アッーと驚く?徒然日記【不定期版】

最近更新出来てませんねえ・・・・うむむ

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こないだサークルKへいったところ、戦国武将のフィギュア「戦国覇王」(500円)が
売られていたので、おもわず購入してしまいました。

このフィギュア、もともとはデル・プラド社が出していた同名のフィギュアつき雑誌の
ものだったですが、デル・プラドが倒産した後、販売用として版権元から物販の許諾を得た商品
です。最初に雑誌として発売されていた際には週間雑誌のくせに定価1750円(!)という
恐ろしい代物でした。さすがに、これには驚き当時の私も安い1号あと何冊かだけ買って断念
した記憶のあるものでした。
しかも、本誌も新人物往来社が出している本の内容をぶつ切りにしただけのもので、別に
「有名な学者の書き下ろし」だとか「新見解が多数!」というものではなく、お世辞でも
高クオリティとは言いがたいシロモノでした。

(ちなみに、歴史関係の本は、ちゃんとした学者の本を買うのが一番無難だと思います。
モノによってはかなりいい加減なことが書いてあったりするので・・・)


で、いくつか買ったところ、加藤清正、小西行長が最初に出てきました。この2人は
不仲なことで有名ですね。いきなりこの2人が出るあたり、波乱の予感がします。
で、他にもいくつか買った結果伊達政宗(フィギュアの顔がすこし気持ち悪いw)、
島津義弘などが出ました。あとは、オークションで気に入ったもの(石田三成、藤堂高虎など)
だけを購入しました。

結構痛い出費でしたが、このテのものには結構弱いらしく、現在私の部屋の机の上は
武将たちの陣中のような状態です。

たしか、もともとの雑誌のシリーズは75冊でたらしいので、この際シリーズ化してくれれば
良いんですがw

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さて、有名な長篠の戦です。
この戦いは小学校の教科書にも載っているくらいの、超有名な、織田信長を
代表する合戦といっていいでしょう。

まず、この合戦の経緯ですが、天正3(1575)年5月、武田勝頼は離反した奥平貞昌が篭る
長篠城を包囲します。城方は徳川家康・織田信長に救援を要請し、両者は軍勢を率いて
出陣します。このときの鳥居強右衛門のエピソードは良く知られています。
この動きに対して武田勝頼は城の押さえの兵を残して、決戦を挑んだが鉄砲の前に敗れる・・・
といったものです。

この合戦では織田信長の「鉄砲三段撃ち」があまりにも有名ですが、近年では
見直されつつあるということも、話題になっています。
つまり、実際問題として、鉄砲三段撃ちが不可能だったということです。
鉄砲三段撃ちというのは、千人ずつ三段交代で弾ごめなどをさせ、間隙なく鉄砲を
打ち続けるという戦法です。この戦法を実行するためには合図を集中させねば
なりません。しかし、かなり広範囲に布陣した数千人、しかも場所は人馬や武具、
それこそ銃声が響く中でこれが可能なのかという問題が出てきます。さらに、長篠という
場所は狭隘な場所であり、さらに展開した武田軍が同時に射程に入るのかという問題も
あり、近年では見直しが進んでいます。
ただ、鉄砲の数については、信長および参陣した武将のものだけでなく、参加していない
細川藤孝などからも鉄砲をかき集めていたらしく、かなりの数があったようです。
また、記録などを見ても鉄砲が大きな役割を果たしたのは間違いないでしょう。
鉄砲を臨時にかき集めたにせよ、組織的に運用したという点が大きいようです。


また、武田騎馬軍団についてですが、これも近年ではそのありようが見直されています。
騎馬軍団というと、テレビなどでお馴染みな、騎馬隊のようなものが思い起こされますが、
そもそも『甲陽軍鑑』に「一つの備えで馬乗りは7,8人」と出てきます。また、軍団全体の
騎馬の保有率は一割程度、関東の北条氏よりも少ないほどです。
しかしながら、信長は再三にわたり「馬防柵」による対策をさせていますし、また武田方の
甲陽軍鑑にも「小幡衆は馬が巧みに」「(山県・逍遥軒に続き)これまた馬にて・・・」という
記事があり、やはり馬を生かした戦術が撮られていたのは事実のようです。
ただ、従来イメージされていたような「武田騎馬軍団」とはイコールといいがたいのも事実です。

また、この戦いで勝頼が決戦を選んだ理由として、山県昌景・馬場信春といった宿将たちの
慎重論を蹴り、側近の跡部勝資や長坂光堅の積極論を採用したからだと言われています。
しかし、このとき長坂光堅は駿河にあり、長篠には参陣していませんでした。『甲陽軍鑑』では
長坂・跡部といった勝頼の側近は不当に貶められているようで、両者は口ばかりの奸臣で信玄も
嫌っていたとされていますが、長坂は板垣信方の後任として諏訪を任された人物であるし、
跡部も山県昌景・原昌胤らと同じく竜朱印奏者として信玄政権の中枢にあった人物です。
また、両者は最後は勝頼を見捨てて逃亡したといわれていますが、実際は天目山まで従った
(跡部は諏訪で討たれたとも)らしく、武田家衰退のスケープゴートとされている印象を受けます。
武田勝頼が決戦に踏み切った理由として、背後の鳶ノ巣山砦が陥落して背後が危うくなったため
という理由も考えられています。また、勝頼が強行したというエピソードがあります。しかし、
『甲陽軍鑑』には武田信豊、穴山梅雪らが勝頼を置いて勝手に撤兵してしまったという
逸話が残っています。ことの真偽はさておき、こうした逸話が残ること自体、勝頼の
家中での立場を反映しているような気がするのですが、いかがでしょうか?

ともあれ、この合戦で武田方は
山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟、三枝守友、土屋昌次など
軍制の中枢を担う武将の大半を失い、勢力の交替を余儀なくされます。
その後勝頼は、真田昌幸などを重用し、軍団の建て直しに奔走することになります。

羊水騒動を考えてみる

「時事問題」でもないですが、ホット(?)な話題なので、このカテゴリでw

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080207-00000002-jct-ent


まあ、ことの発端はラジオの「オールナイトニッポン」で倖田來未が「35歳過ぎると
羊水が腐ってくる」という旨の発言をしたこと(いまさらですが)。
これがネットなどを駆け回り、批判、非難が噴出した結果、倖田をCMなどに起用していた
各種企業が自粛し、さらに本人も活動を自粛し、テレビのニュースで謝罪するに至りました。



今の時代35歳過ぎてから初産というケースも珍しくもないことだし、そもそもが
羊水は加齢によって腐るなんてことは無いので軽率で無知な言動ではあります。とくに、
有名な歌手なわけで、影響力も大きいでしょうしね。
実際問題、ムナクソいいもんではないでしょうし・・・(女性の方は特に)。
これについては真摯に受け止めて反省しなきゃならんと思います。


とはいえ、その反応の仕方が怖いというか、過剰反応気味なのは否めないと思います。
なんというか、批判・非難の枠を超えて「吊るし上げ」のような状態になっている感じです。
「もうどーでもいいよ、んなこと・・・」てのが正直なところです。

そりゃ、中には本当に不愉快な思いをした人もいるだろうけど、今ネットで
吊るし上げて得意になってる連中のうちどの程度が本当にそう思っているかは甚だ疑問です。
「お前、発言云々よりただ倖田嫌いなだけと違うか」「暇つぶしに叩きたいだけ?」
というような手合いも結構見受けられます。叩くこと自体が目的化してる印象です。
ココまで大きくなった発端も、ネットの書き込みから始まって、
スポンサー企業への「通報」行為が奨励されたかららしいです。
正直、そこまでやるか・・・という感じです。ちょっと前までなら、
自分のホムペ、書面かそのラジオ曲の放送で終わったような気がします。

あと、マスコミの対応もいかがなものでしょうか?
ネットの煽りに乗せられている印象すらうけました。
同じ失言でも、政治家などの「失言」がここまで大騒ぎになったでしょうか?
例えば「朝ズバ」を見ていても、みのもんたなども結構要らんコト言ったりしていますが
ここまで大事になったでしょうか?また、亀田叩きにしても、内藤戦の前まで
公然と批判を展開してたマスコミがあったでしょうか?私個人としては、亀田兄弟アンチ派
なのですが、さすがに負けた途端、試合内容や反則行為に止まらず、今までマスコミが助長
させてきた面のある兄弟の言動までしたり顔で叩いたのは事後法のような感じがしました。
流石にマスコミには無節操というか、思慮の浅さを感じざるを得ません。



上記の記事の指摘通り、ブログやmixiの炎上とかも同じ根っこだと思います。
いまや炎上しているブログを晒しあげるためのサイトがあったりします。
これについてもあまり趣味がいいとは言えないと思いますが・・・

ブログやmixiなどで、個人特定が容易な状態で軽率なこと(プチ犯罪告白など)を
するというのは、おそらくネットの持つパブリック性(画面の向こうに赤の他人がいる)を
理解していないために引き起こされるんだと思います。
「重大ではないけどルール違反」なことの告白から炎上・・・というパターンは多いです。
確かに非常識な言動であったり、腹立たしいようなものもあったりします。
それこそ失言から炎上しだすパターンも多いようです。

例えば、二十歳前での飲酒や喫煙はルール違反ですが、おそらく多くの人がやっているようです。
特に前者は、就職したり大学へ行ったりすると結構やった人も多いのではと思います。
それを公然と(自慢げ)に披露するのは確かにどうかと思います。痛いですし・・・・
また、コミケでバイトしていた子が来場した人たちを「キモい」と言っての炎上など。
それについて、コメントで軽率さを批判したり嗜めたりする必要はあるでしょう。
とくに後者については、相手は「お客さん」なわけですから・・・・

しかし、それでも実名やプロフィールを割り出して晒した上、学校や勤務先への通報や
密告を奨励したりするのはいかがなものでしょうか。それで一人の人間の人生を場合に
よっては大きく狂わせかねないわけですから。

また、きちんとした形で謝罪ををした以上、しつこくたたき続けるのもどうかと思います。
先日の船場吉兆の母子みたいなのは論外ですが、テレビで見た倖田の謝罪とか、ブログ
などでの言葉を選んだ謝罪については、本心を確かめるすべは無いですが、少なくとも
見た感じは反省しているわけですから、まあ今後の様子を見ればいいとは思うものの、
ねちねち追撃するのはどうかと思います。そういう手合いはそれ以上何を求めて
いるのでしょうか?



もちろん、中にはブログやmixiでネコを惨殺したとか、轢き逃げやったとか、ゴキブリを
バイト中客に出す商品と一緒に揚げたとか笑えないレベルのものもかなりあります。
こういう連中には相応の制裁が与えられて然るべきだとは思いますが、その制裁を
与えるのは、面白半分にネットで晒したり電話攻撃を煽っている連中ではないはず。

これらも「倫理や正義」を謳い文句に行われる場合が多いようですが、この場合も
心底から憤っている人がどの程度いるのやら・・・という印象は否めません。叩いて
吊るし上げるのを面白がっている連中が多いようです。

いずれにせよ、一歩ひいて冷静にことを眺める必要があるのではないでしょうか?

http://www.zakzak.co.jp/top/2008_01/t2008012304_all.html

戦国武将、上杉謙信の後継者をめぐる「御館の乱」の舞台となった新潟県妙高市の鮫ケ尾城跡で、戦火で焼けたとみられる炭化したおにぎり4個が、市の発掘調査で出土していたことが22日、分かった。

 当時は雑穀を混ぜたおにぎりが一般的だったが、出土したおにぎりは米だけの“銀しゃり”。市の担当者は「謙信の養子の景虎陣営が、最後の戦いを前に武将らに振る舞ったのではないか」と話している。

 おにぎりは平成18年度の調査の際に、城内の「三の丸」付近で陶片とともに見つかり、握りこぶしほどの大きさで、重さは約40グラム。市が国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に鑑定を依頼したところ、手で握ったり、葉でくるんだりした痕跡が見つかり、おにぎりと判明した。具は見つかっていない。炭素測定で戦国時代のものであることも分かった。

 市によると、鮫ケ尾城は上杉家が信濃と越後の境に築いた山城。同じく謙信の養子の景勝との家督争いに敗れた景虎が逃亡中に立ち寄ったところ、城主の裏切りに遭い、包囲された景虎は1579年、20代の若さで自害。城は火を放たれ、廃城となった。

 おにぎりは26日から新潟県長岡市の県立博物館で展示される。




ZAKZAK 2008/01/23

以上転載です。

上杉景虎が最期をとげた鮫ヶ尾城で発見された握り飯。
明日はない、最期を迎える前の末期の一食として握られたものでしょうか。
真っ黒に焼け焦げているのが、悲壮感が漂う印象を受けます。
最期の時が近づく中、景虎たちが食べたものの一部でしょうか。


この握り飯、当時の状況を今に伝える貴重な資料です。
この鮫ヶ尾城が炎に包まれたことの証左でもありますし、また、城中のどんな層が
これを食べたのかなど、さまざまなことを考えたり調べたりする余地を与えてくれると
思います。この焼けた米の塊が、当時の状況をとく手がかりになるのですから、
歴史って興味深いと思います。
400年前の戦火の中にあった、まさに歴史の証人といえる遺物ではないでしょうか。

武田信玄の没後、武田家を継いだのは四男の勝頼でした。
この勝頼ですが、甲陽軍鑑によると「陣代」であったとされています。

これはどういうことかといいますと、武田家の正式な当主は勝頼の子・信勝であり
勝頼は当時まだ幼かった太郎信勝の代理人でしかないということです。

しかし、実際のところは信玄は義信亡き後、やはり勝頼に「当主として」後を継がせる
意向があったようです。
たとえば、信玄が足利将軍家の側近一色藤長に宛てた書状によると、義昭と藤長に
御領所(将軍家の所領)を進上するかわりに、「愚息四郎官途ならびに御一字のこと」を
願い出ています。このなかで信玄は勝頼にしかるべき官職と義昭の名前の一字を賜りたいと
言っているわけです。信玄(晴信)、義信は2人とも元服の際に、嫡男として時の足利
将軍から名前の一文字を貰っています。つまり、勝頼に将軍足利義昭の一字を願い出ると
いうことは、信玄が勝頼を武田家次期当主として考えていたことの証左ともいえる訳です。

また、信玄の晩年(元亀2年ころから)、勝頼が信玄と連名で領国全体の統治に関わる文書を
発給していたり、勝頼の地位を確立させようとしています。
しかし、信玄が死ぬ2年前ころのことで、正直言って勝頼への政権移譲(当主としての地位の
確立)は不十分なままでした。義信が後継者から脱落するまでの間、勝頼は確かに武田一門の
有力者のひとりではありましたが、親族衆の一人であるという点では信玄の弟や他の子息、
さらには穴山氏などともそれ程変りは無かったのです。

「甲陽軍鑑」の勝頼陣代説というのも、勝頼の体制が十分整っていないうちに信玄が死んで
しまったこと、または勝頼が領国全体の仕置きにタッチするようになったのが遅かったなどの
要因から生まれてきたようです。

信玄はもっと早くから勝頼体制へのシフトを行う必要があったのですが、それがかなり
遅くになってからでした。
信玄・勝頼の研究で知られる笹本正治教授はその要因として信虎追放・義信事件があったのでは
ないかと指摘していますが、実際に義信事件の直後には小幡氏あての書状や生島足島神社に提出させた
家臣団の起請文など、領内に大きな動揺があり、それを鎮めようとしているので義信事件が尾を
引いていたのは間違いなさそうです。

かくして勝頼は家督を継いだのでした。


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