アッーと驚く?徒然日記【不定期版】

最近更新出来てませんねえ・・・・うむむ

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

二日目です。
二日目はまず、甲斐善光寺へ行ってきました。
甲斐善光寺は武田信玄が、川中島の合戦による戦乱を避けるため、また
善光寺の宗教的な権威を取り込むために甲斐へ信州の善光寺を移したものです。
善光寺の宝物殿には、鎌倉時代末期に作られたとされる、国内最古の源頼朝、源実朝木像や
信玄の朱印状、秘仏などが所蔵されていました。因みに、わたしがこの日一人目の参拝者だった
ようです(朝でしたので・・・)。

つぎに、甲斐善光寺そばにある、小山田信茂首塚を見て来ました。
小山田信茂は郡内の領主で、武田二十四将にも数えられる武将として知られています。
大河ドラマ「風林火山」に登場した小山田信有(田辺誠一)の次男にあたります。
信茂は武田家滅亡の際、土壇場で信長に寝返ったものの許されず、甲斐善光寺で
首を刎ねられたのちに、善光寺裏手に葬られたといわれています。
信茂離反についてはまた別の機会に触れたいと思います。
今では民家のすぐ目の前、果物畑の中にあります。

そして、次に行った先は東光寺。諏訪頼重終焉の地として知られています。
蘭渓道隆の作ったという庭園などを見て来ました。頼重や武田義信が最期にみた
景色もこんな感じだったのでしょうか。
このとき、住職の奥様からお話を伺うことが出来ましたが、やはり戦時中には
すぐ近くまで空襲があり、幸い寺には被害はなかったものの、苦労があったそうです。
そして、諏訪頼重と武田義信の墓所はすぐ隣同士にありました。
諏訪頼重が自害した寺に後年武田義信が幽閉され、その頼重の外孫にあたる武田勝頼が
甲斐武田家を継いだのは、何か因果のようなものを感じました。

その後、山梨県立博物館を見学してきました。
山梨県の歴史にさまざまな方法でアプローチすることが出来る施設です。
このときの(現在の)企画展は収蔵品のなかからとくにすばらしい品を紹介するという
ものでした。徳川十六将図、穴山信友・穴山梅雪書状、山梨ゆかりのミシンなど
興味深いものが多かったです。

そして最後に下部温泉にたちよって旅は終了でした。
やや寂しい感はありましたが、やはり信玄もからだを癒したと伝わる温泉だけあって
とてもいいお湯でした。


一人旅は気楽ですし、気兼ねがないので(とくに自分の場合、自分の見たいところ=他の人も
見たい、というわけではないので)、折をみて行けたらと思います。
今度は米沢あたりへ行ってみたいですね。

こんにちわ。

さて、私はこの間、休みをつかって甲府へ旅行に行ってきました。
東海在住なので、身延線をつかって鈍行で(なので5時起き)行ってきました。

身延線でうつらうつらしながら甲府へ到着。
まずはバスで武田神社へ行ってきました。まずは、神社本殿でお参りをして(初詣ですね)、それから
巫女さんに御神酒を頂きました。そのあとで、宝物殿を見ました。
宝物殿には、明治時代に三条家(信玄正室の実家の縁)から奉納の太刀や、武田家伝来の家宝などが
展示されていました。この中で、昨年の大河ドラマの主人公・山本勘助の遺品も展示されていましたが、
なにぶん勘助自体が判らないことだらけの人物なので、これらの伝来にも興味がありました。
あとは、風林火山でおなじみの「四如の旗」や花菱紋の旗なども展示されていました。

そのあとは、バスを使って積翠寺へ。信玄が生まれた時に使われた井戸や、信玄誕生の地、要害山を望みます。
そのあと、バスが時間に一本(!)なので、歩いて武田神社前まで移動しました。途中には、信玄の次男で、盲目
だったことで知られる竜芳(海野信親)の墓所がありました。
彼は盲目ゆえに家督を継ぐ事無く、半僧半俗の暮らしを送り、「御聖道様」と呼ばれた人物で、織田信長の
甲斐征伐の時に自害しています。ちなみに、武田家現当主で、「トリビアの泉」にも登場した武田邦信氏は
この竜芳の家系です。

また、武田神社は信玄居城である躑躅ケ崎館の跡地なので、周辺には武田氏重臣たちの屋敷跡が点在しています。
積翠寺からの帰路には、小山田信茂屋敷跡、武田逍遥軒屋敷跡がありました。
ちなみに、小山田屋敷跡は警察署、逍遥軒屋敷跡は公園になっていました。
彼らの武田氏滅亡時の動向は正直あまり褒められたものでは無いのですが、屋敷跡にあった解説文は
そのことは上手く触れられないでいましたw

そして、甲府駅到着。そのあと、電車で塩山へいって、恵林寺を見てきました。
恵林寺は「心頭滅却すれば火もまた涼し」で知られる快川紹喜ゆかりのお寺で、信玄の菩提寺です。
信玄の墓所の周りには、山県、馬場、内藤、香坂はじめ多くの家臣団の墓碑も残されています。
その中に、松浦藩主のお墓が混じっていたのが印象的でした。あと、信玄を模した不動明王像も
残されていました。

そして、甲府に戻り風林火山博を見て、一日目は終わり。二日目に続きます。

イメージ 1

武田信玄の重臣に四名臣と呼ばれる面々がいます。
そのメンバー中、どういうわけか山県昌景、馬場信房、香坂弾正に比べると、内藤昌豊(昌秀)は後世
各種メディアでの扱いが悪い印象を受けます。

たとえば、大河ドラマ「武田信玄」では陣馬奉行の原昌俊などは登場したのについに姿を見せず、
昨年の「風林火山」でもついに姿を見ませんでした(秋山信友ですら終盤に登場したのに)。
ましてやテレ朝版風林火山では出る筈が在りません(香坂しかいなかったし・・・)

また、マンガ「センゴク」(宮下英樹)に、武田軍団を預かる4人の将!みたいなキャッチコピーで
武田家臣が登場した時も、馬場、山県、香坂は登場したものの、後一人は内藤昌秀ではなく秋山信友
でした。

かつての大河ドラマ「天と地と」では出ていたらしいですが・・・。武田と敵対した上杉を扱った作品に
出てくるのに、武田主役の作品では中々出番が無いという、微妙な扱いです。

しかし、この内藤昌秀、『甲陽軍鑑』の中で山県昌景をして「典厩信繁と内藤修理亮こそが真の副将」と
言わしめているほか、「彼程の武将ならば常人以上の働きは当たり前」であるからということで
感状を一通も受けなかったという逸話も伝わっています。

小荷駄隊の指揮を信玄に任されたときの事、殿ならばともかく小荷駄隊の指揮というどちらかというと裏方の
仕事に不服気味だったものの、信玄から小荷駄部隊の重要性を諭されるとすぐさま悟り、勲功を挙げたという
エピソードが伝わっており、感状のエピソードとともに個人の武功よりも軍中全体を重視できる人物だった
ようです。

そして、三増峠合戦で武功をあげ、この合戦で戦死した浅利信種の後任として箕輪城代(上州方面の担当)に
抜擢されるなど、武田軍団の中枢を担った武将のひとりでした。
その実力は、代替わりした勝頼がわざわざ彼に誓詞を発給していることからもわかるでしょう。

ちなみに、彼もまた他の武田四名臣と同じく、信玄から断絶していた家の家督を継いでいます。
内藤昌秀は、もとは工藤祐長であり、父が武田信虎に誅殺されたため甲斐を出奔し、のちに帰国
していた人物でした。なので、かなり後年まで工藤姓を名のっていたようです。

そんな彼も、長篠合戦で討ち死にを遂げています。


しかし、「副将」というポジションが典厩信繁とかぶるからなのか、活躍時期が信玄の後半生メインになるから
なのか、はたまた小荷駄隊の逸話など華々しさ欠けるからか、どうにも目立たない内藤昌秀。
しかし、彼のようなタイプの武将もまた、軍中にあっては重要だと思うのですが・・・。

イメージ 1

こんにちわ。お久しぶりです。・・・・・またまた更新できてないなあ。いかんいかん。
今年の大河ドラマ「風林火山」もいよいよ終了しました。その後はかつて「武田信玄」でも
描かれていましたが、さらなる波乱が武田家を襲います。


さて、川中島の合戦から数年後、信玄は嫡男であった武田義信と対立し、義信が幽閉されるという
事件が起きます。しかし、この事件に関する情報は非常に少なく、わずかな資料や『甲陽軍鑑』などの
編纂物に頼らざるを得なくなります。

まず、信玄の嫡子・義信についてです。義信は信玄の長男にあたり、母は信玄正室・三条の方です。
将軍足利義輝から偏諱を受け、さらに後には幕府の三管領に準じる身分を幕府から認められています。
軍事面でも伊那平定戦に参加して功績を上げるなど活躍しているほか、父信玄と連署した書状を領内で
発給しており、信玄は勿論、周囲からも後継者と目されていました。

ところが、永禄8(1565)年、謀叛をたくらんだとして幽閉され、守役の飯富兵部(虎昌)ほか、長坂
源五郎などが討たれるという事件が発生します。
この義信と信玄の対立について、『甲陽軍鑑』では川中島合戦時に戦を巡って父子の意見が割れた事、
信玄が高遠に異母弟の諏訪四郎勝頼を置き、さらに秋山信友や安倍勝宝をつけたことへの反発、と
いったことが列挙されていますが、川中島合戦後も信玄と義信は同陣しています。また、勝頼を高遠に
置いたことについても、信玄・信繁兄弟との対比である可能性が高く、決定打とは言い難いでしょう。

次に政治的立場の違い。義信は妻を駿河の今川氏から迎えており、義元没後当主となった氏真とは義兄弟
にあたる関係です。ところが、信玄は義元亡き後衰える今川と手を切って駿河を併呑しようとしたために
義信と対立したと指摘されています。

そして、家臣団の違い。義信に近い立場の家臣は、飯富兵部や長坂源五郎などがおり、また、穴山氏なども
義信と親しかったといいます(穴山梅雪の弟が義信事件に連座)。義信の支持層というのは、武田氏譜代の
連中や国人領主層だったようです。一方信玄に仕える家臣は、飯富昌景、香坂弾正など信玄が引き立てた
連中が多いようです。義信の支持層というのは、かつて武田信虎放逐を推進した層にあたるわけですね。

つまりは武田信玄にではなく、「武田氏」に仕えている連中ということです。信虎追放にせよ、家臣団が
軒並み信玄(当時は晴信)を支持したのも、信虎が集権化をして、家臣(国人領主層など)への軍役増大、
権力の浸透、干渉を強めたのを嫌ったからでした。ところがその意図に反して信玄もまた軍役強化、
家臣への権力行使、干渉を強めていったため、信玄に替わる当主(=義信)を擁立しようという流れが
生じたと考えられます。

これら複合的な要因(信玄と義信の政治的立場の違い、家臣団の意図etc)が絡まった結果、ついに信玄は
義信を幽閉して飯富らを誅するまでに発展したのでした。この時信玄が小幡氏に出した手紙では、「飯富や
長坂を誅殺したが、本来われら親子には別条は無いので安心して欲しい」と記されています。

そしてこの事件の後、信玄は武田氏に従う家臣、国人領主、一門衆に信玄に二心無き旨を誓わせる起請文を
信州の生島足島神社に納めさせています。現在も武田信廉、原昌胤、小山田信茂らの起請文が伝わっています。
信玄の弟や甥からも起請文を集めており、義信事件が武田氏を大きく揺るがしたことが伺えます。
そして、その2ヶ月後、武田義信死去。自害とも病死、毒殺ともいわれ、詳しい死因は不明ですが、この時
30歳でした。

信玄は武田領内の動揺を収拾すべく、断固とした処置に出たわけですが、事件発覚から義信の死まで
およそ2年が経っています。信玄としても、小幡宛の書状などを見ても何とか解決を試みていたようですし、
また、義信の処遇にも頭を悩ませていたのかも知れません。

結局これにより四男勝頼が後継者に浮上します(次男信親は盲目、三男信之は早世※ただし異説有り)。
しかし、勝頼が高遠から甲府へ移ったのが元亀2(1571)年で、信玄没の僅か2年前でした。この頃から
勝頼は領内全体の統治に関する書状や、または外交的な文書などを発給するようになり、後継者として
位置づけられるようになりました。しかし、勝頼への権限委譲、武田氏次期当主としての立場の確立が
不十分なままに信玄は没する事となり、その課題は勝頼に重くのしかかる事になります。
更に、勝頼には高遠時代に形成された独自の家臣団がおり、彼らと譜代衆、信玄が引き立てた連中との
対立という問題も発生するようになりました。

かくして、勝頼の苦闘が始まります。写真は高野山成慶院所蔵の勝頼画像です。

平将門と菅原道真

イメージ 1

イメージ 1

平将門が叛乱を起こした際に自ら「新皇」を名乗り、自分の弟や与した興世王らを坂東各地の国司に
任命した事は有名ですが、彼が新皇を称するに至った背景は、かの有名な菅原道真(写真)の霊が関わっていたと
言われています。将門の乱の顛末を記した『将門記』によると、上州の国府を占領した際に、どこからか
現れた巫女が「自分は八幡大菩薩から使わされた使者である、将門に新皇の位を道真の霊が奉る」と
告げたとあります。

一般的に、この部分は『将門記』における脚色であり、将門が道真を担ぎ出したのも、策謀にはめられた
すえに憤死した道真の霊が、謀叛を企む将門にとって都合が良かったのではないか?という程度の見解でし
たが、ではここでなぜ将門とは一見縁もゆかりも無さそうな菅原道真が出てきたのでしょうか。
道真の他にも早良親王や伊予親王など、怨霊として怖れられた人物はいます。
なぜ、道真なのか?近年川尻秋生氏によって興味深い仮説が提唱されています。


それはズバリ、道真の子息と坂東との関わりについてです。
道真の子息には高視、景行など沢山いたのですが、その中に兼茂という人物がいました。
彼は道真が左遷される際に他の子息と同じく連座して飛騨権掾(ひたちのごんのじょう=定員外の国司で、
掾は三等官)に左遷された人物でした。そして、この兼茂は常陸介(常陸国司)を勤めていた時期があり、
天慶元(938)年に常陸の官物に損害をだしたので、補填するように勘解由使から書類を出された記録が
残っており、この書類は通例国司の任期満了後数年のうちに出されるものであり、この事から類推すると、
丁度この兼茂が赴任しいていた時期は将門が一族と争っていた時期(935ころ〜)と被るわけです。そしてまた、
この兼茂が父道真の霊から「近いうちに大和国で国家に一大事起きる」を初め多くの事を聞かされた
という風聞が延長5(928)年10月にあったということも解っています。この頃は丁度道真の怨霊について噂に
成り始めていたころであり、その後清涼殿に落雷があった事などを考えても、兼茂赴任によって、当時の
常陸に道真に関する話が流布していてもなんらおかしい事はありません。

将門が「新皇」になることの仕掛人として武蔵権守だった興世王とともに、藤原玄茂が『将門記』に
挙げられています。そこで、この玄茂ですが、この人物は常陸掾であり、常陸介とは上司と部下にあたります。
そして、兼茂の後任国司と諍いを起こして将門と組むのですが、この玄茂が兼茂と入れ違いあるいは同時期に
役職にあった可能性が出てくるわけです。玄茂は兼茂が国司だったころの常陸について熟知していると考えられ
将門と道真の霊、「新皇」について、菅原兼茂、藤原玄茂が何らかの鍵を握っていた可能性があるわけです。

さらに兼茂についてはこんな話もあります。後年道真の孫にあたる人物(菅原在躬)が国史(未完成に終わる)を
編纂する際にだした菅原一族についての資料の中に、景行・淑茂・兼茂は国司を勤めたが早世したとあるのです。
しかし、兼茂については道真左遷から40年近くは生きており、しかも道真左遷の段階で官位(左衛門尉)を有して
いました。つまり、常陸介を勤めたころで60歳くらいにはなるはずであり、矛盾が生じるのです。
これについて川尻氏は、兼茂が将門の乱に関わった為に、子孫が兼茂の存在を意図的に抹殺したのではないか?
と推察しています。

今回は「戦争の日本史4 平将門の乱」に掲載されていた近年の説を紹介してみました。
たしかに、状況証拠のみで決定打に欠き、仮説に留まるものではありますが、興味深い感じがします。
将門-玄茂-兼茂の関係については従来殆ど注目されていなかっただけに、今後の研究が期待される
分野ではないでしょうか?

『戦争の日本史 平将門の乱』には他にも興味深い記事や、新説が紹介されており一読をお奨めします。


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事