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2013年に入っても肝機能の方は数値が高いまま推移していたが、YR病院でも長年の付き合いのM先生のクリニックでも様子見が続いていた。
この年の前半には色々なことがあった。
先ずは、長年に亘って腎機能の経過観察をしてもらっていたM先生との別れであった。
M先生との付き合いは自分が22歳の時からで、その頃は川崎市にある大きな病院の内科部長を務められていた。
自分は、会社の健康診断で極軽度の慢性腎炎ではないかと診断されていたが、自分にとっては生まれ付きの症状のようで進行性もなく、別の病院では「治療をする必要もないので、通院の必要もない。」と言われたこともあった。
しかし、M先生は「確かにそうとも言えるが、医者としてはノーマルではない人を放っておく訳にはいかない。経過を診て行きましょう!」とのことで、病院を辞められてクリニックを開院された後も引き続き世話になり、35年以上もの付き合いになったのだ。
胃ガンが発覚してからは、どちらかと言うとセカンドオピニオン的な立場で精神面の支えになっていただいた。
胃ガンを告げられた時には、「すぐに来い!」と呼び出されて励まされ、闘病中にも泣き言を散々聞いてもらい、診察時間が1時間近くになることもあった。
実は、この闘病記の元となるメモ書きを始めたのも、M先生の一言が切っ掛けだった。
退院後に初めてM先生のクリニックを訪れた際、入院中の出来事や心境など(多くは臆病者故の情けない話)をしていたら、「じろーさん、そのことを闘病記にしてください。うちの看護師たちに読ませますから…。」と言われたのだ。
特にその頃の自分は、不安や恐怖で怯えてばかりだったので、「不安や心配事を文字にすることで客観的に自分を見つめさせ、病気と向い合せる。」とのM先生の計らいだったのだろう。
確かに、その時々の出来事や気持ちを文章にしていると落ち着くことも出来たし、「絶対に頑張る!」との想いも強くなった。
それは、自分に対するM先生なりのガン治療だったのかもしれない
M先生は自分にとっては大きな拠り所であったが、2013年には既に90歳を超えられていたし、ご自身も肺ガンや前立腺ガンなどを患わたこともあって、この年の春先で外来の診察を止められたので、自分もM先生から離れざるを得なかったのだ。
次は、スピッツ母斑騒動だ。
この年が明けた頃、右の太ももに赤くて丸い膨らみのある斑点が出来ているのに気が付いた。
いぼとはちょっと違うようで、「毛穴からばい菌でも入ったかな?まぁそのうちに治るだろう!」と思っていたのであるが、治る様子はなく次第に膨らみも大きくなってきた。
馴染みの皮膚科で診てもらうと、「普通のいぼなどではないので、しっかり検査してもらうように…。」と言われ、YR病院の皮膚科を紹介してもらって検査をしたところ、「スピッツ母斑」と言う聞きなれない腫瘍の一種とのことだった。
腫瘍と言われて「エッ、まさか皮膚ガン!」と驚いたが、幸いに良性のものだった。
スピッツ母斑自体は、花見の頃に切開して除去してもらったが、頭の中では多少の心配事が浮かんでは消えていた。
胃ガンが発覚する1年くらい前だったかに、首回りに小さな水いぼのようなものが幾つか出来、皮膚科で除去してもらったことがあった。
YR病院の皮膚科での最初の診察の際にその話をすると、「水いぼは若い人にしか出来ないので、もしかしたらガンの影響があったかもしれない。」言われた。
スピッツ母斑も、若い人に出来易いとのことだったので、「まさか?」との不安を抱いたのだ。
丁度スピッツ母斑を処置した1か月後の5月にCTと血液検査を受けたが、そんな不安もあって結果を聞くまではちょっと焦っていた。
検査結果は、やはり肝機能の数値が高かったが、CTや腫瘍マーカは異常なくホッとしたものだった。
また、この年の5月には家の外装リフォームを行い、58歳を迎えた7月頃からは早期休暇を取るかどうかの悩みも大きくなってき始めると同時に少々厄介な仕事が舞い込み、公私共に何かと騒がしい1年の前半だった。
*この記事は、2003年に胃ガンが発覚して以降、日々の体調や出来事等をメモ書きしたものを、読み返しながら書いたものです。
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森 麻季 You raise me up 闘病記を書いていると、
「みんなに支えられたお蔭だなぁ!」と
改めて…。
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