アッーと驚く?徒然日記【不定期版】

最近更新出来てませんねえ・・・・うむむ

歴史関係

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こんにちわ。お久しぶりです。・・・・・またまた更新できてないなあ。いかんいかん。
今年の大河ドラマ「風林火山」もいよいよ終了しました。その後はかつて「武田信玄」でも
描かれていましたが、さらなる波乱が武田家を襲います。


さて、川中島の合戦から数年後、信玄は嫡男であった武田義信と対立し、義信が幽閉されるという
事件が起きます。しかし、この事件に関する情報は非常に少なく、わずかな資料や『甲陽軍鑑』などの
編纂物に頼らざるを得なくなります。

まず、信玄の嫡子・義信についてです。義信は信玄の長男にあたり、母は信玄正室・三条の方です。
将軍足利義輝から偏諱を受け、さらに後には幕府の三管領に準じる身分を幕府から認められています。
軍事面でも伊那平定戦に参加して功績を上げるなど活躍しているほか、父信玄と連署した書状を領内で
発給しており、信玄は勿論、周囲からも後継者と目されていました。

ところが、永禄8(1565)年、謀叛をたくらんだとして幽閉され、守役の飯富兵部(虎昌)ほか、長坂
源五郎などが討たれるという事件が発生します。
この義信と信玄の対立について、『甲陽軍鑑』では川中島合戦時に戦を巡って父子の意見が割れた事、
信玄が高遠に異母弟の諏訪四郎勝頼を置き、さらに秋山信友や安倍勝宝をつけたことへの反発、と
いったことが列挙されていますが、川中島合戦後も信玄と義信は同陣しています。また、勝頼を高遠に
置いたことについても、信玄・信繁兄弟との対比である可能性が高く、決定打とは言い難いでしょう。

次に政治的立場の違い。義信は妻を駿河の今川氏から迎えており、義元没後当主となった氏真とは義兄弟
にあたる関係です。ところが、信玄は義元亡き後衰える今川と手を切って駿河を併呑しようとしたために
義信と対立したと指摘されています。

そして、家臣団の違い。義信に近い立場の家臣は、飯富兵部や長坂源五郎などがおり、また、穴山氏なども
義信と親しかったといいます(穴山梅雪の弟が義信事件に連座)。義信の支持層というのは、武田氏譜代の
連中や国人領主層だったようです。一方信玄に仕える家臣は、飯富昌景、香坂弾正など信玄が引き立てた
連中が多いようです。義信の支持層というのは、かつて武田信虎放逐を推進した層にあたるわけですね。

つまりは武田信玄にではなく、「武田氏」に仕えている連中ということです。信虎追放にせよ、家臣団が
軒並み信玄(当時は晴信)を支持したのも、信虎が集権化をして、家臣(国人領主層など)への軍役増大、
権力の浸透、干渉を強めたのを嫌ったからでした。ところがその意図に反して信玄もまた軍役強化、
家臣への権力行使、干渉を強めていったため、信玄に替わる当主(=義信)を擁立しようという流れが
生じたと考えられます。

これら複合的な要因(信玄と義信の政治的立場の違い、家臣団の意図etc)が絡まった結果、ついに信玄は
義信を幽閉して飯富らを誅するまでに発展したのでした。この時信玄が小幡氏に出した手紙では、「飯富や
長坂を誅殺したが、本来われら親子には別条は無いので安心して欲しい」と記されています。

そしてこの事件の後、信玄は武田氏に従う家臣、国人領主、一門衆に信玄に二心無き旨を誓わせる起請文を
信州の生島足島神社に納めさせています。現在も武田信廉、原昌胤、小山田信茂らの起請文が伝わっています。
信玄の弟や甥からも起請文を集めており、義信事件が武田氏を大きく揺るがしたことが伺えます。
そして、その2ヶ月後、武田義信死去。自害とも病死、毒殺ともいわれ、詳しい死因は不明ですが、この時
30歳でした。

信玄は武田領内の動揺を収拾すべく、断固とした処置に出たわけですが、事件発覚から義信の死まで
およそ2年が経っています。信玄としても、小幡宛の書状などを見ても何とか解決を試みていたようですし、
また、義信の処遇にも頭を悩ませていたのかも知れません。

結局これにより四男勝頼が後継者に浮上します(次男信親は盲目、三男信之は早世※ただし異説有り)。
しかし、勝頼が高遠から甲府へ移ったのが元亀2(1571)年で、信玄没の僅か2年前でした。この頃から
勝頼は領内全体の統治に関する書状や、または外交的な文書などを発給するようになり、後継者として
位置づけられるようになりました。しかし、勝頼への権限委譲、武田氏次期当主としての立場の確立が
不十分なままに信玄は没する事となり、その課題は勝頼に重くのしかかる事になります。
更に、勝頼には高遠時代に形成された独自の家臣団がおり、彼らと譜代衆、信玄が引き立てた連中との
対立という問題も発生するようになりました。

かくして、勝頼の苦闘が始まります。写真は高野山成慶院所蔵の勝頼画像です。

平将門と菅原道真

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平将門が叛乱を起こした際に自ら「新皇」を名乗り、自分の弟や与した興世王らを坂東各地の国司に
任命した事は有名ですが、彼が新皇を称するに至った背景は、かの有名な菅原道真(写真)の霊が関わっていたと
言われています。将門の乱の顛末を記した『将門記』によると、上州の国府を占領した際に、どこからか
現れた巫女が「自分は八幡大菩薩から使わされた使者である、将門に新皇の位を道真の霊が奉る」と
告げたとあります。

一般的に、この部分は『将門記』における脚色であり、将門が道真を担ぎ出したのも、策謀にはめられた
すえに憤死した道真の霊が、謀叛を企む将門にとって都合が良かったのではないか?という程度の見解でし
たが、ではここでなぜ将門とは一見縁もゆかりも無さそうな菅原道真が出てきたのでしょうか。
道真の他にも早良親王や伊予親王など、怨霊として怖れられた人物はいます。
なぜ、道真なのか?近年川尻秋生氏によって興味深い仮説が提唱されています。


それはズバリ、道真の子息と坂東との関わりについてです。
道真の子息には高視、景行など沢山いたのですが、その中に兼茂という人物がいました。
彼は道真が左遷される際に他の子息と同じく連座して飛騨権掾(ひたちのごんのじょう=定員外の国司で、
掾は三等官)に左遷された人物でした。そして、この兼茂は常陸介(常陸国司)を勤めていた時期があり、
天慶元(938)年に常陸の官物に損害をだしたので、補填するように勘解由使から書類を出された記録が
残っており、この書類は通例国司の任期満了後数年のうちに出されるものであり、この事から類推すると、
丁度この兼茂が赴任しいていた時期は将門が一族と争っていた時期(935ころ〜)と被るわけです。そしてまた、
この兼茂が父道真の霊から「近いうちに大和国で国家に一大事起きる」を初め多くの事を聞かされた
という風聞が延長5(928)年10月にあったということも解っています。この頃は丁度道真の怨霊について噂に
成り始めていたころであり、その後清涼殿に落雷があった事などを考えても、兼茂赴任によって、当時の
常陸に道真に関する話が流布していてもなんらおかしい事はありません。

将門が「新皇」になることの仕掛人として武蔵権守だった興世王とともに、藤原玄茂が『将門記』に
挙げられています。そこで、この玄茂ですが、この人物は常陸掾であり、常陸介とは上司と部下にあたります。
そして、兼茂の後任国司と諍いを起こして将門と組むのですが、この玄茂が兼茂と入れ違いあるいは同時期に
役職にあった可能性が出てくるわけです。玄茂は兼茂が国司だったころの常陸について熟知していると考えられ
将門と道真の霊、「新皇」について、菅原兼茂、藤原玄茂が何らかの鍵を握っていた可能性があるわけです。

さらに兼茂についてはこんな話もあります。後年道真の孫にあたる人物(菅原在躬)が国史(未完成に終わる)を
編纂する際にだした菅原一族についての資料の中に、景行・淑茂・兼茂は国司を勤めたが早世したとあるのです。
しかし、兼茂については道真左遷から40年近くは生きており、しかも道真左遷の段階で官位(左衛門尉)を有して
いました。つまり、常陸介を勤めたころで60歳くらいにはなるはずであり、矛盾が生じるのです。
これについて川尻氏は、兼茂が将門の乱に関わった為に、子孫が兼茂の存在を意図的に抹殺したのではないか?
と推察しています。

今回は「戦争の日本史4 平将門の乱」に掲載されていた近年の説を紹介してみました。
たしかに、状況証拠のみで決定打に欠き、仮説に留まるものではありますが、興味深い感じがします。
将門-玄茂-兼茂の関係については従来殆ど注目されていなかっただけに、今後の研究が期待される
分野ではないでしょうか?

『戦争の日本史 平将門の乱』には他にも興味深い記事や、新説が紹介されており一読をお奨めします。

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久々の更新ですねw

建武の新政で知られる後醍醐天皇には、たくさんの皇子がおり、彼らはそれぞれ父の有力な駒として
各地で転戦をしています。とくに有名なのが護良親王ですが、その他の皇子たちも強烈な個性を放った
父・後醍醐天皇のために非常に苛烈な生涯を送っています。

宗良親王は応長元(1311)年に生まれました。母親は歌人である二条為世(藤原定家の子孫に当たる)の娘で、
同母兄弟には尊良親王がいました。彼もまた他の皇族と同じく、幼いときに出家し、15歳で妙法院の門跡に
就任しました。出家した名を尊澄法親王といいます。そして元徳2(1330)年には、兄尊雲法親王(護良親王)に
続いて天台座主(延暦寺の長)となります。これは当時鎌倉幕府打倒の計画を練っていた後醍醐天皇が、
延暦寺の勢力の掌握を期待してのことでした。『増鏡』にも宗良がその役割を期待されていたことを示す
描写があります。ところがその翌年、父後醍醐天皇の倒幕計画が露見(元弘の変)、京都を出奔して笠置山に
籠るものの陥落、脱出を試みた所で捕らえられてしまいます。この時宗良も父と行動を共にしていたらしく、
幕府軍によって身柄を拘束されてしまいました。

倒幕運動の主要メンバーのひとりとして活動していた宗良ですが、彼本来の性分は、母方の影響からか、
文人的な面が強く、兄の護良親王などに比べて文弱なところがあったようです。
倒幕計画についても、父や兄たちにひきずられた感があり、幕府に捕らえらた後の尋問の際には「しきりに
剃泣」したという証言が残っています。

ともあれ、幕府は宗良を首謀者の一人として、讃岐へと配流しました(後醍醐天皇は隠岐、尊良親王は土佐へ
それぞれ配流、護良親王は逃亡し反幕活動を継続)。その後鎌倉幕府が滅びると再び天台座主に還任しますが、
後醍醐天皇と足利尊氏が対立し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良親王と名乗ります。
そして北畠親房に奉じられて伊勢へ向かい、その後遠州の井伊氏のもとへ入城します。
さらに北畠顕家と呼応しようとしたものの顕家が討ち死にしたために、父後醍醐天皇の行宮があった
大和国吉野へ入ります。そして再び伊勢の大湊から船で出た際に天竜灘で大嵐に遭遇、散々な目にあった末に
遠州へ漂着、再び井伊高顕のもとに入りました。
ちなみに、この時北畠親房、顕信(顕家の弟)とともに奥州を目指して船出した宗良の
異母弟義良(のりよし)親王も遭難し、伊勢へ漂着したために、吉野へ帰って父の最期に
立ち会う事となり、後村上天皇として即位する事になります。

さて、井伊城に入った宗良ですが、ここから彼の流転が始まります。
興国元(1340)年に北朝方の仁木義長に攻められた事を契機に遠州を退去し、その翌年には越後国寺泊に
姿を見せます。その間にブランクが生じるわけですが、この間の足跡については、
駿河へ行き、狩野貞長の館に滞在して興良親王(護良の皇子)と対面した後、甲斐や信濃へ
滞在したとも言われていますが、これの時期にも異説が有るそうで、ハッキリしたことは分からない
そうです。越後滞在の後には越中名子の浦、信濃大河原と各地の鎮撫を図るべくあちこちを漂泊しています。

さて、正平六(1351)年、弟の足利直義と対立した尊氏は、窮余の一策として南朝と一時的に和議を
結びます(正平の一統)。しかし、翌年に直義は兄に降伏した直後に没し(尊氏が毒殺した模様)、
結局この南北の和睦はすぐに瓦解します。潤2月15日には上野で新田義貞の遺児の義興、義宗兄弟が
挙兵し数日のうちに鎌倉を尊氏から奪います。宗良親王も信濃の諏訪氏などを従えて碓氷峠へ進軍、
鎌倉を占拠しました。なおこの直前の潤2月7日に宗良は征夷大将軍に就任しています。

しかし、これも長くは続かず、尊氏の反撃に合い、義興らが敗れたため、結局鎌倉を放棄して
義興、宗良らは撤退。宗良親王は越後から信濃へと移ります。それからかなりの期間信濃にいたようで、
どうやら宗良親王の拠点となっていたようです。そして文中三(1374)年、36年ぶりに吉野へ帰ります。
これ以前、弟後村上天皇から「吉野へ帰ってきて欲しい」という旨の歌を送られていましたが、その
弟も既になく、また、北畠親房や四条隆資、洞院実世など馴染みの顔もすでにありませんでした。

吉野滞在の間、宗良親王は南朝に使えた歌人たちの和歌集を編纂するほか、歌合なども行われるなど
歌人としての活動が目立ちました。しかし、南朝の情勢が好転しない中再び信濃へと向かいました。
この時すでに60歳をゆうに過ぎています(この最中再び出家)。信濃に赴いた後も和歌集の編纂は
継続され、弘和元(1381)年10月には長慶天皇(後村上の子)から勅撰和歌集として認められ、
12月に天皇に奏覧されました。これが世に言う『新葉和歌集』です。

しかし、これが明確な宗良親王の最後の活動となりました。これ以後は彼の足跡は定かではなく、
どこで亡くなったのかすら分かっていません。『南山巡狩録』『南朝紹運録』には元中2(1385)年
遠江井伊城で没したと記されていますが確証はありません。
他にも河内説、信濃説、越後説など諸説ありますが、現在では「三宝院文書」より信濃大川原で
亡くなったとする説が有力となっています。
また、元中6年の花山院長親の歌集の記述にすでに宗良が亡くなったことを記しているので、
1381年12月〜1389年の間に宗良親王は亡くなったと思われます。
墓所は遠州引佐郡に残っています。

なんというか、まさに流転の生涯です。後醍醐天皇の皇子はみなそれぞれ波乱に満ちた生涯を送っています。
しかし、壮年期以降の動向を見ていると、本来の文人的な性格を持ちつつも元弘の変時に「剃泣」した
ような文弱さというか、女々しさを感じさせません。それだけ彼が厳しい人生を歩んできたという
ことでしょうか。残っている和歌も、流罪となった際のものは不安さがつたわってくる感じのものですが、
後に後村上天皇や、九州の弟宮・懐良親王と交した和歌も見ると、不利な中でも何とか弟たちを
奮起させ、励まそうとしている心情がつたわってきます。

ふるさとと なりにし山は 井でぬれど 親の守りは なおもあるらむ
(後村上天皇が吉野を逃れた時に詠みかわしたもの)

とにかくに 道ある君が 御世ならば ことしげくとも 誰かまどわむ
(九州を転戦する懐良親王に詠んだもの)

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関ヶ原の合戦の首魁といえば、誰もが「石田三成」と連想するでしょう。しかし
実際の総大将は毛利輝元でした。

輝元は、かの毛利元就の孫に当たり、元就の後を継いで、当時日の出の勢いだった織田信長と争い、
豊臣秀吉に従ったのちも五大老の一人として、山陰山陽十カ国を領する西日本最大の大名でした。
秀吉の死後、秀吉の遺言を悉く破り、台頭し始めた徳川家康の存在を石田三成は危険視するようになります。
そして、家康が上杉景勝に対して「謀叛の疑いあり」という名目で討伐の軍を起こして西に向かった隙に
三成は挙兵します。この時に三成は、毛利輝元を総大将に擁立したのでした。
(ちなみに三成はこの時大谷吉継に「お前は人望がないから毛利か宇喜多秀家を立ててお前は
裏方に回るんだな」という旨のアドバイスを貰っているそうです)


この時、元毛利の外交僧・安国寺恵瓊は輝元を積極的に西軍総大将として擁立したのに対し、毛利家中でも
吉川広家、宍戸元続、益田元祥らは反対で、家康の重臣榊原康政に宛てて輝元の意向ではない旨の書状を
送っています。

さて、輝元は大坂に入ると宇喜多秀らと檄文を発したり、加藤清正に宛てて「秀頼のため大坂へ上るべし」
という趣旨の書状を送っています。

そして、毛利一族の軍勢も続々と招集され、伏見城攻撃に参加した後、吉川広家らの軍勢は伊勢方面の東軍の
城を攻撃、毛利元康、小早川秀包らの軍勢は近江大津城を攻撃しています。また、四国方面でも村上水軍を
動かして加藤嘉明や藤堂高虎が不在の伊予を攻撃させています。


しかし、関ヶ原本戦では、毛利勢は結局全く動く事が出来ませんでした。毛利家の西軍加担を危惧していた
吉川広家や福原広俊が東軍に内通し、南宮山一帯に布陣した軍勢の動きを封じてしまったのです。
この時吉川広家は、黒田長政らと交渉しており、決戦前日の9月14日にはすでに話はまとまっており、
本多忠勝・井伊直政の書状と福島正則・黒田長政の添え状を受け取っていたのでした。
「不戦ならば毛利の本領は保全される」ということですね。

そして決戦当日。吉川勢が毛利他の軍勢の動きを完全に封じてしまっています。さらに南宮山一帯からは
関ヶ原の主戦場は殆ど見えないという状況でした(南宮山の軍勢は大垣城の後詰め部隊だったとも)。
結局毛利は全く動く事なく終戦を迎えます。しかし、この内通については、関ヶ原へ出陣した毛利軍の大将
毛利秀元(輝元養子)は全く知らされていなかったようです。そのため、度々出陣の催促をしています。

結局合戦は一日で決着が付き、毛利も次の行動をどうするかの決断に迫られます。
この時毛利軍は殆ど無傷だった上に、大津城を落とした毛利元康、小早川秀包、立花宗茂らの軍勢、
丹後田辺城を開城させた小野木公郷らの軍勢も控えていました。っそして、大坂城内の毛利軍も
いました。

徹底抗戦を唱えたのは毛利秀元、立花宗茂らでした。大坂に籠り、秀頼を擁立するという作戦です。
彼らは秀頼という掌中の珠を最大限に活用して、和睦するにしても有利な条件を引き出そうと
したのでしょう。

しかし、9月17日、家康の意を受けた黒田長政らは書状を送ります。内容は「今回の戦は三成らが逆意を
もって起こしたものである。吉川の事もあるし、毛利については悪いようにしない」という旨でした。
つまり、大坂城を退去すれば本領は安堵しますという内容ですね。
結局輝元はこの書状に安心したのか、その5日後に返事を書いています。
内容は、本領安堵に関する礼と、家康への二心無きを示したものでした。

毛利勢は大坂城を明け渡し、家康が入城します。ところが、にわかに雲行きが怪しくなってきました。
9月末には、毛利に対し、島津攻めの先鋒をつとめるよう要求してきます。さらに、10月2日には黒田から
吉川に宛てて再び書状が届きます。
内容は「輝元は三成の一味に味方して大坂へ入った上、諸将への書状に連判し挙兵を仰いだので、敵意は
明白である。ゆえに毛利の所領を召し上げることにする。ただし、吉川はよくやってくれたので、毛利領の
うち1、2カ国を与える」というものでした。

今まで広家や輝元が受け取った書状の宛名に注目して下さい。どれも黒田長政とか井伊直政とかが
差し出し人であり、家康ではありませんね。つまり今まで広家らが受け取ってきた書状には何ら
実効力は無いということです。いくら抗弁しても「家康の知ったこっちゃ無い」で済まされる
わけです。これには吉川広家は焦ります。結局彼が我が身代にかえても、と嘆願した結果
周防長門の2カ国のみが安堵されました。石高としては120万石から一気に36万石に
減じられる結果になりました。

吉川広家は、たしかに家康と対立するのが得策ではないと考えた上で、毛利氏存続のために
奔走したことは認められます。しかし、その背景には安国寺恵瓊との根深い対立もありました。
また、輝元にしても、名目だけの大将というには、アクションを起こし過ぎていました。事実毛利
軍も本戦以外では戦闘に参加しており、大津城攻めでは主力を担っていました。この状況で、家康
本人どころか、一大名の黒田長政の書状のみで安心してしまったのは、両者とも毛利元就の孫とも
思えぬ甘さだと言わざるを得ないような気がします。

この結果に特に憤ったのが秀元でした。彼は剛勇の気質があり、本戦では広家にたばかられた
という思いがあった上、大坂城では秀頼を擁立しての篭城を奨めたのでした。当然彼の怨みは
吉川広家に向きました。そして、後年秀元は毛利本家ともしばしばトラブルを起こすように
なっています。あるいは、この時の不完全燃焼がそういった行状に繋がったのでしょうか?
吉川家は岩国を与えられますが、家中の白眼視に晒される事になったのでした。

しかし、この一件が後に明治維新を生むベースになるのですから、歴史とは面白いものだと思います。
(写真は輝元像)

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今川義元の母であり、今年度の大河ドラマ「風林火山」にも登場した寿桂(慶)尼は、夫の死後、
後を継いだ息子今川氏輝が年少のため、彼に代わって実際に領内を統治したことで知られています。

寿桂尼は領国経営に関係した書状を発給する際に、「歸(とつぐ)」という一字を彫った印を捺して
男性の花押の代わりとしていました。ちなみに、氏輝は病弱だったらしく、一旦は政務を執行した
ものの、再び寿桂尼の発給書状が出るなど、あまり領国統治に参画出来なかったようです。
そして、義元が登場し、辣腕を振るうようになるのを見届けて、政治の表舞台からは退くことになります。

しかし、義元が桶狭間で横死すると、今川家はたちまち衰退していきます。やがて寿桂尼も病に倒れ、永禄
11(1568)年3月に世を去ります。その時駿府今川館の艮の方角に葬るよう言い残しています。艮の方角は
今川館から見て鬼門にあたるわけで、死してなお今川家を守り抜こうという女戦国大名の気概を感じます。
しかし、その願いも虚しくその年の暮れ、武田信玄による駿河侵攻を受け、今川領国は崩壊を迎えることになります。
写真は寿桂尼画像(正林寺所蔵)



そして、時代は少し遡りますが、西にも当主に代わって領内の統治を執行した女性がいました。
播磨守護の赤松政則の室・洞松院です。彼女は応仁の乱の当事者として著名な細川勝元の娘に
あたり、明応2(1493)年に播磨守護の赤松政則に嫁ぎます。ちなみに、洞松院は容姿に優れず、
ゆえに初めは出家していたが、弟の細川政元の意向で還俗したと言われてます。

夫の政則は、嘉吉の変により没落した赤松氏を再興した人物で、播磨や美作の支配を巡って山名氏と
抗争を繰り広げた他、将軍足利義尚・足利義稙のもとで勲功を挙げて、将軍の一門以外では初めて
従三位に叙せられています。

しかし、夫政則は明応5年4月に42歳で没します。政則は洞松院との間に一女(めし、赤松義村室)をもうけて
いましたが、男子がおらず、赤松一族から義村を養子に迎えます。そして、それからしばらくすると
政則時代の有力者である浦上則宗や別所則治らが没したため、洞松院は義村を後見して領国支配を
実際に行うようになり、それに関する印判状も何通か現存しています。

この頃、幕府では足利義稙(10代将軍・細川政元に追放される)と足利義澄(11代将軍・政元
が擁立)が対立していました。この段階ではすでに政元は暗殺されいましたが、その二人の養子
細川高国と細川澄元がそれぞれ義稙と義澄を擁立していました。
赤松氏は細川澄元に与していましたが、船岡山の合戦で澄元・義澄が西国の大大名・大内義興と結んだ
高国に敗れてしまいます。このときに高国派との和睦に尽力したのも洞松院でした。

やがて義村が成人すると、義村は親政色を強め、次第に宿老の浦上村宗(則宗の子)らと対立します。
やがて両者は合戦に及びますが、義村は連敗します。義村は子の道租松丸に家督を譲り強制的に隠居させ
られた挙げ句、暗殺されてしまいます。このとき洞松院と義村室は浦上村宗と結んでいたようて、
義村を見限り浦上と行動を共にしていたようです。

その後は道租松丸(のちの赤松晴政)の後見もつとめていますが、晩年の動向はハッキリしません。
なかなか行動的というか、苛烈な生涯を送った女性でしたが、寿桂尼ほど資料が多くないので
その実像、領内統治の全容は解らない所も多いです。しかし、戦国時代の女性の動向のひとつとして
中々興味深いと思います。

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