んだハンナを、牧師は深追いせず、柔和な顔でハンナの次の言葉を待った。
「失礼ですが、私はここに来たのは約五十年ぶりになります。その時、お名前は失念したのですが、とても優しい牧師さんと、こう言っては失礼ですが、かなりふくよかな奥様がいらっしゃった様に記憶しています。お二人ご存知ありませんか?」
「そうでしたか、でしたら、それは私の両親に違いありません。既に二人は他界しており、私が二十年前からここの教会を継いでおりますので」
「それは、知らぬ事とはいえ、失礼致しました」
 ハンナは、深く頭を下げた。牧師は、神の御許に参りましたので、その様なお心遣いは無用であると答えた後、それなら用事は亡くなった両親へですかと尋ねると、ハンナは一瞬迷った表情を見せた後、ええ、とだけ答えた。
 あかねは聞きたい事が次から次と湧き出てくるのだが、慣れない場所に来ている事と、そこが神聖な場所である事を理解している事から、口を挟まず二人の会話を聞いていた。それは武も同じ様で、じっと二人の会話を聞いていた。
 あかねの想像とは逆で、折角こんな山の中腹まで来たと言うのに、ハンナは、突然お邪魔させてもらった事を丁寧に礼を言い、そこを辞する旨を伝え、そして外に出た。



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切りかぶ 第10_2話

 ハンナの頭の中は、相変わらず色々な事や人の顔が浮かんで来て、早送りのビデオを見せられている様な錯覚を覚えるほどだった。武の手を引き、あかねを抱きかかえたるみの姿が現れ、こちらに向かって歩いてくる映像は、一瞬目の前に差し出された手を取りたくなるほどだったので慌てて目を見開くと、映像の中の彼女は一瞬縦に細長になり、また元のサイズに戻ると、純白のウェディングドレスを着ていた。結婚式当日、我が娘ながら、本当に綺麗だと思った事、そして肩の荷が、すーっ、と降りたあの感覚が蘇ってきた。
(あなた。るみには、ちゃんと綺麗なウェディングドレスを着せてあげる事が出来ましたよ)という安堵の思いが、結婚式が始まる直前だと言うのに、一筋の涙へと姿を変えてしまったので、急いで取り出したハンカチで、そっと涙を抑えた事は今でもはっきりと覚えていた。
「光司さん」
 つい、そう口を動かしていた彼女だったが、それは音にはなっていなかったが、彼女の頭の中に、病棟で体を横たえている彼の姿を鮮明に思い出させていた。二十二年前の事だと言うのに、彼が着ていたパジャマの柄と、その一本一本の色まで覚えていた。職人だった面影は既に消えていて、肩や胸の肉が内側に吸い込まれ、骨のラインが痛々しくそのパジャマの襟元や袖口から見えてしまい、ただただ悲しかった事も思い出していた。
 病気を宣告されて、そしてゆっくりと忍び寄る死を感じ、おそらく彼女の事を愛してくれていただろうその人と別れなくてはならない運命を、彼は毎秒毎に考えていたのだろうと思うと、たまらなく切なくなった。その辛さがこうしてはっきり分かった事で、当時、彼がどれだけ苦しかったのだろうと思わずにはいられなくなった。
「光司さん」
「光司さん」
 無意識に、心の中で連呼していた。
もちろん、彼女の頭の中でベッドに横たわっている彼は、何も答えてはくれなかった。
「あなた」
「ねえ、あなた」
 気が付くと、また胸の中で呼びかけるハンナだった。そして、より強く、彼の身の上の事を思い、かわいそうだったと忍びなく思っていると、ふと、病室で彼が何かを話してくれた事があったと思い出した。
直ぐにはそれが何だったのか思い出されなかったが、彼の顔の輪郭を強く念じていると、それが、彼女が 二十五歳で結婚前の時、記憶を半年ほど無くした話である事が徐々に思い出された。
 ここ二十年ほど全く思い出さずにいたのに、一つの事を思い出せば二つの単語を思い出し、二つの単語は、四つの文章を呼び起こした。それは、等比級数的に、光司が教えた話の内容を思い出させ、そしていつのまにか、文章の輪郭が濃いところにまで発展させていった。
 あの時病棟で確かに光司は、その失われた彼女の記憶の中に、健次郎と言う人がいたこと、そして愛し合っていたのだが不幸が重なり二人がすれ違ったこと、そしてその事に関する記憶を、ハンナが失っているのだと告白してくれた。それを聞いたハンナは、もちろん驚きはしたが、その名前を聞いても一切思い出さない現実と、全くざわめかない心を思い、人事の様に聞いた事を思い出した。
 その蘇った記憶にいる病室の光司を見ていると、その記憶の中で、またそこから時間が進み始め、そのまま進めば、もう一度彼が亡くなってしまうと気が付くと、無性に怒りがこみ上げてきた。何故、あの悲しさをもう一度見せられてしまうのかと言う感情が吹き上がって来たのだ。彼女の感情の中では珍しく、怒りがその体や脳を満たそうとした時だった。
「嫌よ!」
 心の底から思った言葉を、頭の中で強く念じた。
「嫌、嫌、嫌。絶対に嫌!」
 それこそ、全身で念じた時だった。

 ―――― パチッ! ――――

 ハンナは、大脳の外周を、微弱な電流が一瞬で一回りした様な感覚を覚えた。その後、目の裏側に、るみの純白のドレスを連想させるもやが広がり、そして消えた。強く念じていた、見たくない光司の最期の映像は、見事に消えうせていた。
「うそ・・・・」
 懐かしい顔がそこに見え、久しぶりに聞く声がハンナの耳に届いた。その声は、懐かしい口調とイントネーションで、彼女を呼んだ。



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切りかぶ 第10_1話

      十

「お婆ちゃんの髪、とっても綺麗ね」
 車の後部座席に腰掛けたハンナは、五センチほど開けた窓から入ってくる風を受けながら、その肩の所で緩やかにカーブした自慢の白髪を、左手で軽く撫でた。
 ハンナは光司を亡くしてから、女手一つで娘のるみを守り、そして無事に花嫁として送り出す事が出来た後も、引き続き贅沢とは対極の生活を送っていたが、二月に三回は訪れる美容院だけは、唯一の楽しみと気分転換を兼ねて続けていた。
 そして病院で、その手に初めて抱いた孫には、娘とはまた違った感慨があったし、その女の子は大きくなって、お洒落の事を一緒に話せる年頃へと成長していた。
 そして昨日、カットとセットをしてもらったばかり髪は、七十二歳になった年など関係なく、同じく後部座席に座ったその孫娘から、お世辞をもらえるほどの美しさを保っていた。
「あら本当? ありがとう。 あかねちゃんも、京人形みたいな綺麗な黒髪をしているわね」
 あかねは、外見は母のDNAを強力に引き継いだ様で、その綺麗な黒髪は、るみの若い頃にそっくりだった。そして、「えへへ」と笑うその口元は、るみと同じかわいらしさに加え、十七歳と言う若さ特有の輝きも持ち合わせていた。
「ねえ、お兄ちゃん、大丈夫?」
 運転席で、緊張の面持ちでハンドルを握り締めているのは、あかねの兄の武で、免許取立ての未熟さを如実にその雰囲気として表し、余裕の無さをその顔に出していて、あかねの問いにも「あ、ああ〜」と生返事をするだけだった。
 一応、ドライブに誘ったのは武だった。購入した中古の頭金をハンナに出してもらった義理もあるのだが、とにかく、免許の腕を誰かに見せたいという思惑が大きかった。しかし、彼の周りには冷静な知人が多いらしく、積極的に彼の運転する車に乗りたいと言う者は一人もおらず、仕方なく妹を誘い出し、その足で祖母の所にやって来て、彼女を外へと連れ出していたのだった。
 ハンナは、そういった意味で度胸があるわけでも、変な方向への好奇心が旺盛であるわけでもなかった。事故に遭って大けがをし、はたまた事故死などと言う負の想像が頭に浮かばないわけでもなかったが、それにも増して、先日検診を受けてきた病院での結果が、彼女の意識をどこかに吹き飛ばしていた。
 ――――――来週再検査を実施しますが、それで同じ結果が出るようであれば、ご家族の方も含め、ご相談しなくてはならなくなるかもしれません。
 喉に、今まで経験した事の無い違和感を覚え、痛みと腫れを感じ、忌まわしい記憶しか残っていない病院と言う所に久しぶりにやって来たハンナは、日頃殺しても死なないような体力と意識を持ち合わせていたので、地域で評判のその医者が、突然何を言い出したのかと驚いていた。
 最終的にはその再検査の後で、とお茶を濁した言い方だったが、まだ決定ではないと断りつつも、喉頭がんに間違いないが、一応、より詳しい再検査で確認をとるだけだからと言っている様にも聞こえた。
癌。
 どれだけ医術が進化しても、ハンナの世代にとって、『癌=死』と言う図式が脳裏にくっきりと浮かぶ病気だった。昨今TV等で、早期発見早期治療であればかなりの確率で治癒するし、新薬に加え新しい化学療法等も多々開発され、もはや絶対的な怖い病気ではないと言われているがーーーーーー、である。
 そしてその医師の言い方が、かなり悪性であることを匂わせている様にも思えた。
(私が?)
 ハンナは、まずそう思った。電気店で、そこに置いてあるTVが不特定の人に垂れ流している言葉の様に聞こえたのだ。しかし、肩を叩かれ、「ハンカチ落としましたよ」と直接言われて気が付いた観光客の様に、少し違う所にあった意識を、いきなりぐんと引き戻されたのだった。
私は癌である、と。
 四十代前半に見えるその医者は、誰に気遣っているのか、「いえ、まだ決まったわけではありませんので」と、愛想笑いをしていた。ハンナを元気付けているつもりなのだろうが、「何をこの人は言っているのか?」、と言う心の声を、なんとか胸の中だけにおさめる事だけが、彼女の精一杯だった。
 帰り道は、何を見、どんな音を聞いたか覚えていない。誰か近所の顔見知りと挨拶を交わした様な気もするが、それが本当だろうかと思える程に実感が無かった。気が付いたら、家の呼び鈴が鳴り、ドアを開けると、この世の全てが楽しそうなあかねの笑顔と、もじもじとばつの悪そうな顔をした武が立っていた。
 孫と言う存在は、不思議な美しさを持っていた。少なからず、自身の血がその体に流れているのかと思うと、何かしら自身の生きた証がある様に思えた。時に手を焼き、時に笑顔をくれた娘の子供達と思うと、お互いの間に繋がっている線が見えるようで、それを両手で糸巻きの様に絡めてから、そのまま抱きしめたい様な感情を持ったハンナだった。
 武の未熟な運転だから止めておこうなど全く思いつく事も無く、掛け値なしにかわいい孫達の誘いに、ハンナは二つ返事でその車に滑り込んだのだった。
 車窓に見える景色は、車があり、家があり、人がいて、時があった。
 長年生きてきたその町には、思い出の断片などを超えた生活の破片があった。武が転び、あかねがスキップをした歩道があり、るみが笑って手をつないでくれた交差点があった。そして、光司がひょいと買い物袋を取り上げて持ってくれた横断歩道下の信号機があった。そう、確かにここには、決して一人ではない生活の匂いがあったのだ。
 空いた窓から入り込んでくる風は、九月に入ったばかりと言うのに、もう冬の冷たさを想像させる張りがあった。
 ハンナは、近頃、思考ががゆっくりと動くように変わってきた気がしていた。段々と緩慢になってきた体の動きと比例しての事だろう、それは変に納得できる事だった。だが、先程医師から聞いた言葉には興奮剤が入っていたようで、大切な事から余計な事まで、色々な事が次々と浮かんで来て、後から上昇して来た気泡が前から浮かんでいるそれを押しのける様に、それこそ場所を争う様にしてハンナの思考の中で増殖していった。
(光司さんも、こうして告知を受けたんだわ)
 当時、彼の事を大切に思い、愛していた夫の病気を、親身になって一緒に受け入れた自負があった。治る事のへの絶望を味合わされた状況を夫婦で分かち合い、彼の身になって毎日を生きていたと思っていた。
 ――――――でも、違った。
 胸に響く悲しみは、それこそ拳で強烈に殴りつけられた様な痛みだと思っていたのが、実は、突っ込んで来たダンプカーに胸を強打され、そしてはるか後方に飛ばされた様な衝撃で、それこそ体から胸が後方に吹き飛ばされた様な辛さだった事に気づかされたのだった。
(光司さんは、この痛みと不安の中にいたのだ)
 ハンナは、自身が同じ立場におかれて初めて、その真の痛みを、そして悲しみと辛さを分かったのだ。『その痛み』と言うものが、『この痛み』として感じた瞬間だった。
 横を見ると、あかねは屈託の無い笑みで、何やら楽しそうに笑っていた。生きている事が当然の事で、楽しく笑える事が、まわりに酸素が存在している事と同じレベルの様に思っているように見えた。
 もちろん、そんな彼女の姿を見ても、怒りや嫉妬などはハンナの胸の中に浮かんでくる事は無かった。何故なら、自身も健康で、『今』と言う時を当たり前の事として生きていた時代があったからだ。それに気が付かずにいたあの頃、自身も同じ様に笑っていたはずだと思うと、とても彼女に対して怒りたいとは思えなかった。
「ねえ、お婆ちゃん。お兄ちゃんの運転って怖いと思わない?」
「え?」
「お兄ちゃんね、僕は運転がとても上手で、怖いなんて全然無いんだって自慢していたのよ。でも、なんだか危なかしいし」
 バックミラーに写る武の目が、忙しそうに、一瞬ハンナの目を捉えた。そんな事無いよ、と言って欲しい目だったが、やはり運転に余裕が無い様で、せわしなく前方に視線を移していた。
「そんな事ないって」
 焦ってしゃべる武の気持ちは、まるで姉の様に振舞うあかねに向かって、その口の様に尖っている様でほほえましかったが、ハンナ何も口をはさまず、ただにっこり笑ってやった。
 ふと、車窓から見える町の景色に目を移すと、最近ショッピングモールが出来、町のいたる所に、真新しい一戸建てが乱立を始めた隣町へと来ているのが分かった。
「この町は、本当に変わったわね」
 思わず呟いたハンナだったが、その小さな声は、武はもちろんあかねにも届かなかった様で、二人は何やら昨夜の家での出来事を話している様だった。



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