|
武田信玄の没後、武田家を継いだのは四男の勝頼でした。
この勝頼ですが、甲陽軍鑑によると「陣代」であったとされています。
これはどういうことかといいますと、武田家の正式な当主は勝頼の子・信勝であり
勝頼は当時まだ幼かった太郎信勝の代理人でしかないということです。
しかし、実際のところは信玄は義信亡き後、やはり勝頼に「当主として」後を継がせる
意向があったようです。
たとえば、信玄が足利将軍家の側近一色藤長に宛てた書状によると、義昭と藤長に
御領所(将軍家の所領)を進上するかわりに、「愚息四郎官途ならびに御一字のこと」を
願い出ています。このなかで信玄は勝頼にしかるべき官職と義昭の名前の一字を賜りたいと
言っているわけです。信玄(晴信)、義信は2人とも元服の際に、嫡男として時の足利
将軍から名前の一文字を貰っています。つまり、勝頼に将軍足利義昭の一字を願い出ると
いうことは、信玄が勝頼を武田家次期当主として考えていたことの証左ともいえる訳です。
また、信玄の晩年(元亀2年ころから)、勝頼が信玄と連名で領国全体の統治に関わる文書を
発給していたり、勝頼の地位を確立させようとしています。
しかし、信玄が死ぬ2年前ころのことで、正直言って勝頼への政権移譲(当主としての地位の
確立)は不十分なままでした。義信が後継者から脱落するまでの間、勝頼は確かに武田一門の
有力者のひとりではありましたが、親族衆の一人であるという点では信玄の弟や他の子息、
さらには穴山氏などともそれ程変りは無かったのです。
「甲陽軍鑑」の勝頼陣代説というのも、勝頼の体制が十分整っていないうちに信玄が死んで
しまったこと、または勝頼が領国全体の仕置きにタッチするようになったのが遅かったなどの
要因から生まれてきたようです。
信玄はもっと早くから勝頼体制へのシフトを行う必要があったのですが、それがかなり
遅くになってからでした。
信玄・勝頼の研究で知られる笹本正治教授はその要因として信虎追放・義信事件があったのでは
ないかと指摘していますが、実際に義信事件の直後には小幡氏あての書状や生島足島神社に提出させた
家臣団の起請文など、領内に大きな動揺があり、それを鎮めようとしているので義信事件が尾を
引いていたのは間違いなさそうです。
かくして勝頼は家督を継いだのでした。
|