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さて、有名な長篠の戦です。
この戦いは小学校の教科書にも載っているくらいの、超有名な、織田信長を
代表する合戦といっていいでしょう。
まず、この合戦の経緯ですが、天正3(1575)年5月、武田勝頼は離反した奥平貞昌が篭る
長篠城を包囲します。城方は徳川家康・織田信長に救援を要請し、両者は軍勢を率いて
出陣します。このときの鳥居強右衛門のエピソードは良く知られています。
この動きに対して武田勝頼は城の押さえの兵を残して、決戦を挑んだが鉄砲の前に敗れる・・・
といったものです。
この合戦では織田信長の「鉄砲三段撃ち」があまりにも有名ですが、近年では
見直されつつあるということも、話題になっています。
つまり、実際問題として、鉄砲三段撃ちが不可能だったということです。
鉄砲三段撃ちというのは、千人ずつ三段交代で弾ごめなどをさせ、間隙なく鉄砲を
打ち続けるという戦法です。この戦法を実行するためには合図を集中させねば
なりません。しかし、かなり広範囲に布陣した数千人、しかも場所は人馬や武具、
それこそ銃声が響く中でこれが可能なのかという問題が出てきます。さらに、長篠という
場所は狭隘な場所であり、さらに展開した武田軍が同時に射程に入るのかという問題も
あり、近年では見直しが進んでいます。
ただ、鉄砲の数については、信長および参陣した武将のものだけでなく、参加していない
細川藤孝などからも鉄砲をかき集めていたらしく、かなりの数があったようです。
また、記録などを見ても鉄砲が大きな役割を果たしたのは間違いないでしょう。
鉄砲を臨時にかき集めたにせよ、組織的に運用したという点が大きいようです。
また、武田騎馬軍団についてですが、これも近年ではそのありようが見直されています。
騎馬軍団というと、テレビなどでお馴染みな、騎馬隊のようなものが思い起こされますが、
そもそも『甲陽軍鑑』に「一つの備えで馬乗りは7,8人」と出てきます。また、軍団全体の
騎馬の保有率は一割程度、関東の北条氏よりも少ないほどです。
しかしながら、信長は再三にわたり「馬防柵」による対策をさせていますし、また武田方の
甲陽軍鑑にも「小幡衆は馬が巧みに」「(山県・逍遥軒に続き)これまた馬にて・・・」という
記事があり、やはり馬を生かした戦術が撮られていたのは事実のようです。
ただ、従来イメージされていたような「武田騎馬軍団」とはイコールといいがたいのも事実です。
また、この戦いで勝頼が決戦を選んだ理由として、山県昌景・馬場信春といった宿将たちの
慎重論を蹴り、側近の跡部勝資や長坂光堅の積極論を採用したからだと言われています。
しかし、このとき長坂光堅は駿河にあり、長篠には参陣していませんでした。『甲陽軍鑑』では
長坂・跡部といった勝頼の側近は不当に貶められているようで、両者は口ばかりの奸臣で信玄も
嫌っていたとされていますが、長坂は板垣信方の後任として諏訪を任された人物であるし、
跡部も山県昌景・原昌胤らと同じく竜朱印奏者として信玄政権の中枢にあった人物です。
また、両者は最後は勝頼を見捨てて逃亡したといわれていますが、実際は天目山まで従った
(跡部は諏訪で討たれたとも)らしく、武田家衰退のスケープゴートとされている印象を受けます。
武田勝頼が決戦に踏み切った理由として、背後の鳶ノ巣山砦が陥落して背後が危うくなったため
という理由も考えられています。また、勝頼が強行したというエピソードがあります。しかし、
『甲陽軍鑑』には武田信豊、穴山梅雪らが勝頼を置いて勝手に撤兵してしまったという
逸話が残っています。ことの真偽はさておき、こうした逸話が残ること自体、勝頼の
家中での立場を反映しているような気がするのですが、いかがでしょうか?
ともあれ、この合戦で武田方は
山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟、三枝守友、土屋昌次など
軍制の中枢を担う武将の大半を失い、勢力の交替を余儀なくされます。
その後勝頼は、真田昌幸などを重用し、軍団の建て直しに奔走することになります。
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