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久々の更新ですねw
建武の新政で知られる後醍醐天皇には、たくさんの皇子がおり、彼らはそれぞれ父の有力な駒として
各地で転戦をしています。とくに有名なのが護良親王ですが、その他の皇子たちも強烈な個性を放った
父・後醍醐天皇のために非常に苛烈な生涯を送っています。
宗良親王は応長元(1311)年に生まれました。母親は歌人である二条為世(藤原定家の子孫に当たる)の娘で、
同母兄弟には尊良親王がいました。彼もまた他の皇族と同じく、幼いときに出家し、15歳で妙法院の門跡に
就任しました。出家した名を尊澄法親王といいます。そして元徳2(1330)年には、兄尊雲法親王(護良親王)に
続いて天台座主(延暦寺の長)となります。これは当時鎌倉幕府打倒の計画を練っていた後醍醐天皇が、
延暦寺の勢力の掌握を期待してのことでした。『増鏡』にも宗良がその役割を期待されていたことを示す
描写があります。ところがその翌年、父後醍醐天皇の倒幕計画が露見(元弘の変)、京都を出奔して笠置山に
籠るものの陥落、脱出を試みた所で捕らえられてしまいます。この時宗良も父と行動を共にしていたらしく、
幕府軍によって身柄を拘束されてしまいました。
倒幕運動の主要メンバーのひとりとして活動していた宗良ですが、彼本来の性分は、母方の影響からか、
文人的な面が強く、兄の護良親王などに比べて文弱なところがあったようです。
倒幕計画についても、父や兄たちにひきずられた感があり、幕府に捕らえらた後の尋問の際には「しきりに
剃泣」したという証言が残っています。
ともあれ、幕府は宗良を首謀者の一人として、讃岐へと配流しました(後醍醐天皇は隠岐、尊良親王は土佐へ
それぞれ配流、護良親王は逃亡し反幕活動を継続)。その後鎌倉幕府が滅びると再び天台座主に還任しますが、
後醍醐天皇と足利尊氏が対立し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良親王と名乗ります。
そして北畠親房に奉じられて伊勢へ向かい、その後遠州の井伊氏のもとへ入城します。
さらに北畠顕家と呼応しようとしたものの顕家が討ち死にしたために、父後醍醐天皇の行宮があった
大和国吉野へ入ります。そして再び伊勢の大湊から船で出た際に天竜灘で大嵐に遭遇、散々な目にあった末に
遠州へ漂着、再び井伊高顕のもとに入りました。
ちなみに、この時北畠親房、顕信(顕家の弟)とともに奥州を目指して船出した宗良の
異母弟義良(のりよし)親王も遭難し、伊勢へ漂着したために、吉野へ帰って父の最期に
立ち会う事となり、後村上天皇として即位する事になります。
さて、井伊城に入った宗良ですが、ここから彼の流転が始まります。
興国元(1340)年に北朝方の仁木義長に攻められた事を契機に遠州を退去し、その翌年には越後国寺泊に
姿を見せます。その間にブランクが生じるわけですが、この間の足跡については、
駿河へ行き、狩野貞長の館に滞在して興良親王(護良の皇子)と対面した後、甲斐や信濃へ
滞在したとも言われていますが、これの時期にも異説が有るそうで、ハッキリしたことは分からない
そうです。越後滞在の後には越中名子の浦、信濃大河原と各地の鎮撫を図るべくあちこちを漂泊しています。
さて、正平六(1351)年、弟の足利直義と対立した尊氏は、窮余の一策として南朝と一時的に和議を
結びます(正平の一統)。しかし、翌年に直義は兄に降伏した直後に没し(尊氏が毒殺した模様)、
結局この南北の和睦はすぐに瓦解します。潤2月15日には上野で新田義貞の遺児の義興、義宗兄弟が
挙兵し数日のうちに鎌倉を尊氏から奪います。宗良親王も信濃の諏訪氏などを従えて碓氷峠へ進軍、
鎌倉を占拠しました。なおこの直前の潤2月7日に宗良は征夷大将軍に就任しています。
しかし、これも長くは続かず、尊氏の反撃に合い、義興らが敗れたため、結局鎌倉を放棄して
義興、宗良らは撤退。宗良親王は越後から信濃へと移ります。それからかなりの期間信濃にいたようで、
どうやら宗良親王の拠点となっていたようです。そして文中三(1374)年、36年ぶりに吉野へ帰ります。
これ以前、弟後村上天皇から「吉野へ帰ってきて欲しい」という旨の歌を送られていましたが、その
弟も既になく、また、北畠親房や四条隆資、洞院実世など馴染みの顔もすでにありませんでした。
吉野滞在の間、宗良親王は南朝に使えた歌人たちの和歌集を編纂するほか、歌合なども行われるなど
歌人としての活動が目立ちました。しかし、南朝の情勢が好転しない中再び信濃へと向かいました。
この時すでに60歳をゆうに過ぎています(この最中再び出家)。信濃に赴いた後も和歌集の編纂は
継続され、弘和元(1381)年10月には長慶天皇(後村上の子)から勅撰和歌集として認められ、
12月に天皇に奏覧されました。これが世に言う『新葉和歌集』です。
しかし、これが明確な宗良親王の最後の活動となりました。これ以後は彼の足跡は定かではなく、
どこで亡くなったのかすら分かっていません。『南山巡狩録』『南朝紹運録』には元中2(1385)年
遠江井伊城で没したと記されていますが確証はありません。
他にも河内説、信濃説、越後説など諸説ありますが、現在では「三宝院文書」より信濃大川原で
亡くなったとする説が有力となっています。
また、元中6年の花山院長親の歌集の記述にすでに宗良が亡くなったことを記しているので、
1381年12月〜1389年の間に宗良親王は亡くなったと思われます。
墓所は遠州引佐郡に残っています。
なんというか、まさに流転の生涯です。後醍醐天皇の皇子はみなそれぞれ波乱に満ちた生涯を送っています。
しかし、壮年期以降の動向を見ていると、本来の文人的な性格を持ちつつも元弘の変時に「剃泣」した
ような文弱さというか、女々しさを感じさせません。それだけ彼が厳しい人生を歩んできたという
ことでしょうか。残っている和歌も、流罪となった際のものは不安さがつたわってくる感じのものですが、
後に後村上天皇や、九州の弟宮・懐良親王と交した和歌も見ると、不利な中でも何とか弟たちを
奮起させ、励まそうとしている心情がつたわってきます。
ふるさとと なりにし山は 井でぬれど 親の守りは なおもあるらむ
(後村上天皇が吉野を逃れた時に詠みかわしたもの)
とにかくに 道ある君が 御世ならば ことしげくとも 誰かまどわむ
(九州を転戦する懐良親王に詠んだもの)
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おお、太平記の世界ですネ〜!後醍醐天皇は子供多すぎますネ。。ごっちゃになって頭が混乱シマス。。尊氏の孫の義満が南北朝を統一するんですよネ。
2007/11/25(日) 午前 0:22
そうなんですよね。。後醍醐天皇の子は沢山居て、太平記でもスルーされている
ような皇子もいるんです。しかも、南朝の皇子のなかには名前すら不明な人物も
いますし・・・・
2007/12/11(火) 午前 0:45 [ jir*_*abu*o_*006 ]
ブログ拝見しました!!
良かったら 私のところへも
お立ち寄りください!よろしく
2008/6/6(金) 午後 3:37 [ ロクチャン ]
南信州の好事家には宗良親王は人気のテーマです。この頃親王の歌に興味を持っています。確かに女々しいところがあり、それなのに一族や自分を奮い立たせようと必死なところが歌にもよく出ていますよね。
2013/10/19(土) 午前 0:49
私は学生時代に宗良親王の事跡を訪ねて大鹿村に何日か滞在した事が有る。大鹿村は中央構造線に沿った山峡(かい)の地。宗良親王は実に31年間も大鹿村に滞在して南朝再起の為に戦っているんだネ…宗良親王の♪我を世に…有りやと問はば…信濃なる…伊那と答へよ…嶺の松風〜なんて歌は本当に心に沁み入る歌だよ。私もそんな歌を一首でもよいから詠んでみたいよ(笑)
2015/3/23(月) 午後 10:52 [ mi3*12*4ma ]