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関ヶ原の合戦の首魁といえば、誰もが「石田三成」と連想するでしょう。しかし
実際の総大将は毛利輝元でした。
輝元は、かの毛利元就の孫に当たり、元就の後を継いで、当時日の出の勢いだった織田信長と争い、
豊臣秀吉に従ったのちも五大老の一人として、山陰山陽十カ国を領する西日本最大の大名でした。
秀吉の死後、秀吉の遺言を悉く破り、台頭し始めた徳川家康の存在を石田三成は危険視するようになります。
そして、家康が上杉景勝に対して「謀叛の疑いあり」という名目で討伐の軍を起こして西に向かった隙に
三成は挙兵します。この時に三成は、毛利輝元を総大将に擁立したのでした。
(ちなみに三成はこの時大谷吉継に「お前は人望がないから毛利か宇喜多秀家を立ててお前は
裏方に回るんだな」という旨のアドバイスを貰っているそうです)
この時、元毛利の外交僧・安国寺恵瓊は輝元を積極的に西軍総大将として擁立したのに対し、毛利家中でも
吉川広家、宍戸元続、益田元祥らは反対で、家康の重臣榊原康政に宛てて輝元の意向ではない旨の書状を
送っています。
さて、輝元は大坂に入ると宇喜多秀らと檄文を発したり、加藤清正に宛てて「秀頼のため大坂へ上るべし」
という趣旨の書状を送っています。
そして、毛利一族の軍勢も続々と招集され、伏見城攻撃に参加した後、吉川広家らの軍勢は伊勢方面の東軍の
城を攻撃、毛利元康、小早川秀包らの軍勢は近江大津城を攻撃しています。また、四国方面でも村上水軍を
動かして加藤嘉明や藤堂高虎が不在の伊予を攻撃させています。
しかし、関ヶ原本戦では、毛利勢は結局全く動く事が出来ませんでした。毛利家の西軍加担を危惧していた
吉川広家や福原広俊が東軍に内通し、南宮山一帯に布陣した軍勢の動きを封じてしまったのです。
この時吉川広家は、黒田長政らと交渉しており、決戦前日の9月14日にはすでに話はまとまっており、
本多忠勝・井伊直政の書状と福島正則・黒田長政の添え状を受け取っていたのでした。
「不戦ならば毛利の本領は保全される」ということですね。
そして決戦当日。吉川勢が毛利他の軍勢の動きを完全に封じてしまっています。さらに南宮山一帯からは
関ヶ原の主戦場は殆ど見えないという状況でした(南宮山の軍勢は大垣城の後詰め部隊だったとも)。
結局毛利は全く動く事なく終戦を迎えます。しかし、この内通については、関ヶ原へ出陣した毛利軍の大将
毛利秀元(輝元養子)は全く知らされていなかったようです。そのため、度々出陣の催促をしています。
結局合戦は一日で決着が付き、毛利も次の行動をどうするかの決断に迫られます。
この時毛利軍は殆ど無傷だった上に、大津城を落とした毛利元康、小早川秀包、立花宗茂らの軍勢、
丹後田辺城を開城させた小野木公郷らの軍勢も控えていました。っそして、大坂城内の毛利軍も
いました。
徹底抗戦を唱えたのは毛利秀元、立花宗茂らでした。大坂に籠り、秀頼を擁立するという作戦です。
彼らは秀頼という掌中の珠を最大限に活用して、和睦するにしても有利な条件を引き出そうと
したのでしょう。
しかし、9月17日、家康の意を受けた黒田長政らは書状を送ります。内容は「今回の戦は三成らが逆意を
もって起こしたものである。吉川の事もあるし、毛利については悪いようにしない」という旨でした。
つまり、大坂城を退去すれば本領は安堵しますという内容ですね。
結局輝元はこの書状に安心したのか、その5日後に返事を書いています。
内容は、本領安堵に関する礼と、家康への二心無きを示したものでした。
毛利勢は大坂城を明け渡し、家康が入城します。ところが、にわかに雲行きが怪しくなってきました。
9月末には、毛利に対し、島津攻めの先鋒をつとめるよう要求してきます。さらに、10月2日には黒田から
吉川に宛てて再び書状が届きます。
内容は「輝元は三成の一味に味方して大坂へ入った上、諸将への書状に連判し挙兵を仰いだので、敵意は
明白である。ゆえに毛利の所領を召し上げることにする。ただし、吉川はよくやってくれたので、毛利領の
うち1、2カ国を与える」というものでした。
今まで広家や輝元が受け取った書状の宛名に注目して下さい。どれも黒田長政とか井伊直政とかが
差し出し人であり、家康ではありませんね。つまり今まで広家らが受け取ってきた書状には何ら
実効力は無いということです。いくら抗弁しても「家康の知ったこっちゃ無い」で済まされる
わけです。これには吉川広家は焦ります。結局彼が我が身代にかえても、と嘆願した結果
周防長門の2カ国のみが安堵されました。石高としては120万石から一気に36万石に
減じられる結果になりました。
吉川広家は、たしかに家康と対立するのが得策ではないと考えた上で、毛利氏存続のために
奔走したことは認められます。しかし、その背景には安国寺恵瓊との根深い対立もありました。
また、輝元にしても、名目だけの大将というには、アクションを起こし過ぎていました。事実毛利
軍も本戦以外では戦闘に参加しており、大津城攻めでは主力を担っていました。この状況で、家康
本人どころか、一大名の黒田長政の書状のみで安心してしまったのは、両者とも毛利元就の孫とも
思えぬ甘さだと言わざるを得ないような気がします。
この結果に特に憤ったのが秀元でした。彼は剛勇の気質があり、本戦では広家にたばかられた
という思いがあった上、大坂城では秀頼を擁立しての篭城を奨めたのでした。当然彼の怨みは
吉川広家に向きました。そして、後年秀元は毛利本家ともしばしばトラブルを起こすように
なっています。あるいは、この時の不完全燃焼がそういった行状に繋がったのでしょうか?
吉川家は岩国を与えられますが、家中の白眼視に晒される事になったのでした。
しかし、この一件が後に明治維新を生むベースになるのですから、歴史とは面白いものだと思います。
(写真は輝元像)
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