慈遠の創作小説.

創作小説、活動中。 不定期になりますが、Upしていきたいと思います。宜しくお願いします。

・雲の上から

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《説明》
 ⇒ 夫の死後しばらくして、見知らぬホテルから予約確認の
電話が入る。意外な事に、ホテルの者は夫の死を知っていて、
生前の夫の遺言だと言う。妻が訪れた先には・・・・・。
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[1]

 全てを知らなかったのは、ふみだけだったのだ。
「これが、本当の贈り物なのね」
 ゆっくりとカンバスの表面を指の腹で撫でると、懐かしい感触がそこに蘇った。窓の向こうに、真っ青な空が見え、それを暫く見上げてから、気持ちをゆっくりと言葉にした。
「ありがとう」
 -----と。

                  終わり





 ふみへ

 君がこの手紙を読んでいると言う事は、涼銘館から戻ってきて直ぐだと思う。そして、二つの事に驚いているだろうね。
 一つ目はこの手紙に。僕も生前そんな経験は無いから、君の心中を察する事が出来ないが、他ならぬ僕からの手紙だから、そんなに驚かないで欲しい。
 二つ目は、目の前にある油絵のセットに驚いている事だろう。結婚前、ふみが高校生から続けている油絵の事を楽しそうに話していたのは、いまでも不思議と覚えている。逆に、最近は昔の事を良く思い出すのだ。ふみと出会った事はもちろん、初めてふみのご両親に会った時緊張した事、そして初めて一緒に飲んだ酒。あ、そう言えば、初めてお母さんに作って頂いた料理も覚えていますよ。
 ふみは覚えていないかもしれませんが、お父さんが、『こいつはこれと言って得意なものは無いが、絵を書いている時は本当に楽しそうな顔をしていてね』と言ったんだ。きっと内気な娘に、せめて絵ぐらいは趣味として描かせてやって欲しいとおっしゃったんだと思う。
 しかし現実は、ふみも知ってのとおり、新婚早々多額の借金を背負わされ、二十八年間振り回されてしまった。そしてその完済から一息入れる間も無く僕が倒れ、今度は僕の面倒を見るだけの生活が始まってしまった。僕は、ふみを結婚ではなく、僕に縛り付けてしまったのかもしれません。本当に、申し訳無く思っています。
 ふみには感謝の言葉しか残っていません。本当にありがとう。

 色々迷ったのだが、これしか僕には思いつかなかった。三十年も待たせてしまったが、受け取って欲しい。気の向くまま、思いのまま、ふみが書きたいと思うものを、好きなだけ描いてみて下さい。
僕は、それを雲の上から見せてもらうから。

 ありがとう。
 そして、ありがとう。
                      豊彦




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雲の上から 第3話

 部屋でゆっくりとしながら、湯にあたった体を涼ませていると、この温泉街にも夜の帳が下り始めた。しかし、この温泉街で奥まった位置にあるこの旅館には、旅の恥はかきすてと騒ぐ男の声も、そして嬌声を上げる女の声も届かなかった。
 ひっそりとし過ぎている事で、何だか色々な物に自身が取り残された様な気持ちになりかけた時、先程ふみを案内した仲居さんがやって来た。そろそろ食事の準備始めたいとの事だった。ふみは、「はい、宜しくお願いします」と答えた。
 仲居さんの動きは、それが仕事だからと理解できる事を差し引いても、見事としか良い様が無かった。板前さんが作り上げた芸術品を、ふみの前に綺麗に、正確に、淀みなく、それでいて急かせる事も無く、見事な呼吸で対応していくのだった。美味しい料理に、まるでもう一品すてきな料理をつけて貰った様な、お得感さえ覚えるほどだった。
 ふみも三十年近く主婦として料理をして来ただけに、目の前に並べられた料理に手間ひまがかけられている事が分かるし、味の塩梅がどれだけ芸術の域にまで達しているかが分かった。量も十分で、一人で食べるのがもったいないくらいだった。
 楽しい料理が全て目の前から消え、最後に美味しいお茶が出された。食事中、ふみは少し日本酒を飲んでいたのだが、やはりこうして最後に濃い目のお茶を口に含むと、口の中に残る美味しさがぐっと締まる気がして、心地良くなるのが分かった。
「ごちそうさま」
 仲居さんも退席したこの立派な部屋の中で、一人、ふみは感謝の意を言葉に表していた。板前さんに、そして仲居さんとこの旅館にも。
 そして、彼女の頬を、ほんのり赤く染めたお酒がそうしたのかもしれないが、ふみの気持ちをセンチメンタルにさせていた。
(あなた。私は、こんな立派な部屋で、これまで食べた事も無い美味しい料理を頂きました。こんな贅沢を、私はして良かったのかしら?)
 昔を思えば、当然そうとしか考えよう無い疑問だと言えた。

 豊彦とふみの結婚は、まずまずの順風と言う中で船出した。豊彦が三十二歳、ふみは三十歳。初婚同士だったが、当時としてはお互い晩婚と言えた。
 そして別居の形を取った豊彦の実家は、豊彦の父金八が、大黒柱としてその役目を十二分に発揮し、いわゆる中流家庭の上位を歩く裕福な家族だった。そんな豊彦の実家に、突然の災難が降りかかったのだった。
 金八はその豪胆で磊落な性格から交友関係も広く、面倒見も良かった。そんな彼の元には、善良合わせて多くの知人が集まっていた。その知人の中に、口と勢いの良い男がいて、新しい事業を創めたく様々なプランを考えていて、その事業がいかに儲かるかを説いた。そして借金の保証人を依頼した上で、借金自体も三年で返せる事と、月あたりの謝礼額を提示した。金八は、即答はさすがに避けたが、その男の言う所の額でそろばんをはじき、保証人の印をついてしまった。
 そして彼の元には、月の謝礼も無く、その男が逃走をはたらいたと言う噂だけが届いた。
まさかと思ってその家に駆けつけた後、焦燥の中で家に戻れば、そこには目だけは笑っていない借金取りが待ち受けていた。
 驚く金八の前に出された借用書には、一億二千万円と言う額が記載されていて、誰もがその額に唖然とするしかなかった。金回りの良かった金八だったが、実状は見栄を張っている部分が多い彼に、今すぐ完済する資産があるはずが無かった。
 明確な答えを出せぬ金八を妻が背中を押し、弁護士に相談させた。やはり法的にも返済義務がある状況である事が分かった。二人の息子にも正直に事情を話し、家族会議の場が持たれた。当然、息子達から多くの叱責と怒りの声が上がったが、最終的には力を合わせてこの状況を乗り越えていく事になった。
 先ず、金八は自宅等の不動産を全て売りに出し、安い借家へと移動した。美術品などは殆ど二束三文だったが、たまたま付き合いで買っていた金と株が高値で売れ、それで借金は六千万となった。これを、金八・徹・豊彦の三人で返済していく事に決まったのだが、突然の心労がたたったのか、金八が食事中倒れると、嘘みたいにあっけなく担ぎ込まれた病院で息を引き取ってしまった。色々と処分した中に金八の生面保険があり、六千万の借金は見事に二人の兄弟に残ってしまった。
 めっきり年老いた母と二人の息子は葬儀の後直ぐに相談し、三千万ずつの借金返済と言う結論を出した。
 こうして豊彦とふみには、新婚早々、自分達には何も形として残らない借金を払い始める事になったのだ。はっきり言えば、安い給料の会社に勤めた豊彦にとって、三千万円と言う額は圧倒的な額だった。色々相談し、金利の低い銀行や信用金庫、もちろん会社にも借りて総返済額を下げる努力をしたが、当然払うべきお金が減るはずは無かった。
「家を建てていたと思えば良いじゃない」と言うふみの存在と、その健気さと明るさに豊彦は助けられた。そしてふみは、それほど丈夫ではない体をおして、パートを続けて家計を助けた。子供がいなかった二人には、若さだけがあったのかもしれない。
 二人は結局、二十八年をかけて、借金を完済する事が出来た。夫婦二人、二人三脚の二十八年間だった。最後のお金を払い終えた夜、豊彦は、ふみから初めて告白を聞いた。
 新婚早々多額の借金を背負わされたふみに、彼女の親戚の多くが、子供もいないのだから籍を抜いて戻って来る様にと強く勧めていたと言うのだ。
 いきなり目の前に現れた多額の借金に、前に進むしかないと思っていた豊彦にとって、ふみがその様な事を言われていたとは考えも出来ずにいたし、どこかで、夫婦とはそう言うものだと言う独りよがりの上に胡坐をかいていたのかもしれない。
 豊彦は驚きの表情を隠さずに、心をこめて言った。
「ふみが支えてくれていたから、今日まで来れたんだ。ありがとう」
 と。
 どちらかと言うなら妻に対して言葉足らずな豊彦が、恥ずかしく思う気持ちをぐっと抑えつつ、真正面から言ってくれた言葉は、ふみは素直に嬉しく感じる事が出来た。
「これからは、私達の第二の新婚生活だね」と言ったふみの言葉に、豊彦は、少し顔を赤らめていた。ふみは、それがとっても良い顔に見えた。
「豊彦さん・・・・」
 やはり、声の届く所に彼がいない事はさみしい、そう思うふみだった。

 翌朝、昼食と見紛うばかりの豪華な朝ごはんを頂き、温泉にもう一度心地良く体を沈めてから、涼銘館を後にした。
 その趣のある建物を出る時、担当の仲居さんはもちろん、鈴木さんも、そして女将さんを含む他の従業員も見送ってくれた。鈴木の言う「またお越し下さい」と言う言葉は、無理だろうと冷静に思う自分に十分気がつきつつも、心地良く嬉しかった。たった一晩と二食だけの思い出だが、忘れられない夫からの贈りものだと思えた。

 家に帰る旅程も、ふみは楽しく感じていた。余韻に浸りつつ、その楽しさを味わうことすら出来ていた。六十歳にして初めて、旅の心地良さに触れる事が出来たと感動していた。
 そんな上気した気持ちのまま家につき、これまで何度も開け閉めしたドアを勢い良く開け玄関の中に入ると、やはり嗅ぎ慣れた我が家の匂いが鼻腔に届いた。
「ただいま」
 短い廊下を抜け、旅行鞄をすっと居間に置いてトイレに行こうとした時、ふと、居間に対して違和感を覚えた。
(え、なんだっけ?)
 直ぐには分からなかったが、良く見ると、今の中央に、イーゼルに固定されたまっさらなカンバスが置いてあるのだ。
「どうして、こんな物が・・・・?」と恐る恐る近づいてみると、その直ぐ横にあるテーブルの上には、大小太さの違う筆が綺麗に並べてあり、更にその横には光沢のある綺麗な赤色のリボンがかけられた絵の具の箱があった。そして綺麗な枠のある一枚の紙に気がつき、手に取りその字を追ってみると、「嘘!」と呟いていた。
 そこには、ふみおばさんへ、と言う書き出しで始まる字が並んでいた。この世の中で、彼女の事をそう呼ぶのは、甥の博と仁しかいない。
 焦る気持ちのまま読み続けると、これは豊彦からの贈り物だと言うのだ。自身の死期が近い事を知った豊彦は、病院に二人の甥を呼び、事情を説明し、これらの物を買ってふみに渡す事をお願いしていたらしい。しかも、それは四十九日を過ぎた後、彼女が旅行に行くので家を空ける事になるそのタイミングで運び込む様に頼んでいたと言うのだ。ふみを驚かせようとする豊彦の意図があったのは容易に想像出来た。
 しかも、実は旅館に予約を入れて、豊彦から預かったお金を払い込んでいたのは、実は徹だったのだ。昨日彼は、そんな事をおくびにも出さずいたし、そのタイミングを息子達に知らせていたのだろう。
 そして最後に、豊彦から預かっていた家の合鍵を、玄関の郵便受けに入れている事が書かれていた。読み終えたふみがふと視線を落とすと、その紙が置いてあった場所に、手紙がある事に気がついた。手に取ると、『ふみへ』と言う字が見えた。
 ふみはゆっくりと椅子に腰を下ろし、封を開け、手紙を読んだ




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雲の上から 第2話

 ふみは、先週この涼銘館から電話がかかってきた時の事を思い出しながら、少しぬるくなった玉露を全て飲んだ。
「でも、本当に良い部屋」
 改めて首をゆっくりと回してみると、やっぱり、彼女自身が浮いている様な気がして、なんだか気恥ずかしく感じていた。
 すっかり忘れていたけれど、豊彦と旅行に行ったのは、新婚旅行が最初で最後だった事を思い出し、慌てて旅行鞄らしきものを押入れの奥から引っ張り出した。旅慣れしていないからと、時間に余裕を持って出発したので、JRの特急と快速を乗り継ぐだけの道程では、チェックインの三時前に付いてしまったのだ。
 でも、結果として、それで良かったとふみは思っている。
 鈴木が郵送してくれた手紙には、旅慣れないふみでも、間違いようの無い程親切な地図と行程表が書かれていて、その通りに来ただけで、涼銘館に着く事が出来たのだ。
 駅から降りると、古き良き温泉街の風情があちらこちらに見受けられる石畳を歩き、そして一番奥まった所に目指す旅館はあった。いちげんさんを軽く押し返すに十分な門扉が有り、もちろん扉は開いているのだが、年月の流れを感じさせる厚いわらぶきのそれがあまりにも堂等としていたし、水打ちされた塵一つ無い飛び石の向こうに見える家屋は、その入り口に吊り合う立派な風情をかもし出していた。
 実はふみは、その前でくるりと回れ右をして、駅から歩いてきた道を途中まで引き返していた。立派な造りのそれを見て、本当は騙されているのではないかと思ったのだった。
 そして、降りた駅舎が肉眼で見える所まで来た時、ふと、豊彦の兄である鐘崎徹の事を思い出した。そして義兄なら、実の弟が計画したと言うこの事を本当か嘘か分かるかもしれないと思ったのだ。ふみは少し小走りになり、駅の公衆電話に飛びついた。手帳をめくり、その電話番号をダイヤルすると、電話の向こうに聞こえた声は、タイミング良く徹だった。ふみは、簡単にこれまでの経緯を説明した。
「ふみさん。それは豊彦のした事に間違いないですよ」
 徹の回答は、即答であり、明確だった。しかも、そうかそうかと笑っていた。
ふみが確認の為に、更にもう一度尋ねた。すると徹は、生前豊彦がその旅館の事を誰かから聞き、いつかはふみを連れて行きたいと言っていたのは間違い無いと念を押してくれた。それに、もし万が一偽りであったとしたら、その旅の費用は一切僕が責任を持って払うから、楽しんで行ってらっしゃいと言い足してくれたのだった。
 もちろん、もしお金が発生したとしても、自分で払うつもりだったのだが、徹がそこまで踏み込んで答えてくれた事で、気持ちが軽くなったのは間違いなかった。
 突然の電話を改めて詫び、そして感謝の意を告げてから、ふみは電話を切った。
(良し、行ってみよう)
 ふみは、気持ちを入れ替えて旅館までの道を引き返した。ちょうど三時を過ぎた頃で、仲居さんは、旅慣れしていないふみを導くようにして部屋に案内してくれた。それは、長い畳の廊下を歩き、一番奥まった部屋だった。それが、今いるこの部屋なのだ。

 文句の付けようが無い部屋だったが、旅慣れしていない彼女がじっと座っている事は、手持ち無沙汰である事は間違いなかった。
「そうだわ、確か温泉があると・・・」
 先程お茶とお菓子の準備してくれた仲居さんが、この旅館には浴場があり、それが温泉である事を説明してくれた事を思い出したのだった。ふみは身支度をして、部屋を出た。
 浴場は直ぐに分かった。大きな赤色の暖簾が、そこが女湯である事を表していた。
 ゆったりとした造りの脱衣所は、外の日の光が綺麗に引き込まれていて、きちんと整理された空間に、綺麗な雅楽の音でも流れていそうな優美さがある荘厳な造りだった。チャックイン時間からまだ殆ど時間が経っていない事もあって、脱衣所には、ふみの他に利用者を見る事が無かった。
 それで少しホッとしつつ、ふみは帯を解き始めた。この様な高そうな所に来るお客だどんな人か考えれば、ちょっと緊張してしまうのが彼女としての正直な所でもあった。
 浴場は檜の内風呂の他に、巨岩で造られた露天風呂があった。ふみは手早く体を洗い終わると、露天風呂にゆっくりと体を沈めた。浴槽内に沈められた石の上の腰を下ろすと、湯の高さがちょうど腋の高さになり、大気を肩で感じながら入る事が出来た。
「ふー」と、大きくため息をつくと、ゆらゆらと立ち上がる温泉の湯気が、緩やかに前方に走って行き、温泉のほぼ中央に鎮座していた岩の姿をはっきりと見せた。それはちょうど背中を見せた豊彦の輪郭に似ていて、今日も彼の事を思い出させた。
 先週、豊彦の四十九日を無事済ませていたが、時折思い出す彼は、思い出す度に、色々な年齢の姿をしていた。そして今回は、二年前、ふみに体調不良を訴え、夕食前に畳の上に倒れこんだ時の彼だった。
彼女の前に姿を表す彼は、彼女の言葉に返事をするわけではなく、まるでドキュメントフィルムを見る様に、彼女の中で記憶されている情景そのままを見せるのだった。
 何事も辛抱強く、高熱や少しの頭痛等では無理やりがんばってしまう夫が、妻の目の前で倒れると言う事から、夫の痛みや苦しみは尋常なものであるはずが無いと想像できて、背中に嫌な感覚が突き抜けたのをはっきりと覚えている。
「あなた、あなた、どうしたの?」
 ふみの問いに何も答えない代わりに、その額に浮き出した脂汗と、明らかにいつもと違う顔色の悪さが、どれだけ彼が酷い状況であるかを容易に伝えていた。何より、ふみの声が耳に届いていない事が、本当に危ない事態に陥っている事を連想させていた。
 ふみは、その人生で初めて乗った救急車の中で、救急隊員の二人に囲まれて体を横たえたままの夫を見守っていた。時折隊員が、「奥さん、旦那さんに声をかけて下さい」と言ったのが分かったが、驚きの中にいる彼女の体と思考では、言いたい事は山ほどあるのに、言葉としてそれを表す事を許さなかった。心的極限状態にある彼女には、少し開きかけた口を、時々ぱくぱくとさせる事しか出来なかったのだ。
 一分が一時間にも思える時間が過ぎ、救急車は病院に着き、豊彦は看護婦が押すストレッチャーで、リノリウムの廊下を勢い良く運ばれていった。ふみも気持ちは彼を追いかけていたのだが、腰から下の力が抜けてしまった彼女は、その場に座り込んでしまった。
 悪夢の様な時間は過ぎ、いつの間にか廊下の長椅子に座っている彼女の横には、豊彦の兄の徹が座っていた。完全にオロオロとしてしまった彼女にとって、徹が来てくれた事は、かなり心強く、それから朝まで夫の事を待つ事が出来た。
 小康状態を朝まで続けた豊彦だったが、結果として、その日は一命を取り留める事が出来た。ふみも徹もほっと胸を撫で下ろす事が出来た朝だったが、翌日再検査をした結果を、血液検査も含めて三日後に聞いた時は、愕然とするしかなかった。
 そして、不治の病と付き合う二年間が始まった。それは、いつ破裂するのか分からない爆弾を持ち続ける恐怖と似ていて、がりがりと神経を削り取る辛い日々でもあった。
「そして、あなたは逝ってしまった・・・」
 ふみの前に立派な露天風呂の景色が浮かび上がると、肩までさっと湯船に一瞬だけ浸かり、ゆっくりと立ち上がった。

 

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雲の上から 第1話

   「雲の上から」
                     慈遠

 障子とガラスの二重窓の向こうに、秋の準備を始めた山の緑が見える。
 風がその立派な杉の木々を柔らかく揺らし、そのままこちらに向かってきて、樹木の心地良い匂いを部屋の中まで運んできていた。そしてそれは浴衣に着替えた鐘崎ふみの頬をなで、肩を優しく抱いて行った。
「うそみたい」
 ふみは、その掃除の行き届いた、そして十六畳もある床の間付きの部屋を、もう一度見渡した。猫足をした漆黒のテーブルの上には、一見して高価と分かる和菓子が、先程きっちりと着物を着た仲居さんが置いて去っていったままになっていた。
 分厚い座布団にちょこんと座ったまま、他に誰もいないのに、気を使いながら茶碗を取り、口元に運ぶ。芳醇な玉露の香りが、鼻腔を気持ちよく触るのが分かった。
「美味しい」
 そのいっぷくで、気持ちが少し落ち着いていくのが分かった。
 だがそれだけでは、三十歳で結婚し、六十歳を迎えたこの年まで、贅沢とは対極にいる生活の中で全力疾走をしてきた彼女の生活が、彼女にこの豪華な旅館の部屋を楽しませるまでには至らなかった。
「慣れないものね」
 ふみはそう呟きながら、先週の金曜日の事を思い出していた。


 その日は、夫豊彦の四十九日を無事済ませた翌日だった。
 通夜、そして葬儀はわけの分からないうちに時だけが過ぎ、記憶に留める事が出来ない程のお悔やみの言葉が彼女の頭上をすりぬけたが、それを亡き夫への事だと理解するには、気持ちが追いつかなかった。ただありがたい事に、夫の親族がそう行った冠婚葬祭の事に明るく、未亡人となったふみを労わりながら、万事粛々と進めてくれたのだった。
 そして、ふみの気持ちがやっと彼女の体に追いついたのが、初七日を無事済ませた夜だった。冷静にこれまでの事を、正面から見る事が出来た日でもあった。
 豊彦は、その二年前に倒れ、入院生活を余儀なくされた。長年の労苦がその内臓に対価としてはびこり、病巣は、良い場所を見つける事が出来ぬほど広がっていたと聞いた。
「残念ながら、治癒を見込める状況ではありません。いかにこの病気と付き合っていくか、対応していくかしかありません」
 結局二人の先生に診て貰ったのだが、答えは同じだった。一人の先生からは、一年も苦しいかもしれないと言われていた事を考えると、よく二年間がんばってくれたとも思えた。いやきっと、豊彦の事だから、我慢に我慢を重ねた結果だったとも思える。
 完全看護での入院ではあったが、子供がいないふみにとって夫は全てであり、日参する事で労苦を共にした夫の病苦が和らぐと言うのなら、経済的にもそして体力的につらくても欠かす事など考えられない二年間だった。
 そんな二人の闘病生活の後、豊彦は逝った。
 そして四十九日を迎えた翌日に、真っ白な封筒に『鐘崎ふみ様』と宛名書きのされた手紙が届いたのだ。信じられない事だったが、それが長年見慣れた夫の字である事は間違いなかったし、くるりと裏返してみた差出人には鐘崎豊彦の名前があった。
「どうして?」
 ふみが呟きながらもう一度表面を見ると、消印は昨日の日付になっていたし、収集場所を表す地名がこの地域になっていた。不思議な事に、誰かがたちの悪いイタズラをしたと考える前に、何が書かれているのだろうと言う思いで彼女の頭の中はいっぱいになった。
 彼女自身、まず気持ちを落ち着けようとソファーの上に腰をおろし、鋏を入れて封を切ると、そこには三つに折りたたまれた紙が見えた。『とくん』、と心臓が、一つ大きく打ったのが分かった。少しだけ震える手で手紙を取り出すと、封筒を膝の上に置き、ゆっくりと手紙を読み始めた。
 文頭、おそらくふみが驚いているだろう事に触れ、これは豊彦自身が書いたものであり、博君に四十九日が済んだら投函してくれと頼んだ物だと書かれていた。博君とは、豊彦の兄の息子にあたる人で、つまり豊彦の甥である。確か、今年三十二歳だったとふみは記憶している。
 手紙には、これまで色々世話になった事が書かれ、そして強く感謝している旨が不器用な言葉で、しかし力強くしっかりと綴られていた。そして最後に、妻に対して何もする事が出来なかった夫である事を詫び、ささやかであるが、近日中に贈りものが届くから受け取って欲しいと綴られていた。
「何を、言っているんですか、あなた・・・・」
 届くはずの無い手紙を受け取りながら、届くはずの無い問いかけをふみは呟いてから、膝の上に乗っている封書を取り上げた。そこには、彼女自身もっとも慣れ親しんだ『ふみ』と言う字が、親しみのある字で書かれていた。墨で書かれたその字を中指の腹ですっと触ると、二つのひらがなが涙で滲んで見えなくなった。

 豊彦が言う近日は、その手紙を受け取った翌日にやって来た。
 ふみが洗濯物を干し終わって居間に戻って来た時だった。少し柔らかい着信音が固定電話から流れ、ふみの手を取らせた。
「はい、鐘崎でございます」
「こちら、涼銘館、鈴木と申します。お世話になっております。失礼ですが、鐘崎ふみ様でいらっしゃいますでしょうか?」
 優しい響きのある、男性の声だった。しかも、接客業として年季を感じさせる、流れるような言葉運びだった。
「はい、鐘崎ふみは私ですが、リョウメイ・・・? すみません、どちら様ですか?」
「当方は、りょうめいかん、と申しまして、長野県にて旅館を営んでございます。実は二ヶ月前、鐘崎豊彦様から、ふみ様御一名にてご予約を頂いております」
「旅館? 鐘崎豊彦が? 一名? 予約? え、長野?」
ふみは混乱のあまり、頭の中で浮かんだ単語を思わず受話器に向かって口走っていた。しかし、鈴木はそれに驚く事も無く、一言一言を大事に、そしてしっかりと伝え始めた。
「驚かれたかと思いますが、当旅館におきましては、鐘崎豊彦様からご予約を頂いておりますので、ふみ様のご宿泊を、社員一同お待ち申し上げております」
「でも、そんなこと・・・」
「鐘崎様からは、既に料金も頂戴しております。また、鐘崎様が選びになった御部屋と御食事を、当日御用意させて頂きますので」
 熱心に、そして丁寧な言葉が、ふみの中で、昨日豊彦からの手紙にあった『贈り物』を思いださせていた。
(これだったのね)
 ふみの中で、『ぴん』と、発想と答えが一致した。
「分かりました」
「それでは、当旅館までの地図を記載致しました手紙を送付させて頂きます」
「・・・・あ、住所は」と言いかけた言葉を、鈴木が留めた。
「ご住所は、既に鐘崎様か伺っておりますので、結構でございます。それでは当日のお越しをお待ち致しております。失礼致します」
 鈴木は丁寧に言い終わるのを聞いて、ふみは電話を切った。
 昨日、豊彦からの手紙を受け取っていての今日の電話だったが、あまりの事に、何やら騙されているのではないかと思わないでもなかったが、四十九日を終えて、どこか悲しみを受け入れられる状況に入っていた気持ちに、ふみは淋しさに似た感情を持っていた。
(騙されても・・・・良いかな)
 少し、開き直りにも似た感情を持ちつつ、ふみはそれに流されてみようと思った。




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