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久々の更新になってしまった感がありますが・・・・
信玄には数人の男子がいました。その中で、太郎義信(のち廃嫡)、次郎信親(盲目のため家督を継がず)らと同じく三条夫人
を母とする三男がいました。西保三郎信之というのですが、彼は一般には若死にしたとされています。
しかし、この三郎信之にはじつは若死にしていないという異説があります。
それはすなわち、上総武田氏の当主、武田豊信が信玄の三男であるという説です。これは、上総武田氏の嫡男清信が
若くして死んでしまったために、清信の父吉信や重臣達が相談の上、信玄と三条夫人の間に生まれた子を養子として
迎え、信栄のち豊信と名乗らせた、というものです。確実な史料には見られないものの、武田氏系図など、上総武田氏に
関する史料は多くが「豊信=信玄三男説」を採っているようです(残された史料自体が少ないが)。
また、以下のような伝承も残されています。天正10(1582)年、甲斐武田氏が織田信長によって滅ぼされた際に、仁科盛信
の子息が、上総の豊信が自分の父盛信の兄にあたることを頼りに落ち延びたとことです。ちなみに、その子孫は現在でも
健在で、盛信像や薙刀などの遺品が今に伝わっています。
これを確実なものと認める史料等は伝わっていません。しかしながら、この他にも多くの伝承や逸話が上総には残っており
一概に否定することも出来ません。むしろ、あながちあり得ない話でもないように思われます。
なお、信玄は北条氏との道営が決裂した後、安房里見氏(北条と敵対していた)との同盟を画策しますが、その時に信玄が
仲介を依頼したのが、他ならぬ武田豊信でした。結果同盟が結ばれますが、信玄は同族だからという理由で豊信に仲介を
頼んでいますが、豊信=信玄三男だとしたら、より話はスムーズでしょう。
つまり、豊信が父に頼まれて同盟の斡旋をしたということになります。
そう考えると、なかなか興味深い説でもあり、伝承や逸話、説などの具体性からも今後の研究が期待されると思うのですが
いかがでしょうか?
なお、武田豊信は後年豊臣秀吉の小田原合戦の際に旗幟不鮮明を理由に攻め滅ぼされたとも、蟄居したとも伝えられており
最後は一定しませんが、彼の代で上総武田氏は滅亡することになります。弟と思われる勝頼、盛信らが滅びてから8年後の
ことです。
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おはよう御座いマス!三男さんは、生きていたかもしれないんですネ〜。
でもこの人も滅亡しちゃうんデスか。。武田家は、過酷な運命デスね。。
2007/7/11(水) 午前 8:41
結局実のところはハッキリとは解らないですけど、すごく気になる話では有ります。
しかし、結局生き延びれなかったのですから、なかなか過酷ですね
2007/7/20(金) 午前 1:50 [ jir*_*abu*o_*006 ]