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十 「六年なんて、あっと言う間ね」 ふみよは、今日、礼服として着た少しくたびれてしまった黒のワンピースを、部屋の壁に掛けながら、一人ごちた。 真太を坂本の家に戻した後、拓は、僅かな心の支えとして持ち続けていた息子の存在と言う気力を無くした為か、余命三ヵ月と言われていながら、僅か二週間で、鬼籍に名を並べてしまった。それは、冬に落ちた小枝を踏み折るよりも簡単であっけないほど、そして嘘のような亡くなり方だった。 亡くなる前日、頭が少しぼっとするとふみよに言ってから、いつもより早めに寝入った拓は、翌朝、蒲団の中で冷たくなっていたのだった。 同じ家に居ながら、うめき声一つ聞かなかったと言うふみよが、朝いつまでたっても起きてこない彼を起こしに行って、そのまま第一発見者になったのだった。 その死に顔に苦痛は見えず、最初、夢でも見ながら寝ているのだろうと思ったほどだった。顔は確かに青白かったものの、その事さえ省けば、眠るように旅立っていったと言う言葉がぴったりな、穏やかな表情をたたえていた。 砂場に音も立てず着地する鳥の様に、『すっと』亡くなった拓だったが、当然、彼の遺体の周りでは慌しく、あれよあれよと言う間に、通夜・葬式が過ぎ去っていった。 そして気がつけば、更に六年の月日が流れていた。 七回忌と言っても、檀家のお寺さんに行き、お坊さんの後ろで、お経が流れているのを僅かな数人の親類と一緒に聞くだけだった。 確かに過ぎ去ってみればあっと言う間だったが、息子を先に見送ったふみよは、ふっと気を抜けば泣いてしまい、拓の写真を見ては泣いてしまい、彼の匂いが僅かに残る服に顔をうずめては泣いてしまう日々を繰り返していた。だが二年目を迎えた頃から、拓の事を思い出しても、泣かず過ごす事が出来る様になっていた。 それにふみよには、のんびり泣き臥せっている時間は無かった。なにしろ、強くしなやかに生きていかなくてはならない理由が出来ていたのだから。 「真ちゃん、宿題は?」 「もう終わったよ。僕、お腹すいちゃった〜」 「あら、もうこんな時間なの!」 壁に掛かった安い古時計を見上げたふみよは、その言葉ほど慌てる様子も見せずに、夕食の準備に取り掛かった。 真太がふみよの所にやって来たのは、拓が亡くなって二ヶ月後の事だった。 拓の霊魂が呼び寄せたのか、彼の四十九日の夜、警察から一本の電話があった。あの事故を起こした犯人が分かったと言うのだった。別の事故を起こして逃げていたその犯人は、目撃者の証言で、即日警察に捕まった。 しかも逮捕された際、捕まえに来た警察とその犯人のやり取りに、ずれが生じていた。と言うのも、その犯人は警察が彼の家に逮捕しに来た事を、今回の事故ではなく、拓を巻き込んだ事故だと勘違いして、受け答えをしたと言うのだ。最初、要領を得なかった警察も、どうも別の事故を自供している様だと言う事に気がつき、警察署で改めて詳しく事情聴取した結果、拓の事故を引き起こしていた事を白状したのだった。 その上で、事故の全責任が自分にある事を認め、あの自動車ディーラの修理代として払ったお金を、そっくり揃えて持って来たのだった。不思議な事に、警察から逃げ回っていたくせに、ふみよの前に、全額を現金でさっと揃えたのだ。実は資産家でお金など右から左に準備できるくせに、単に、事故そのものから逃げ出していただけだったのだ。 (拓は、このお金の為に・・・・・)という思いを抑えつつ、四十九日の日に分かったこの真相を、拓があの世から念を送った結果だと信じてやまないふみよは、その足で坂本の家を訪れた。 このお金をそっくり返すので、真太を引き取りたいという申し出だった。拓は既に他界し、他に頼りになる親族も知人もいない彼女だったが、不思議にそう言った事に心配をするどころか、気にもせず、たった一人で事に当たったのだった。ただひたすらに、息子の念を背負って歩き出したいと言う気持ちしか、彼女の胸の中には無かった。 但し先方は、海千山千の男達で、お金を今更揃えたからといって、状況を元に戻しましょうとは言うはずも無く、けんもほろろに断られた。 しかしふみよは諦めなかった。何度も何度も断られたか、それこそ拓の魂が彼女の体にのりうつったかの様に、夜討ち朝駆けで何度も交渉に行き、その度に熱い想いを真っ直ぐにぶつけた。駆け引きも何も無い、ただ目の前にある相手に向かって、下っ腹に力を込め、押して押して押しまくった。 彼女の前に立ちはだかる壁は、非常に高く大きかったのだが、意外にも、坂本英一郎の首を縦に降らせたのは、真太本人だった。拓と別れて以来、坂本の家で過ごしていた真太だったが、実は呼吸すら控えてするくらいに、ひっそりと静かに、そして目立たぬ様に生きていたのだった。 そして、拓のまさかの死を噂でやっと聞いた真太は、その枕元に行く事も許されなかった。そして葬儀にも参加させてもらえず、通夜の席にだけ、しかも佐々木同伴で焼香を許可されただけだった。 これらの仕打ちは、とても受け入れられる事では無かった。 坂本英一郎に対する抗議として、その後、真太はそれこそ感情を殺した人形のように毎日を送り始めた。僅か四歳の小さな反抗だったが、年齢が若いだけに、その意思は痛いほどに、祖父である坂本英一郎の胸を締め付けていった。 そんな時期に、ふみよがやって来て、申し出をぶつけ始めたのだった。昔では考えられなかったが、歳を取って残りの寿命について考えるようになったからか、それとも真太の抗議を真剣に受け止めたからか、いや、別の何かが作用したからか分からないが、坂本英一郎はふみよの願いを受け入れた。実はこの後、半年も待たずして坂本栄一郎が永眠する事になるのだが、今思い返せば、その死期を予感しての判断だったかもしれない。 結局、今となってはその真相は分からないが、こうして、真太とふみよの生活が始まったのだ。 ふみよは、最初こそ拓の死の悲しみを押しやるようにして毎日を送っていたが、日に日にその息子の顔に似ていく孫の顔を見ていくと、不思議な力が胸の中に浮かんできては、指先や脳天の先まで、元気となって駆け巡っていくような気がしていた。 祖母になった年齢で、もう一度子供を育てるという事は、ある意味、もう一度戦争を始めると言っても過言では無かった。感傷に浸る時間等、あろうはずが無かった。 しかし不思議な物で、時の流れと言うものは、彼女の心に、ある余裕を持たせる事が出来る様になった。 最近ではあるが、時々ふみよ自ら、真太に拓の事を尋ねる事が出来る程にまで、息子の死に対する免疫が出来る様になっていったのだ。 「ねえ真ちゃん。お父さんの事考える事、ある?」 「うん」 「寂しい?」 ふみよは真太に対し、もしそう言う気持ちがあれば、遠慮なく自分に言いなさいと言うつもりで聞いたのだったが、真太は、けろっとして答えた。 「寂しくないよ。だって、お父さんと僕は、いつも一緒にいるもん」 ふみよは思わず「一緒って?」、と聞き返そうとした言葉を飲み込んだ。そして思った。最近彼女自身は感じなくなったのだが、この孫は、あの息子の存在に今でも触れ、そして生きる力をもらっているのではなかろうかと。 拓の事なら何でも知っているし、何でも良く分かっていると自負してきた母にとって、孫の真太が感じているという『それ』を知る事が出来ない事に、少し寂しくもあった。だが、彼女が知りえない子を思う父親と孫の関係がそこにあるのだろうと思うと、誇らしく感じる事が出来た。 最近外を歩いている時、 「拓。真ちゃんはね、あなたのお陰で、とても強く生きていますよ」 と、青空に会う事が出来れば、必ずそう伝えるふみよだった。 「拓。真ちゃんはね、あなたがいなくて淋しくても、がんばっていますよ」 と、曇り空に会う事があれば、必ずそう伝えるふみよだった。 「拓。真ちゃんはね、今日もあなたが大好きだと思っていますよ」 と、夕日に会う事があれば、必ずそう伝えるふみよだった。 そして、星に会う事があれば、必ずそう伝えるふみよだった。 「拓。お母さんはね・・・・・」 完 本書は、歌手:スキマスイッチさんの歌、『奏』に対するオマージュです。この素晴らしい曲との出会いが無ければ、成立しなかった作品です。 ==================================================================
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・奏
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《説明》
⇒歌手、スキマスイッチさんの同曲『奏』に感動し、そして、胸に浮かんだ気持ちを作品に。 いちファンとしてのオマージュです。
⇒歌手、スキマスイッチさんの同曲『奏』に感動し、そして、胸に浮かんだ気持ちを作品に。 いちファンとしてのオマージュです。
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「小橋さん」 ふいに声がした方を向くと、そこにはかっちりスーツを着込んだ坂本の顔があった。 「あっ」と、驚きの声を上げて立ち上がると、手を繋いでいた真太も一緒になって立ち上がる結果となった。 すると、不意に真太が呟いた。 「お爺ちゃん・・・・」 拓は、真太はいったい何を言っているのだと思い前方を見ると、坂本のやや斜め後方に、びしっとしたスーツを着込んだ初老の男性が立っていた。 「坂本英一郎----加奈子の父親です」 「加奈子のお父さん・・・・」 拓は、それこそ、息が詰まるかと思った。考えてみると、反対を押し切っての結婚だっただけに、未だに一回もあったことの無かった加奈子の父親だった。加奈子は拓に気を使ってか、父親の話を殆どしなかったし、写真を見せた事等一回も無かった。あの頃は拓も若く、どうして分かってくれないのかと言う恨みの気持ちしか持っていなかったし、ついこの前は真太を放り出すようにしていた事にも、そして事あるごとに拓の就職採用に圧力をかけていたその人物に対しては、怒りを覚えていた。会った事が無かったからこそ、彼のイメージは、拓の中で悪の権化の様になっていたのだった。 だがこうして目の前にいる人は、この地域一帯の名士であり、莫大な財産を持ち合わせている人物とはとても見えない弱々しさがあった。なんだか、肩をぽんと押せば、そのまま後ろに簡単に倒れそうな気がするほどだった。 考えてみると、僅か半年の間に、一人娘と一人息子を次々に亡くし、係累と呼べる者は、既にこの世に真太一人しかいなくなっていたのだった。 そんな姿を見ていると、拓の中で長年眠っていた怒りが嘘の様に消えていった。 「初めまして、小橋拓です。この度は、ご愁傷様でした」 それは、以前妻だった加奈子の事を言ったのか、それともついこの前亡くなったと言う息子の徹の事を言ったのか分からなかったが、気がつけばその様な言葉が拓の口からついて出ていた。坂本英一郎は素直に、無言のまま頭を下げてその言葉に答えた。 すると、そこにすっと入り込むようにして、佐々木が拓に声をかけた。 「そろそろ時間ですので、真太君をお連れしたいのですが」 その言葉で、拓よりも真太の方がびくんと驚いて見せたが、拓は自分の気持ちを落ち着かせるようにしてから、「はい」と答えた。そして、腰を曲げ、膝を折り、真太の顔の高さに自分の顔を合わせた。 「真太、時間だ。これから、お爺ちゃんと佐々木さんの言う事をしっかり聞いて・・・・」 言葉を最後まで言う事が出来なかった拓同様に、真太も何も言う事が出来ずにいた。 立ち上がった拓は、すっと佐々木を見た。 「列車はいつ?」 「あと二分で入ってきます」 「そうですか、では、列車の乗り口まで、見送ります」 この場で真太を連れて行こうと思っていた佐々木だったが、拓の強い意思を持った言葉に押されて、「分かりました」だけ答えた。 先に佐々木と坂本が歩き、その後ろを拓と真太が歩き始めると、構内放送が、佐々木が言った列車がホームに入って来る旨を伝え始めた。 そして列車がホームに滑り込み、乗客が先を争って乗車口近くに列を作った。そして停車後降車客を吐き出したその列車の中に、その列はすすっと消えて行き、ホームに残ったのは拓達四人だけとなった。 佐々木と向き合う形になった拓は、真太の手を繋いだまま、二人に対して深々と頭を下げた。 「真太の事、宜しくお願いします」 坂本英一郎は、小さく二回頷いた後、一言「必ず」とだけ、力強く言い切った。その後二人は一瞬見つめあい、坂本の口から「お体・・・」といいかけたのを、拓は無言のまま左右に大きく首を振った。 拓は思った。この目の前の老人は、拓の病気の事も知っているのだと。でも今は、これまで真太に秘密にしてきた様に、これを話すべきではないと思ったのだ。四人は改めて乗車口に移動し、まず坂本が乗り込んだ。 すると、発車のベルが構内に鳴り響いた。 (ついにこの時が来てしまった・・・・・) 頭を殴られたような感覚を拓は受けたが、すっと出てきた佐々木が真太のもう一方の腕を取り、そして歩き出した。力を抜いた拓の手から真太の手が解けて、二人は拓を残し歩き始めた。 真太は我慢しているのか、それとも泣き顔を見られたくないのか、佐々木に手を引っ張られてながらも、拓を振り向かずに歩いていた。 発車のベルは鳴り続け、その音も消えようとした時だった。 無意識のうちに、拓は叫んでいた。 「真太!」「真太!」「真太!」 そして、真太の前に走り出していた。 拓は、乗降口のドアの所に半身を滑り込ませたまま床に片膝をつき、不安定な姿勢のまま抱きしめていた。坂本と佐々木は、そんな拓の突然の行動を咎める事も、ましてや止める事も出来ず、ただ見守っていた。 拓はただ夢中のまま、真太の壊れそうな肩をぎゅっと抱きしめていた。 暫くして、発車のベルの音が止まったが、拓は真太を抱きしめ続ける事を止めなかった。異変に気がついた駅員が、拓の下に小走りでやって来るのを、佐々木が見つけた。ドアから不自然にはみ出していた、拓の足に気がついたからだ。 「小橋さん・・・・」 佐々木の呼びかけで、やっと我に返った拓は、後ろから抱きかかえていた真太の体を離し、改めて自分の方に向かせ、そして両肩を持ったまま顔を近づけた。 「真太」 まっすぐ彼の目を見て、そして「さよなら」に代わる言葉を、拓は真太の耳元ではっきりと伝えた。真太が、うん、と大きく頷くのを見て、拓はゆっくりと真太の両肩から手を離した。 それと同時に、駅員が、その表情に少し怒りの色を見せつつやって来た。 「お客さん、困りますよ!」 すると、拓が謝るより早く、坂本がその駅員に声をかけていた。 「いや、すまなかった。駅長には、私の方から後で謝っておくから」 「駅長って、あなたね・・・」と言いかけてその初老の男を改めてみた時、その駅員の顔がさっと変わるのが分かった。その声の主が、誰であるかが分かった様子だった。 「あ-----坂本様のお連れの方でしたか。あ、はい、分かりました。いえ、そんな-----駅長にご連絡など結構ですので・・・・・」 拓も素直に乗車口から後方に下がったのを見て、少し慌てた駅員は改めて旗を振り、やきもきしている車掌に発車の合図を送った。 拓は、声に出さぬまま「ありがとうございました」と坂本に礼を言った。坂本は、小さく一度、うんと頷いた。 そして列車のドアが閉まり、真太の顔がぎりぎり窓の下部分に見えた。真太は一生懸命に背伸びをして、そして右手を大きく振って、それこそ必死に少しでも多く自分の姿を拓に見せようとしていた。 列車は少しずつ動き始め、ホームを走りながら拓も一生懸命手を振っていたが、彼の駆け足より列車の速度が上回ってから、その距離はぐんぐんと広がってしまった。 拓と真太の距離は、どんどんと広がってしまったのだ。 声が届かない扉の向こうで、真太が何かを言っていた様な気がしたが、拓の耳にはそれがなんであるかは届かなかった。 そして、既に見えなくなった列車を立ち尽くして見送った拓は、ぽつり、と思った。 (残されたのは、俺の方か・・・・) そして駅員の奇異な視線を受けつつ、拓は弱々しい足取りでホームを戻り、そして改札口を抜けた。 改札の向こうでは、夜が口を開けていて、淋しい男の帰りを待っている様だった。 ==================================================================
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結局閉演ぎりぎりまで遊びまわり、それこそ真太はへとへとになるまで走り回っていた。途中お土産屋で見つけたキャラクターのロボッを拓に買ってもらい、彼の機嫌は更に良くなっていた。 「真太、帰るぞ」 「はーーい」 表情に少し残念な気持ちを表しつつ、しかし大満足の雰囲気をその小さな肩に見せながら、二人は列車に乗り込んだ。 車内は適度に空いていて、向き合った四人掛けの席がいくつか開いていて、真太は滑り込むように進行方向が見える窓際の席に腰を下ろした。左手には、先ほど買ってもらったロボットが入ったお土産袋を持っているので、大切に椅子の上に置いた。 列車が動き出しても、真太の遊園地で過ごした興奮は冷めない様で、彼が今日乗った遊具の一つ一つを、あれがどうだったからこうだったと一生懸命に力説していた。それは、あたかも今も乗っているかの様な生き生きとした説明の仕方だった。 一方拓は、真太にこれからの事を説明するタイミングとしては、もうぎりぎりの時間となっている事を考え、焦り始めていた。だからと言うわけではないだろうが、真太に向かってやっと発する事が出来た「あのな・・・」と言う言葉は、彼自身情けないくらい小さくて、真太には届かなかった。大きく空振りをしてしまった拓は、次の言葉を投げかける力とタイミングを逸してしまっていた。 そんな拓の気持ちなど知る由も無い真太は、ころころとした笑顔を見せていて、そんな彼を拓は見つめながら、佐々木と交わした約束の事を思い出していた。 このクリスマスに、拓は真太を連れて遊園地に行く事は告げており、真太をその帰りに、ホームで受け渡す事になっていたのだ。そして、約束の時間迄に、後四十分程を残していた。 そして無情にも、車掌のアナウンスが、次の停車駅がその駅である事を告げた。 「降りるぞ」 「うん」 いつもよりやや低めの拓の声に、元気良く立ち上がった真太だったが、列車の減速に体勢を崩してしまった。拓はすっと彼の体を受け止めたが、リュックから顔を出していたジュースの缶が乾いた音をして床に落ち、そのまま通路向こうの老夫婦の所まで転がって行った。 そのお爺さんが緩慢な動きでジュースを取り上げ、急いで駆け寄った真太に手渡した。 「はい」 「ありがとう」 元気良く答えた真太の返事に満足したお爺さんはにっこり笑い、腰掛けていたお婆ちゃんも、お爺さんと同じ笑顔で微笑んでいた。 「ありがとう御座います」 拓はすっと頭を下げ、素直に礼を述べた。 「かわいらしい息子さんですな」 「ええ」と小さく答えた後、一瞬の間の後に、恥ずかしそうではあるが大きな声で答えた。 「はい、自慢の息子です!」 拓はそう答えた後、完全に停車した列車から降りるべく息子の背を押して通路を歩き出した。 そして下車後、再び発車した列車に、真太は機嫌よくバイバイをした。 列車がホームの向こうに見えなくなると、真太は当然の様に「帰ろう、お父さん」と言って改札口に向かって歩き出した。小さな駅だったが、列車から吐き出された人の波が拓の背を押したので、気がつけば二人は、改札近くまで移動していた。 「真太。・・・・・・もう少し、列車見ていこうか」 不意に拓の口から出た嘘だったが、真太を握り締めた手に力を込め、両足をぐっと踏ん張り、同意を求める言葉遣いながら強い強制力を真太に伝えていた。 「え?」 「ほら、真太は、列車さん見るの好きだろう。もうちょっとだけ」 「---------うん」 突然の事に、何となく釈然としない気持ちを持ちつつも、真太は拓に引き連れられるまま、ホームの椅子に腰を下ろした。 「すぐ、来るかな?」 「すぐ、来るさ!」 時刻表など頭に入っていない拓は、適当な返事をしてから、次の言葉を一生懸命に捜していたが、彼の口から出てくる言葉は何も無かった。ただ、椅子に座っても握った手を離そうとしないその小さな手を、ただただ握り返していた。 『はっ』、と不意に思い出し、拓は周りをきょろきょろと見渡したが、ホーム内に、佐々木の姿を見つけ出す事は出来なかった。 (良かった、まだ来ていないか・・・) それで少し安堵したものの、今生の別れが迫っている事に間違いは無かった。それを認めたくない気持ちだけが、一秒毎に彼の中で倍増していっていた。 (だめだ・・・・) そう思った時、目の前で、真太よりちょっと大きいくらいの男の子が躓いて転んでしまった。父親の手を離していたからか、子供は顔から見事にホームに滑り込んでしまった。 「あっ」 思わず声を出してしまった拓だったが、駅の喧騒の中では聞こえるはずも無く、その子供の父親が慌てて近寄り、そして両脇から手を入れてすっと起こしてやった。そして少し泣きそうになっていた子供の服についた塵をパンパンと払った後、優しく頭を撫でてやった。 何処ででも見る事が出来る父子の光景だったが、何故かそれを見ていると、小波だっていた拓の気持ちがすっと静まっていくのが分かった。 拓は握っていた手をもう一度ぐっと握り締めた後、手を一度離してから、真太の両肩を持って自分のほうに向かせた。そして、拓は真太の両目を見つめた。 「真太。お父さんな、大事な話があるから、しっかり聞いておきなさい」 「え?」 きょとんとした真太の表情が、その驚きを素直に表していた。 「真太がお父さんと会えるのは、これが最後なんだ」 「・・・・」 「真太は、お父さんの所では、もう一緒に住めないんだよ」 「・・・・どうして?」 小さく消え入りそうな真太の声だった。 「お父さん、明日から遠くに行っちゃうんだ」 「僕も行く!」 「とっても、とーーっても遠くに行っちゃうんだよ。遠くて遠くて、本当に遠いところだらから、真太みたいな小さな子は行けないんだ」 「僕、小さくなんか無いもん! お父さんと一緒に行けるもん!」 真太の目は厳しくまなじりを上げていて、その言葉には彼なりの強い意思があった。そしてその強がりにも似た言葉の裏側には、今にも泣き出しそうな気持ちを押し殺す意思がある様にも見えた。 「真太、ごめんな。お父さん、真太を連れて行く事が出来ないんだ」 「やだもん、やだもん。------お婆ちゃんも一緒なの?」 「----そうだな。うん」 ふみよの事は何となくぼかして拓は答えてしまった。 「そんなのずるい。だめだよ。僕、嫌だよ」 「真太。お前は、今日から坂本のおうちに行くんだ。お前の大好きなお母さんがいた所だよ。お爺ちゃんが、お前が大きくなるまで育ててくれるから」 「僕、お爺ちゃん嫌いだもん」 「大丈夫。お爺ちゃんは、お前の事をちゃんと大事にしてくれる。お爺ちゃんな、お父さんと約束してくれたんだ。それに、これはお父さんからのお願いでもあるんだ。お父さんの為に、お前はあの坂本の家で大きくなって欲しいんだよ」 「・・・・・・」 「お母さんは、あの家で大きくなったんだぞ。あんな優しくてすてきなお母さんが大きくなったお家だから、お前もきっと良い男の子になれるから。うん」 「僕、やだよ!」 真太の強い拒絶の言葉に、拓の意思が一瞬ひるんでしまった。 だが次の瞬間、拓は真太に向かって深々と頭を下げてから、そのままの姿勢で一生懸命に頼んだ。 「真太。これは、お父さんからの最後の最後のお願いなんだ。お父さんは、残念だけど、真太をこれから先育ててあげる事が出来ないんだ。これは本当の事なんだ。お婆ちゃんもそうだよ。でも真太はこれからも大きくなっていかないといけないし、一人では生きていけないんだよ。でもお前には、ちゃんと血の繋がったお爺ちゃんがいる。必ず、お前を大事にしてくれるから。 なあ真太。お願いだから、真太・・・」 その後暫く黙っていた拓だったが、ゆっくりと顔を上げてみると、そこには大粒の涙を流していた真太の顔があった。 「うん・・・・」 拓の言葉の、何が真太の気持ちを揺さぶる事が出来たのか分からなかったが、幼児の顔から男の子の顔に変わった真太の顔がそこにあって、分かったと告げていた。 「ごめんな、真太。ありがとう、真太」 拓の頬に涙は伝っていなかったが、心の中では、涙が絶え間無くその気持ちを伝っていた。 ==================================================================
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拓はそんな事を考える一方で、自分の置かれている『死』を目前とした健康状態を呪った。せめて、この体さえどうにかなれば、それこそ日本中どこに行ってでも働き、真太を守り育てて行こうかと言う気持ちが湧いてくるのだろうが、病魔に襲われた体では、それはどう考えても無理な相談だった。もし真太を連れて歩き始めたとしても、あと百日も待たずして、真太を道端で落とすようにしての垂れ死ぬ事だって、十分考えられるのだった。それは、決して『ごめん』ではすまない問題なのだ。 そして気がつけば、自己弁護に走っている自分に怒りすら覚えていると、手を繋いでいた真太の動きが止まり、拓は腕を引かれて立ちどまる形になった。 「どうした、真太?」 言いながら真太の見つめる先を追ってみると、そこには拓とそれほど年齢的に変わらない男が、赤と青のファイヤーパターンのバンダナを頭に巻き、ギターを掻き鳴らしていた。彼の前には十代らしきカップルが、二人仲良く安物のパイプ椅子に座っていて、そのギターを弾いている男の背後には、芸能人の似顔が二十枚程並んでいた。 「あのおじちゃん、ギターを弾いているの?」 「そうだね〜。きっと、お仕事なんだよ」 「ふーん、そっかー」と答えると直ぐに、真太はそのギターを弾く男の方に向かって歩き出した。彼の全く迷いの無い足の運びに、手を繋いだままの拓は引きずられる様にして付いて行った。 そして、そのギターを弾く人の歌声がはっきり聞こえる所まで近づき、他の人もそうしている様に、ゆったりと見守りながら、ギターを弾く人の歌声を聴いていた。 まるでこの世に解き放つ様な素晴らしい歌は、綺麗な空に抜けるような澄んだ声で、時折その目に感情を込めながら歌うそれは誰かのヒット曲ではなく、自作の曲の様だった。時折難しい言葉が登場するその曲に、その意味を分かるはずも無い真太が、楽しそうに、そしてうっとりと聞いていた。 拓は、真太の後方で息子の姿を見つめていた。拓が少し険しい顔をしていたのは、その名も知らぬ絵描きさんに、焼き餅を焼いていたからだった。 (俺に、歌の一曲でも創る事が出来れば良いのに・・・・) 拓は、その心地良い歌声と、小さく聞こえる真太の拍手を聞きながら、ふとそんな事を考えていた。そして、もう長くも無い自分の命を考えると、その肉体は、息子の前から確実に消えてしまうという事も。 でも、もしその息子に贈る歌を作れたとしたら、この身が滅んで地上からその存在が無くなっても、彼の頭の中に残り続ける事は出来るだろうし、何より、二人は繋がっていく事が出来るのではないかと。 「ああ・・」 いつの間にか絵描きさんの歌が終わった事を、真太の手を叩く音が拍手に変わった事で気がついた。そして、くるりと頭を回転させて拓を見上げた真太の顔が、少し赤く上気していて、瞳には力がふっと湧き上がっている様に見えた。 「あのおじちゃん、上手だね!」 「そうだな」 真太がこれほど歌に反応を示す事を、今日と言う日まで気がつかずにいた事を、拓は非常に悔しく思った。そうと知っていれば、たとえ不細工だとしても、必死になれば、一曲でも彼に残せたのではないかと思ったからだ。 「でも、もう遅い・・・」 と、かすれ消える声で、呟いていた。 そして、ただただ悔しく思っていた。 それから、朝、ふみよが一所懸命に作ってくれたお弁当を、二人は一緒になって食べた。真太の大好物ばかりが、四重になったお弁当箱にぎっしりと詰まっていた。朝からはしゃぎまわっていた真太は、胃が首の下から腰の辺りにまで広がっているのではないかと思えるほど、次から次と美味しそうに食べていた。 「真太、美味しいか?」 「うん、美味しい!」 真太は本心からそう思っているようで、息する間も惜しむ様にして食べ続けていた。そして、二人の昼食が詰まった重箱は、綺麗に空になってしまった。繰言の様に、「美味しい、美味しね」と言っていた真太と対照的に、拓はふみよの心づくしの弁当を味わう事は出来なかった。食事中、一応は真太と話の受け答えをしていたが、段々と別れの時間が近づきつつある事や、歌の一曲も真太に披露出来ない自分の情け無さ等を、深く考えていたのだった。 だが不思議と、真太と別れた後、三ヶ月も待たずして自分が死んでしまうと言う事実に対しては、悲しさも怖さも湧いてこなかった。真太と会えなくなる事が、とほうも無い大事件として、彼の両肩にのしかかってきて、そしてそのまま彼の体を押しつぶそうとしていたからだった。 拓は食べ終えた重箱を片付けて、敷物の上で手足を伸ばしてから、昼過ぎの風を感じていると、真太が少し頭を揺らし始めている事に気がついた。その顔を改めて見てみると、既に両目は閉じていて、眠くなっている事は直ぐに分かった。真太が昼寝をする事は稀だったのだが、朝からずっと続いていたハイテンションと、常に走るように歩いていた彼の運動量を考えれば、そこにおなか一杯の状況である事を加味すれば、眠くなって当然であった。 「真太、眠いか?」 真太は、既に拓の言葉が届く所からずいぶん向こう側に意識が行っている様で、返事をする事も出来ずに、首を前後に揺らしていた。拓はそんな彼の肩に優しく手を回し、ゆっくりと体を倒させてから、まっすぐ伸ばした自分の太股の上にその小さな頭を乗せた。真太は大きく体を動かされたにも関わらず、それこそ泥の様に眠っていた。 拓の太ももの上で眠る真太の顔を見下ろしてみると、頬は優しいカーブを描いて微笑んでいて、口元には満足の情が見て取れた。頭を軽く撫でると、指の関節を真太の髪がするすると心地良く滑っていった。細く華奢な肩は、彼の呼吸に合わせて小さく上下していて、確かにそこに生命がある事を誇示しつつも、その命を一グラム残さず拓に預けている様に思えた。 (この命を、守れなくなってしまうというのか・・・) 悔しかった。 悔しいだけだった。 ただひたすら、悔しくてたまらなかった。 それでも真太は、気持ち良さそうに眠っていた。 拓は、何年ぶりかに、泣いた。声を出す事を我慢しながら、さめざめと泣いた。一筋、頬を涙が伝っていた。 真太は、結局、そのまま二時間近く眠り続けた。 「あれ?」 目を覚ました環境から、いったい自分が何処にいて何をしていたかが分からなかった彼だったが、暫くするとその目がぱっと見開いて、全てを思い出した。 「お父さん、僕、あれにも乗りたい!」 真太は、今自分の身に起こっている楽しい事を思い出し、数分前までぐっすり眠っていた事など関係なく勢い良く立ち上がり、やや離れた所でぐるぐると回転している遊具を指差していた。行きたくてうずうずしている雰囲気が、真太の表情にそして両肩から噴出していた。 「良し、行ってみるか」 「うん!」 真太はシートから降りて靴を履き、拓も靴を履いた後、素早くシートを片付けた。そして二人は、仲良く手を繋いだまま歩き出した。 ==================================================================
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そしてとうとう、小橋家の全員が、クリスマスの日を迎えた。 ふみよは、朝の四時には蒲団から起き出し、お弁当の準備に取り掛かっていた。 彼女は、拓や真太の再三の頼みこみにも関わらず、遊園地へ一緒に行こうと言う誘いを断っていた。真太は心底残念がったし、拓も折角だからと何度も言ったのだが、ふみよの意思は固かった。 だがその代わりに、腕によりをかけたお弁当を、二人分ちゃんと作ってあげるからと言っていたのだ。実は蒲団に入っても殆ど眠れなかったふみよは、目覚ましの音など聞く前に早朝を迎え、そしてじっとしている事も出来ず、台所に立っていたのだった。 そして朝になり、興奮したのかいつも起きるのが遅い真太も、七時前には目を覚ましていた。拓は少し目を腫らしていたが、その事も、そして理由も気がつくはずも無い真太の笑顔が、家の中を走り回っていた。 「お婆ちゃん。本当に遊園地行かないの? 楽しいよ〜」 真太の頭の中では、遊園地は最高に楽しい空間であるはずだという認識が、鉄筋コンクリートの様に強固に出来上がっている様で、行った事も無いのに、それこそ本気でふみよを誘っていたのだった。 「真ちゃん。お婆ちゃんの分まで、しっかり遊んでおいで」 ふみよは、いつもと変らぬ声の調子で、真太に、にっこりと笑いながら答えていた。 ふみよや拓が一言二言話す間に、質問や楽しい話などを五つぐらい一生懸命にする真太の姿から、彼が本当に、今日と言う日を待ち望んでいるのが見て取れた。 そしてその雰囲気のまま、三人はいつもと変らぬ様に朝食を取り、二人は出かける準備をした。 玄関先では、真太がリュックを楽しそうに背負ったまま、拓が出てくるのを今か今かとくるくる回りながら待っていた。またその一方で、ふみよに、真新しい服をアピールしていた。少し上を向いた小さな鼻が、誇らしげだった。 その鼻に良く似た拓が、ゆっくりと玄関に現れ、ぎゅっぎゅっと靴を履いた。 「それじゃ、そろそろ行くから」 拓は真太の手を取り、ふみよに告げた。 その言い方は、近くのスーパーやコンビニに買い物に行く時の言い方と同じだったので、真太は、その言葉の裏にある拓の心持など気が付かずにいた。ただ拓の目が、申し訳なさそうに、左右に小刻みに揺れているのが、ふみよには分かった。 「そう。 -----気をつけて」 ふみよは健気に、そしてその表情を変えずに答えた。 真太は既に遊園地に意識が飛んでいるのか、高い位置にある拓の顔だけを見上げていて、早く行こうお父さん、とでも言っている様だった。 「ほら、真太。お婆ちゃんに、行ってきます、しなさい」 父の言葉で、はっと我に返った真太は素早く視線をふみよに向け、拓と手を繋いでいない方の手を勢い良く振った。 「お婆ちゃん、行ってきま〜〜す」 無邪気なその笑顔が、ふみよの気持ちを溶かしてしまうくらいに、強烈なエネルギーを発していた。 その言葉だけで、ふみよは、真太を抱き寄せて、「お婆ちゃんの所にずっといなさい」と伝えたい衝動に駆られてしまった。そして、つい、右足を半歩踏み出してしまった時、真太と手を繋いでいない方の拓の右手が、小刻みに震えている事に気がついた。 (拓・・・) 拓が、逆側に揺れそうになる気持ちを、拳を握りしめる事によって、無理やりこらえているのだと見て取れたので、ふみよは踏み出した足の運びを止めた。 「行ってらっしゃい」 そう言って、笑いながら見送ったものの、ふみよは胸の中あたりに何か鉛の様な物を押し込まれた様な気がして苦しくなっていた。そしてふと気を抜けば、泣きそうになっていた事を隠す為に、右の手をぶんぶんと横に振って二人を見送った。 拓に手を引かれた真太は、「ばいばい」と、そのもみじの様な小さな手を三度ほど振った後、くるりと背を向け、軽い足取りで歩み始めた。 ふみよは、二人の影が交差点にある建物の向こう側に見えなくなるまで、その場に立ち尽くしたまま見送っていた。 「もう、行ってしまったの・・・ね」 二度と会えぬ事を分かっていながら、抱きしめる事も出来ず、特別な言葉をかけることすら出来ずに終わってしまった『今』と言う時間が、酷く無虚な瞬間である様な気がして、ありとあらゆる事が、ただひたすらに情け無いと思えた。 「真ちゃん、ごめんなさいね」 今更だったが、そんな事しか言えない自分が本当に情けないと、心底思ったふみよだった。 いつの間にか車道にはみ出して立っていた彼女に、大型トラックが、破裂しそうなクラクションを鳴らしながら過ぎ去って行った。 真太は、今日と言う日を、本当に楽しみにしていた様だった。 遊園地に着くまでの間も、目に入るもの、耳に届くものを、いつもの三倍も四倍もの感度で受け入れ、そして声に出して喜んでいた。 「ほら、お父さん」 「ね、お父さん!」 「見て見て見て、ねーー」 真太の体が、喜びだけで出来ているのではないかと思えるほど、力いっぱいに楽しんでいる様だった。時折、拓の太ももに突進して抱きつく度に、彼の胸の中にある喜びのエネルギーが、つかまえられた太ももから拓に伝わって行く様だった。 それに、真太の顔はきらきらと輝いていて、桃の表皮の様な柔らかい産毛のある頬から、喜びが、何度も何度も零れ落ちていた。 そして、拓は思った。 この笑顔を見ているだけで、どんな事でも出来るのではないかと。 この笑顔を見ているだけで、病気も治るのではないかと。 この笑顔を見ているだけで、一億でも十億でも手に入れる事が出来るのではないかと。 この笑顔を見ているだけで、明日を生き抜く無尽蔵な力を手に入れるのではないかと。 この笑顔を見ているだけで、空すら飛べるのではないかと。 この笑顔を見ているだけで、・・・・・・・・・。 思いを巡らせていると、気持ちが、羽を付けたかの様に軽くなったのが分かり、それはそれは、非常に嬉しい事だと思えた。 だが、それほどまでに心地良い事が、すらすらと想像出来ると言うのに、現実は一ミリだって変る事は無かった。 “真太は行ってしまう・・・。俺は、逝ってしまう” 既に、数時間後に訪れてしまう息子との別れと言う現実を前にして、父は、無理に笑顔を浮かばせつつも、気持ちは波立っていた。 拓は、まだ気持ちの整理が出来ずにいたのだ。 真太と手を繋ぎ園内を歩いている時も、二人並んで順番待ちをしている時も、彼の体温をその手に感じながら、そして真太が楽しそうに話しかける事に相槌を打ちながら、色々な事を考えていた。 とにかく、ちゃんと「さよなら」を言わなくてはならないと、一生懸命に考えていた。 そんな拓の悩みなど知るはずも無く、拓は本当に楽しそうに遊んでいた。 「ねえ、お父さん。もう一回乗って良い?」 「ああ、良いよ」 子供用のゆっくり進む動物の形をした車が非常に気に入った様で、真太はリクエストをし、拓は二つ返事で承諾をした。 「お父さん、ソフトクリーム食べたいなぁ」 「そうだな、お父さんも食べたいな」 すっと返事をした拓は、それこそ間髪おかずにそれを買い、さっと手渡した。真太は、鼻の頭と口の周りをきらきらと光るソフトクリームで真っ白にしながら、本当に美味しそうに食べていた。 「美味しいね、お父さん」 「ああ、美味しいよな〜」 「お父さん、また連れてきてね!」 「-------そうだな」 拓は、取り繕うようにして答えた。 もちろん本当に連れて来る事が出来れば、どんなに嬉しいか分かっていたが、まずそれが出来ない実情が心苦しかったし、「真太、ごめんな、出来ないんだ」と言うべきところ、どっちつかずの言葉で逃げるしか出来ない事が、何より悲しかった。腹立たしかった。情けなかった。 拓の歯切れの悪い回答に、いつもだったら「ねー、お願い。お願い。お願い」と最後まで駄々をこねる真太も、今日は遊園地に来たのがよっぽど嬉しいのか、拓の曖昧な返事を追求する事も無く、ニコニコしながら聞き流すほどだった。 (ごめんな、真太) 出来る限りの笑顔を真太に見せながら、拓は腹の底で唸るようにして謝っていた。 そして拓の視線の先にいる真太は、本当に楽しそうに笑い続けていた。それほどまでに喜んでいる真太に、さようならを告げなくてはならない。それも告げるだけではなく、あの坂本の家に、真太を渡さなくてはならないのだ。 こんなに笑っている真太が、拓のさようならを聞けば、きっと怒り、泣き、そして暴れるかもしれない。更に考えるなら、あまりにも突然の出来事に、今後、彼の対人に関する精神構成に、大きな悪影響を及ぼすかもしれない。いや何よりも、現実として受け入れてくれるかどうか・・・・。 (でも、他に選択肢は無い。真太にも、そして俺にも・・・・) それに、真太が泣き叫んだとしても、その熱い涙が、彼のお腹を満たす事は出来ないし、雨や夜風をしのげる場所を用意する事は出来ないのだ。 真太は、これからも生きていかなければいけないのだ。 ==================================================================
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