アッーと驚く?徒然日記【不定期版】

最近更新出来てませんねえ・・・・うむむ

全体表示

[ リスト ]

毛利輝元の大坂入城

イメージ 1

久々に歴史ネタです。

西軍の総大将は毛利輝元です。この人は、かの毛利元就の孫に当たり、
豊臣政権下では五大老の地位にあった西国一の大大名だった人物です。

一般的に、この毛利輝元、関ヶ原合戦の際には、石田三成や大谷刑部に
擁立されて大坂城へ入ったは良いものの、大坂城からついに出陣することは
なかった上に、戦後あっさり大坂城を退去してしまい減封の憂き目にあうなどの
イメージがあり、正直なところあまり評価はされていません。
どちらかというと、安国寺恵瓊に乗せられてしまった凡庸な人物、あるいは
西軍に参加「させられた」と見られることが多いようです。
しかし『日本歴史 2007年4月号』に掲載された光成準治氏の研究など、
それを覆す研究も出てきているようです。

まず、石田三成が豊臣家の武将たちに襲撃された事件の際についての輝元の動向です。
これは、朝鮮出兵の際、蔚山城合戦の後の戦線縮小を現地の諸将が協議した際に
そのことが三成派の目付から豊臣秀吉に伝えられ、結果現地の諸将が処分を受けた事件を
契機として、加藤清正・黒田長政・蜂須賀家政らが三成屋敷を襲撃した事件です。
従来三成はこのときに家康邸へ避難したと言われていましたが、笠谷和比古氏の研究に
よって、伏見城内の治部少輔曲輪に逃れたことが立証されています。

さて、このとき三成は毛利輝元らと活発に連絡を取り合い、家康派への反撃を画策していた
ようです。『厚狭毛利家文書』によると増田長盛ら奉行衆が大坂で秀頼を奉じ、輝元が尼崎へ
兵を率いて陣取るように三成から要請されていたようです(使者は小西行長と寺沢正成)。
この企ては結局秀頼のいる大坂城が親徳川派に抑えられていることで挫折しますが、
水面下での三成−輝元ラインは維持されます。

やがて三成が挙兵すると、毛利輝元が総大将として擁立されます。これについては、
安国寺恵瓊が主導的な役割を果たし、輝元は恵瓊に乗せられた形で上坂したといわれています。
しかし、実際には輝元は増田・前田玄以・長束正家上坂要請(慶長5年7月12日書状)を
受けると、15日には出立し、17日には輝元の内意をうけた毛利秀元が大坂城西の丸(それまで
家康が政務を取っていた)の留守居を追い出して、同所を占拠しています。
つまり、非常に迅速に行動し、大坂へ上っているのです。12日つけの書状を広島で受け
取って直ちに出立したわけですね。さらに輝元は15日に加藤清正にも
賛同を要請しています。恵瓊が何も知らない輝元を謀ったとしたら、ここまで手際よく
できるでしょうか(ちなみに12日の増田らの書状には「詳細は安国寺が説明します」とある)。
12日つけの書状を広島で受け取って直ちに出立したわけですね。事前に準備が整っていたと
見るのが妥当でしょう。

輝元が大坂城に入ると、蜂須賀家政の阿波を毛利氏が差し押さえています。
家政は子の至鎮を東軍に味方させ、自身は大坂にいましたが、輝元に決起を諌めたところ
家臣団が秀頼の馬廻衆に編入させられた上、自身は逼塞、さらに阿波が毛利氏の管理下に
入り、事実上の占領状態になります。

そして、九州の西軍大名・毛利吉成・勝永父子の所領も毛利氏が占拠して(吉成は伏見攻めに
参加、その後関ヶ原本戦では南宮山の部隊に編入され、のち改易)、さらに元豊後国主の
大友吉統(宗麟の子)を送り込んで、豊前豊後で軍事活動を展開させています。

伊予方面では加藤嘉明・藤堂高虎の留守を狙い、毛利氏旗下の村上水軍を動員して伊予を
攻撃させています。さらにこの戦いでは、滅亡した伊予の国主・河野家(毛利一門の宍戸
景好が河野家の養子となっていた)の再興を旗印に河野遺臣たちも毛利方に参陣しています。
さらに、加藤・藤堂領内への調略も積極的に行われており、この動きは関ヶ原での敗報が
届くまで行われています。

これを見る限り、輝元が西国方面に関しては、かなり活発に軍勢を展開させています。
輝元が大坂城へ入城したことについて「輝元には主体性が乏しかった」ということを
いわれますが、むしろ自身の基盤である西国での、権益の拡大に力を入れていることが
明らかになってきています。
この動きは輝元の西国の統治者たる自負の現れであると光成氏は指摘しています。
(秀吉政権下での起請文などに、西国を輝元・小早川隆景が統括する構想がみえる)

ところが、肝心の対徳川については、輝元がどの段階で吉川広家の内通を知っていたかは
不明ながらも、今ひとつ本腰を入れていない印象を受けます。輝元にしても、まさか
一日で勝敗が完全に決するとは考えていなかったのでしょう。
光成氏は家康と直接対決するつもりはなかったが、吉川広家らが家康に与してしまった
結果、計画が挫折したとしています。

輝元の動静を見ると、確かに自己の権益拡大には積極的な印象を受けます。しかし、
いくら一日で決着がついてしまうとは想定外だったとはいえ、西軍の盟主として大坂へ
入ったのに、家康との対決は避けたいが自身の権益は拡大したい、というのはいささか
虫が良すぎるかもしれません。西国における軍事展開にしても、彼が西軍の盟主になったから
こそ正当性が出てきたわけで、これを最終的に得るには、やはり豊臣政権の実権を掌握
している徳川家康の克服が求められるはずです。

結局西国の掌握を果たせぬうちに決着がついてしまいますが、輝元はこの後に広家を
窓口に東軍と交渉して、「本領安堵」を条件に家康と講和し、あっさり大坂を退去
してしまいます。結果は承知の通りですが、この本領安堵はあくまでも輝元が
恵瓊らに「乗せられた」ことが前提だったのですが、ふたを開けてみるとこの通りで、
さらに輝元の署名の入った廻状など証拠も押さえられたため、前提が否定され大幅な
減封となったのでした。
それにしても、ここまで積極的に行動しながら、輝元も許されると思ったのでしょうか。
もしそうだとしたら、やはり巷間伝えられているような凡庸な人物ではないにしても、
やはり「詰めの甘さ」が目立つ気がします。
写真は輝元画像

閉じる コメント(5)

顔アイコン

難しいところですけど、やっぱり家臣を纏め切れてない&中途半端な行動をしているということからも平凡な人物だったんだろうかなっと思います。
ただ、毛利は吉川、小早川両川のポジションが強すぎたのも弊害といえば弊害かもしれませんね。

でもそれ以上に毛利輝元と石田三成は文官肌で気があったって感じもします・・・

2008/3/24(月) 午前 7:31 [ レフティ ]

う〜ん、元就のようにはいきませんでしたか。。
いささか虫が良すぎる気もしますネ〜。
大幅な滅封が後の討幕に繋がっていくんでしょうカ。

2008/3/24(月) 午前 9:08 ララ

顔アイコン

>lefty0210さん
輝元の東西対立に乗じて西国を掌握するということ自体や、阿波の
占拠などはなかなか侮れない手腕だと思いますが、いかんせんこれに
実体を伴わせるためには、徳川家康の克服は絶対必要なわけで、
それに気づくことができていなかったとしたら、やはり甘いと
いわざるを得ないかもしれません。

>ララさん
大津・四国・九州。伊勢などで毛利軍は主力として活動しています
し、輝元自体かなり積極的に活動をしている経緯を考えると、いくら
広家の尽力があったとはいえ、これで許されると本気で思っていた
としたら、やはり元就や叔父たちに比べると劣る気がしますね。

2008/3/28(金) 午後 7:22 [ jir*_*abu*o_*006 ]

顔アイコン

隠れ毛利ファン?ってけっこういる気がします。今度,毛利輝元公のお墓を載せます^p^。三成の画策に,上杉家・直江兼続がかんでいたなんて話も小耳にはさみました^−^

2008/4/26(土) 午前 0:48 佐野雄人

顔アイコン

>makuさん
関ヶ原前後の毛利氏の動向って結構おもしろいですしね。
上杉−三成−毛利ラインの構築など、関ヶ原前夜の動向の
研究が期待されますね

2008/4/28(月) 午後 11:12 [ jir*_*abu*o_*006 ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
10/31まで秋の行楽キャンペーン実施中
衛生対策製品クレベリンの姉妹ブランド
クレベ&アンドハンドジェルが新登場
今だけ。お試しキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事