アッーと驚く?徒然日記【不定期版】

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今までのブログを誤って削除してしまったため、リニューアルです。
 
平家物語の後半になると、栄華を極めた平家一族はついに都を追われ,西へ西へ逃れながら滅亡へ道を突き進む事になる。このなかで、ひときわ強く、大きな働きを示すのが平教経、すなわち能登殿だ。
屋島の戦いでは源義経の腹心の一人、佐藤継信を討ち取り、さらに壇ノ浦の戦いでは鬼神のごとき奮戦をみせ、義経をあと一歩まで追いつめる働きをみせるも果たせず、源氏方の安芸兄弟を「さればおのれら死出の山の供せよ」と両脇に抱えて捕らえ、道連れに入水した・・・という平家物語での活躍はあまりにも有名である。これはよく高校などの古典の授業でも良く出てくる。

ところが、じつはこの平教経、壇ノ浦ではなくて、その前年、すなわち寿永3(1184)年の一ノ谷の合戦で討ち死にしたという情報もある。「吾妻鏡」によると、義経方の部将・安田義定が討ち取った平家の将のなかに、平教経の名が挙げられている。そして、以後平教経の名前は出てこなくなる。もしこれが事実だとしたら、平家物語でのエピソードは脚色どころか、全くの虚構ということになる。では、実際のところはどうだったのだろうか?

源平合戦を調べる上で、重要な史料のひとつである「玉葉」という日記がある。これは当時の公卿・九条兼実が書いた物で、源平合戦などの記事や風聞などを多く載せており、当時を知る上で欠かせない史料である。その中に一ノ谷の合戦についての記述があり、寿永3年2月19日の項目には、討たれた平家の将達の首が都で晒された時の模様が記されている。そこでは、教経の首について「渡さるる首のうち、教経に於いては一定現存す」と記述されている。ここで一定(いちぢゃう)とは確実である、確かにという意味である。そして、現存を「生きている」という意味でとるか「存在する」という意味で取るかで変わってくるのだが、わざわざ教経の首にだけ言及しているということは、当時から都で彼の生死が話題になっており、情報が錯綜していたことを示している。
また「醍醐雑事記」という史料のなかでは壇ノ浦で自害した平家の一族の中で,平知盛などとともに、能登守教経の名前が挙がっている。

 また、一ノ谷の戦場のなかで、夢野という場所がある。ここは、平教経が陣を布いた場所と伝わっている。一ノ谷では平教経の死亡に関する史跡は壇ノ浦以外には無い。平敦盛など、そこで死んだ将の塚などはもちろんだが、平重衡が生け捕られた場所も特定され、碑がたっているにも関わらずである。
そして、屋島などにも教経に関する史跡は多い。後付けのものが殆どとしても、全てが虚構と言いきるのは難しいだろう。やはり、能登殿は壇ノ浦で最期をとげたんだろう。

そして何より,能登殿がいるからこそ、終盤の平家物語は盛り上がると思う。一ノ谷の合戦直前に、妻との最後の時を惜しむ兄通盛を諌めたり、その兄に仕えた菊王丸を可愛がり,その死を悲しみ引き上げてしまうなど、人間臭いエピソードも多く、義経の宿敵のポジションは不動のものといっていい。

一昨年の大河ドラマ「義経」では清盛一家に焦点を絞ったため、敦盛や教経の出番は皆無だった。そして、能登殿のポジションは知盛や平資盛がつとめていたが、知盛は平家全軍の指揮官だし、やはり資盛では力不足な感が否めない。
有名な「乗り合い事件」を起こしちゃってるし、建礼門院右京大夫との恋など、やんちゃしてる貴公子然としたイメージはあっても、王城一の強弓のイメージは無いのだ。

写真は北九州市門司区にある壇之浦合戦壁画より、能登殿と義経の対峙。

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