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さる10日放送の大河ドラマ「風林火山」で、北条を舐めきっていた上杉憲政(市川左団次)に何回も諌言をしていた
武将をご記憶の方も多いと思いますが、今回はその長野業政(小市慢太郎)について紹介したいと思います。
長野業政は、関東管領上杉憲政に仕え、「箕輪衆」と呼ばれる西上野の領主達のまとめ役のような役割を果たしていた武将で、
川越の戦いなどにも参加していました。そして、川越での敗戦以後、主君である関東管領上杉憲政は勢力を失っていき、ついには
本拠地の上州も支えきれなくなり長尾景虎を頼って落ち延びていきます。
こうなると、関東のこれまで上杉方にいた武士達は次々と憲政を見限って北条氏康に寝返っていきます。その流れの中でも
長野業政は北条に従う事をよしとせず、上杉方につき続けます。業政にはなんと12人もの娘がおり、彼女達を近隣の豪族に
嫁がせて強固なネットワークを築いて、結束力を深めていきます。
そしてこの流れの中、北条氏康に加えて、上野はもう一つの勢力からも圧力を受ける様になります。それは信濃を手中に収めつつあった武田信玄でした。信玄ははじめは長野業政を懐柔しようとしますが失敗に終わり、結局武力をもって侵攻を開始します。
しかし、長野業政はよく防ぎ、なんと武田の精鋭を6度も追い返す事に成功しています。
そして信玄をして「長野業政が存命のうちには上州は手に入らないだろう」と言わしめています。
上州の反武田、反北条の中核として活動し続けた業政でしたが、永禄4年(1561)年、ついに病に倒れ、死去しました。
後を継いだのは長野業盛。当時14〜5才の少年領主です。
それに目をつけた信玄はいよいよ上野侵攻を本格化させます。業盛も父と同様勇猛さで知られ、善戦しましたが、悪化する情勢の中、永禄9年に武田勢2万の猛攻をうけ、遂に箕輪城は陥落、長野業盛は自害して果てました。時に19才の若さでした。
なお、剣豪として著名な上泉伊勢守は、この長野父子に仕えていたことでも知られています。
余談ですが、この長野氏の祖先は名前からも察しがつく通り在原業平と言われています。
ちなみに、長純寺に残る長野業政木像も、下膨れな公卿然とした容貌です。
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