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今川義元の母であり、今年度の大河ドラマ「風林火山」にも登場した寿桂(慶)尼は、夫の死後、
後を継いだ息子今川氏輝が年少のため、彼に代わって実際に領内を統治したことで知られています。
寿桂尼は領国経営に関係した書状を発給する際に、「歸(とつぐ)」という一字を彫った印を捺して
男性の花押の代わりとしていました。ちなみに、氏輝は病弱だったらしく、一旦は政務を執行した
ものの、再び寿桂尼の発給書状が出るなど、あまり領国統治に参画出来なかったようです。
そして、義元が登場し、辣腕を振るうようになるのを見届けて、政治の表舞台からは退くことになります。
しかし、義元が桶狭間で横死すると、今川家はたちまち衰退していきます。やがて寿桂尼も病に倒れ、永禄
11(1568)年3月に世を去ります。その時駿府今川館の艮の方角に葬るよう言い残しています。艮の方角は
今川館から見て鬼門にあたるわけで、死してなお今川家を守り抜こうという女戦国大名の気概を感じます。
しかし、その願いも虚しくその年の暮れ、武田信玄による駿河侵攻を受け、今川領国は崩壊を迎えることになります。
写真は寿桂尼画像(正林寺所蔵)
そして、時代は少し遡りますが、西にも当主に代わって領内の統治を執行した女性がいました。
播磨守護の赤松政則の室・洞松院です。彼女は応仁の乱の当事者として著名な細川勝元の娘に
あたり、明応2(1493)年に播磨守護の赤松政則に嫁ぎます。ちなみに、洞松院は容姿に優れず、
ゆえに初めは出家していたが、弟の細川政元の意向で還俗したと言われてます。
夫の政則は、嘉吉の変により没落した赤松氏を再興した人物で、播磨や美作の支配を巡って山名氏と
抗争を繰り広げた他、将軍足利義尚・足利義稙のもとで勲功を挙げて、将軍の一門以外では初めて
従三位に叙せられています。
しかし、夫政則は明応5年4月に42歳で没します。政則は洞松院との間に一女(めし、赤松義村室)をもうけて
いましたが、男子がおらず、赤松一族から義村を養子に迎えます。そして、それからしばらくすると
政則時代の有力者である浦上則宗や別所則治らが没したため、洞松院は義村を後見して領国支配を
実際に行うようになり、それに関する印判状も何通か現存しています。
この頃、幕府では足利義稙(10代将軍・細川政元に追放される)と足利義澄(11代将軍・政元
が擁立)が対立していました。この段階ではすでに政元は暗殺されいましたが、その二人の養子
細川高国と細川澄元がそれぞれ義稙と義澄を擁立していました。
赤松氏は細川澄元に与していましたが、船岡山の合戦で澄元・義澄が西国の大大名・大内義興と結んだ
高国に敗れてしまいます。このときに高国派との和睦に尽力したのも洞松院でした。
やがて義村が成人すると、義村は親政色を強め、次第に宿老の浦上村宗(則宗の子)らと対立します。
やがて両者は合戦に及びますが、義村は連敗します。義村は子の道租松丸に家督を譲り強制的に隠居させ
られた挙げ句、暗殺されてしまいます。このとき洞松院と義村室は浦上村宗と結んでいたようて、
義村を見限り浦上と行動を共にしていたようです。
その後は道租松丸(のちの赤松晴政)の後見もつとめていますが、晩年の動向はハッキリしません。
なかなか行動的というか、苛烈な生涯を送った女性でしたが、寿桂尼ほど資料が多くないので
その実像、領内統治の全容は解らない所も多いです。しかし、戦国時代の女性の動向のひとつとして
中々興味深いと思います。
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