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私には妹が3人います。
すぐ下の妹(以下、Tと言います。)は、2008年に乳癌で亡くなりました。
Tは愛媛の松山市内に夫婦二人暮らしをしていていました。
父が亡くなって実家を叔父に任せた後、私や奈良県に嫁いだ2番目の妹家族が気兼ねなく帰れるようにと、夫婦二人には広すぎる家を購入し、私たち一家も帰省の度に世話になっていました。
Tは子供好きでしたが、残念ながら自分たちの子供を授かることは出来ず、代わりに兄妹たちの子供を可愛がっていました。
我が家の子供たちも可愛がってくれ、一緒に旅行に行ったりもしました。
そんなTでしたが、私に胃癌が発覚した5年前に片方の胸に乳癌が見つかり、手術をしました(乳房温存手術)。
手術後は、一見は順調に回復している様子で、私の手術の時にも遠路駆けつけてくれました。
手術でリンパ節を除去したため左腕が痺れていましたが、手術後もパート勤めの傍らで着付けや整体、アロマテラピーの資格も取り、松山市内で開業したくらいでした(後には自宅を改装して営業した)。
乳癌がそう簡単に完治するものではないことは分かっていましたが、その頃は旦那も我々も「多分、もう大丈夫だろう!」と思っていました。
しかし、もしかしたらT自身は恐れていたのかもしれません。
Tは、兄で男である私から見ても「大した奴だなぁ!」と感心するほど気丈でした。
松山市内で開業した際にも、トラブルでも起こった時には、それこそその筋の事務所だろうとどこだろうと押し掛けて話を付けるくらいでした。
私や他の妹弟たち、そして旦那にさえあまり弱さを見せることはありませんでしたが、
本当はその性格故に、病気に対する恐怖心や辛さを自分の心に中に押し込めていただけなのかもしれませんし、
商売を始めたのも何かを紛らわすためだったのかもしれませんが、今となっては真実は分かりません。
もし、そうだったとしたら、そんな心情を察っすることも出来なかった私は、兄として失格です。
ともかく、表向きは何事もなったかのように自分の店を開き、お得意さんも増えて頑張っていたTですが、
何の因果か私が手術した年に、もう片方の胸に新たな乳癌が見つかったのです。
手術をするかどうか、抗癌剤や放射線による治療をするかどうか、Tは悩み葛藤した様子でした。
私は手術を奨めましたが、Tは「手術をして右腕まで痺れが出始めたら、仕事が出来なくなる。」と言って躊躇しました。
その後、Tとは治療に対する考え方の違いなどから時に電話やメールで言い争うようなこともあり、少し距離を置くようになりました。
私が手術した後、Tと仲が良かった妻は事ある毎にTに相談し、そしてTは自分の病気ことよりも私のことを心配し、色々なサプリメントを送ってくれたりしました。
ブログにも何度も書きましたが、抗癌剤の副作用による危機的な状況から脱っすることが出来たのは、Tが送ってくれたあるサプリメントのお蔭でした。
それなのに私の心の中は、Tのことを思いやる気持ちが暫くは薄らいでしまったのです。
今更ですが、「あの時、もう少し兄らしく接してやれば良かった。」と、Tを思い出す度に後悔しています。
Tと再び以前のように連絡を取り始めたのは、Tの病気の症状が進んでからのことでした。
結局、病んだ方の胸を全摘し化学治療や放射線治療を併用しました。
辛かっただろうと思いますが、そんな身になってもTは高齢になった義母の面倒を見始めました。
「なぜ?」と思いましたが、長男(旦那の兄妹は女ばかりで男は旦那一人)の嫁である意地もあったのか、Tの性格なのか、旦那も説き伏せて一人暮らしだった義母を自宅に呼び寄せたのです。
結果的には、このこともTにとってはマイナスでした。
お年寄りのことはあまり言いたくはありませんが、我の強かった義母は、闘病中のTに対しても我儘を言っては困らせていたようです。
とにかくあまり弱音は吐かないTでしたが、この頃は時々ですが、愚痴のメールが届いたものです。
私も、旦那や義妹たちに文句の一つも言いたい時もありましたが、Tは「私が決めたことだから…。」と突っぱねました。
これも今更ですが、Tが何と言おうと旦那や義妹に義母の面倒見の負担を減らすように言うべきだったと悔やんでいます。
気丈に頑張り過ぎていたTでしたが、2007年の暮れくらいから癌は容赦なくTの身体を蝕み始め、長い入院生活に入りました。
2008年の春に見舞った時には、腫れたリンパが声帯を押さえているようで、か細い声しか出せなくなっていました。
また、食べ物の通りも悪いのか流動食の類しか摂れず、元々華奢な身体は更に痩せ衰えて頬もこけていましたが、顔は妹のままだったことに救われたことを覚えています。
この頃のことで今でもはっきり覚えているのは、あれだけ気丈だったTが、
「私は、もう頑張らない。」
とメールしてきたことです。
見舞った際、私はTに
「お前は、もう頑張らないと言ったけど、やっぱり頑張らないとダメだよ。俺も生き延びているんだから、お前も生きてみんなで一緒に沖縄に行こうよ!」と勝手なことを言ったものです。
手術や抗癌剤での治療を避けたことが仇になったのか、そうなる運命だったのか、
Tは2008年の今日(息を引き取ったのは18日でしたが、自宅でのことだったため医者が駆け付けて死亡を確認したのは日にちが変わってからのことだったので、届出上の命日は11月19日となっている。)49歳の生涯を終えました。
私が手術をして5年後のことでした。
なぜか、私とTとの間には5年と言う年月が付きまといました。
Tが最初に乳癌の手術をしてから5年後に私が胃癌の手術をし、その年にTにも2回目の乳癌が発覚し、そしてその5年後(私の手術からも5年後)にTは亡くなったのです。
”5年”と言う年月を、恨めしくも感じたものです。
今もTは、机の上の額縁の中で笑っていますが、その笑顔はどことなく寂しげでもあります。
母も父も妹のTも、多分無念だたっと思います。
一つだけ救われたとしたら、それは3人共に一番下の妹が懸命に世話をしてくれたことです。
母の時は病院に泊まり込み、父の時も実家から通勤しながら面倒を見、Tの時は事ある毎に車で1時間以上かかる松山に通って世話をし、Tが息を引き取ったのはその妹の腕の中でした。
その妹も、Tが亡くなった翌年に膠原病を患ってしまいました。
一時期は歩くことも困難でしたが、今は闘病しながら介護福祉士として頑張ってお年寄りの世話をしています。
今週末に帰省します。
アッシー君を引き受けてくれる一番下の妹と共に、父と母そしてTの墓参りをして来るつもりです。
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闘病記(改)
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