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この闘病記の最後の記事を書いてから半年以上が過ぎました。
本当は、亡くなった妹(3人の妹のうち一番上)のことを書いた前回で最後にする積もりだったのですが、尻切れトンボ状態のままになっていました。
これからの人生の決意表明でもしてスッキリ締め括ろうとは思いながらも、なかなかその気になれず今日まで来てしまいました。
私は、先週の七夕の日に61回目の誕生日を迎えました。
還暦を過ぎたオヤジの誕生日なんて、それこそ家族ですら興味は持ちませんが、私にとってはちょっと特別でした。
実は、父親が亡くなった歳が61なのです。
命日は平成元年7月4日で私の34回目の誕生日の3日前、死因は亡くなる4年前くらいに発覚した脳下垂体の腫瘍でした(悪性ではなかったが…)。
父は、苦労して6人の子供を育てました。
子供が手を離れ、やっと夫婦二人で残りの人生をのんびり過ごそうと思った矢先に、30年以上苦労を共にして来た妻(母)を亡くし(母の享年は54、私と同じ胃ガンでした。)、その5年後には自分も逝ってしまいました。
何度もこの闘病記に書きましたが、私の胃ガンが発覚したのは48歳の時でした。
それ以前からも「何かおかしいな?」とは感じながらも、仕事でのストレスとか歳のせいにして検査もしませんでした。
そして、とうとう身体が悲鳴を上げた日が奇しくも48歳の誕生日当日でした。
取り敢えず近くの内科で胃薬を処方してもらいましたが症状は回復せず、翌月の半日ドックで胃に2ヶ所潰瘍が見つかり、急ぎ(手術をした)YR病院で検査を受け、胃ガンを告知されたのです。
手術後は、家族には「余命半年、長くて1年」が告げられましたが、あれから13年が過ぎようとしています。
54歳の誕生日を迎えた時、自分と同じ胃ガンで54歳で亡くなった頃の母の顔を思い出し、何となく不思議な気がしたものでした。
今回も、思い出すのはやはり61歳で亡くなった頃の父の顔です。
この先も、年毎に老けていく自分とはちがって、61歳と54歳で止まったままの自分よりも若い父と母の顔を思い浮かべながら生きて行くことになります。
抗ガン剤の副作用の辛さと、ガンの再発の不安と恐怖に耐え切れなくなり、
「もう、いいや。父ちゃんと母ちゃんに会いに行こう。」と思ったことも何度かありました。
その度に、家族のことを思い、苦労だけの人生で終わった父と母の無念さを思い、何とか乗り越えてきました。
そして、何が幸いしたのか、5年間もの抗ガン剤の服用を経て、今はそこそこ元気に生きています。
もしかしたら、父と母が「こっちにはまだ来させないでくれ!」と、あの世で閻魔様にお願いしてくれたのかもしれません。
私は、不幸にも胃ガンと言う病気は患いましたが、幸いにもそれを乗り越えることができ、また病気をして初めて得たものも沢山ありました。
父が亡くなった61歳に並び、生きていることの喜びや有難さと共に、元気になるに従って薄らぎ始めていた家族や弟妹たち、友人たちへの感謝の気持ちを改めて感じました。
昨日、地域の講演会で、講師の方が“三流の人生”と言う話をされました。
汗を流し、涙を流し、血を流す。
血を流すと言うのは語弊を招きそうですが、心血を注ぐと言うことです。
私は、自分のためには汗も涙も血も流しました。
世間様に対してなどと大それたことは到底無理ですが、少なくとも闘病を支えてくれた家族や弟妹たちのためには、これからも三流の人生でありたいと思います。
さて、5年以上書いてきた闘病記の最後にしてはまとまりのない記事になってしまいましたが、今回を以てこの闘病記は完結します。
長い間、闘病記をお読みいただきました皆様には、本当にありがとうございました。
【完】
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闘病記(改)
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私には妹が3人います。
すぐ下の妹(以下、Tと言います。)は、2008年に乳癌で亡くなりました。
Tは愛媛の松山市内に夫婦二人暮らしをしていていました。
父が亡くなって実家を叔父に任せた後、私や奈良県に嫁いだ2番目の妹家族が気兼ねなく帰れるようにと、夫婦二人には広すぎる家を購入し、私たち一家も帰省の度に世話になっていました。
Tは子供好きでしたが、残念ながら自分たちの子供を授かることは出来ず、代わりに兄妹たちの子供を可愛がっていました。
我が家の子供たちも可愛がってくれ、一緒に旅行に行ったりもしました。
そんなTでしたが、私に胃癌が発覚した5年前に片方の胸に乳癌が見つかり、手術をしました(乳房温存手術)。
手術後は、一見は順調に回復している様子で、私の手術の時にも遠路駆けつけてくれました。
手術でリンパ節を除去したため左腕が痺れていましたが、手術後もパート勤めの傍らで着付けや整体、アロマテラピーの資格も取り、松山市内で開業したくらいでした(後には自宅を改装して営業した)。
乳癌がそう簡単に完治するものではないことは分かっていましたが、その頃は旦那も我々も「多分、もう大丈夫だろう!」と思っていました。
しかし、もしかしたらT自身は恐れていたのかもしれません。
Tは、兄で男である私から見ても「大した奴だなぁ!」と感心するほど気丈でした。
松山市内で開業した際にも、トラブルでも起こった時には、それこそその筋の事務所だろうとどこだろうと押し掛けて話を付けるくらいでした。
私や他の妹弟たち、そして旦那にさえあまり弱さを見せることはありませんでしたが、
本当はその性格故に、病気に対する恐怖心や辛さを自分の心に中に押し込めていただけなのかもしれませんし、
商売を始めたのも何かを紛らわすためだったのかもしれませんが、今となっては真実は分かりません。
もし、そうだったとしたら、そんな心情を察っすることも出来なかった私は、兄として失格です。
ともかく、表向きは何事もなったかのように自分の店を開き、お得意さんも増えて頑張っていたTですが、
何の因果か私が手術した年に、もう片方の胸に新たな乳癌が見つかったのです。
手術をするかどうか、抗癌剤や放射線による治療をするかどうか、Tは悩み葛藤した様子でした。
私は手術を奨めましたが、Tは「手術をして右腕まで痺れが出始めたら、仕事が出来なくなる。」と言って躊躇しました。
その後、Tとは治療に対する考え方の違いなどから時に電話やメールで言い争うようなこともあり、少し距離を置くようになりました。
私が手術した後、Tと仲が良かった妻は事ある毎にTに相談し、そしてTは自分の病気ことよりも私のことを心配し、色々なサプリメントを送ってくれたりしました。
ブログにも何度も書きましたが、抗癌剤の副作用による危機的な状況から脱っすることが出来たのは、Tが送ってくれたあるサプリメントのお蔭でした。
それなのに私の心の中は、Tのことを思いやる気持ちが暫くは薄らいでしまったのです。
今更ですが、「あの時、もう少し兄らしく接してやれば良かった。」と、Tを思い出す度に後悔しています。
Tと再び以前のように連絡を取り始めたのは、Tの病気の症状が進んでからのことでした。
結局、病んだ方の胸を全摘し化学治療や放射線治療を併用しました。
辛かっただろうと思いますが、そんな身になってもTは高齢になった義母の面倒を見始めました。
「なぜ?」と思いましたが、長男(旦那の兄妹は女ばかりで男は旦那一人)の嫁である意地もあったのか、Tの性格なのか、旦那も説き伏せて一人暮らしだった義母を自宅に呼び寄せたのです。
結果的には、このこともTにとってはマイナスでした。
お年寄りのことはあまり言いたくはありませんが、我の強かった義母は、闘病中のTに対しても我儘を言っては困らせていたようです。
とにかくあまり弱音は吐かないTでしたが、この頃は時々ですが、愚痴のメールが届いたものです。
私も、旦那や義妹たちに文句の一つも言いたい時もありましたが、Tは「私が決めたことだから…。」と突っぱねました。
これも今更ですが、Tが何と言おうと旦那や義妹に義母の面倒見の負担を減らすように言うべきだったと悔やんでいます。
気丈に頑張り過ぎていたTでしたが、2007年の暮れくらいから癌は容赦なくTの身体を蝕み始め、長い入院生活に入りました。
2008年の春に見舞った時には、腫れたリンパが声帯を押さえているようで、か細い声しか出せなくなっていました。
また、食べ物の通りも悪いのか流動食の類しか摂れず、元々華奢な身体は更に痩せ衰えて頬もこけていましたが、顔は妹のままだったことに救われたことを覚えています。
この頃のことで今でもはっきり覚えているのは、あれだけ気丈だったTが、
「私は、もう頑張らない。」
とメールしてきたことです。
見舞った際、私はTに
「お前は、もう頑張らないと言ったけど、やっぱり頑張らないとダメだよ。俺も生き延びているんだから、お前も生きてみんなで一緒に沖縄に行こうよ!」と勝手なことを言ったものです。
手術や抗癌剤での治療を避けたことが仇になったのか、そうなる運命だったのか、
Tは2008年の今日(息を引き取ったのは18日でしたが、自宅でのことだったため医者が駆け付けて死亡を確認したのは日にちが変わってからのことだったので、届出上の命日は11月19日となっている。)49歳の生涯を終えました。
私が手術をして5年後のことでした。
なぜか、私とTとの間には5年と言う年月が付きまといました。
Tが最初に乳癌の手術をしてから5年後に私が胃癌の手術をし、その年にTにも2回目の乳癌が発覚し、そしてその5年後(私の手術からも5年後)にTは亡くなったのです。
”5年”と言う年月を、恨めしくも感じたものです。
今もTは、机の上の額縁の中で笑っていますが、その笑顔はどことなく寂しげでもあります。
母も父も妹のTも、多分無念だたっと思います。
一つだけ救われたとしたら、それは3人共に一番下の妹が懸命に世話をしてくれたことです。
母の時は病院に泊まり込み、父の時も実家から通勤しながら面倒を見、Tの時は事ある毎に車で1時間以上かかる松山に通って世話をし、Tが息を引き取ったのはその妹の腕の中でした。
その妹も、Tが亡くなった翌年に膠原病を患ってしまいました。
一時期は歩くことも困難でしたが、今は闘病しながら介護福祉士として頑張ってお年寄りの世話をしています。
今週末に帰省します。
アッシー君を引き受けてくれる一番下の妹と共に、父と母そしてTの墓参りをして来るつもりです。
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この闘病記を締め括るに当たって、父母と乳癌で亡くなった妹のことを書きます。
今回は父母のことを、次回に妹のことを書いて、この闘病記は終わりにします。
【父母のこと】
「薬の副作用で死んでも、絶対に癌では死なない!」
抗癌剤の副作用が特に厳しかった当時の想いです。
自分と同じ胃癌で、54歳で亡くなった母親の敵討ちの気持ちでもありました。
母は、貧乏な家庭で苦労して6人の子供を育てました。
やっと少しホッとすることが出来始め、これからは父と二人で慎ましやかに過ごそうと思ったところで、胃癌で亡くなりました。
癌に身体が蝕まれ始めた時、母は大きな病院には行かず、田舎の診療所で検査も受けずに胃薬を処方してもらう程度で済ませていました。
病院に行けなかったのではなく、私と同じように臆病だった母は、自分の身体を蝕んでいる真実を知るのが怖くて病院に行かなかったのです。
多分、母は「もしかしたら?」と薄々自覚していたのだろうと思います。
父にも辛いとかは言わず我慢をしていたようです。
私が帰省した際にも変わりなく振舞っていたし、近くに住んでいた妹たちや当時はまだ家にいた弟も気が付きませんでした。
そして、身体が悲鳴を上げて入院した時には、既に手遅れの状態でした。
私の入院前と何となく似ています。
違うのは、私は寸でのところで助かったことです。
母は、手術はしましたが、開腹しても結局何も出来ない状況に至っていました。
父も、主治医に頼んで色んな手を打ってもらった(丸山ワクチンとか)のですが、効果はありませんでした。
私は手術も出来たし、腹膜播種で余命宣告も受けましたが、抗癌剤の効果もあって一命を取り留めることが出来ました。
私は典型的な母親っ子でした。
母親が亡くなった時、母の命を奪った癌と言う病気に対して憎しみのような気持ちを抱きました。
そんな想いもあって、私が母親と同じ胃癌になった時、「薬と刺し違えてでも絶対に癌では死なない。」と思ったのです。
苦労ばかりを掛けた母でしたが、何のお返しも出来ず仕舞いでした。
もう少し長く生きていてくれたら、親孝行の真似事くらいはして上げられたかもしれません。
父は、母が亡くなって1年後くらいに脳下垂体に腫瘍(癌ではなかった)が見つかりました。
手術をして暫くは元気でしたが、神経に絡み付いて取り切れなかった腫瘍のせいか、それとも手術後の治療のせいか(多分、複合)、少しずつ痴呆の症状が現れ始め、
やがて身体も衰弱し、母の死後から5年目の61歳で亡くなりました。
当然、父にも苦労ばかりを掛けましたが、母と同様に何の親孝行も出来ず仕舞いでした。
私は、幸運にも母と同じ病気を乗り越えられました。
来年は、父が亡くなった歳と同じ61歳を迎えます。
親でありながら、心の中に浮かぶのは自分より年下の母の顔と自分と同じ歳頃の父の顔です。
妻の父親は7年前に亡くなりましたが、享年は83歳でした。
義母は、今年米寿を迎えました。
私の母よりも年上です。 義母は、足腰は弱りましたが、曾孫たちにも囲まれて楽しく義兄一家と暮らしています。
長生きの義父母を羨ましく思ったりもしました。
今も義母に会う度に、「自分の母も生きていてくれたらなぁ!」と思いますが、
今は、元気だった頃の笑顔を思い浮かべることしか出来ません。
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今や、日本人の死亡原因のトップは癌で、自分の年代ともなればその半分近くが癌です。
と言うことは、癌は珍しい病気でもなければ、ある意味ではありふれた病気と言うことになります。
確かに、自分の身内を見ても、母親は自分と同じ胃癌で亡くなったし、すぐ下の妹も乳癌で亡くなり、父親も脳下垂体の腫瘍(癌ではなかった)が原因で亡くなりました。
友人や知人でも、自分が病気をして以降だけでも8人が癌になり、残念ながら4人が亡くなりました(他の4人は、幸い再発等もなく元気です)。
ありふれた病気でありながら誰しもが怖いと思うのは、治療の難しさや治療の辛さ、そして死亡率が高いことなのでしょう。
自分も、癌が見つかった時には「何で俺が…。」と自分の運命を恨んだし、覚悟はしていたつもりだったのに医者から宣告された時は大きなショックを受け、頭をハンマーで殴られたようでした。
手術自体は怖さも辛さもあまり感じませんでしたが、手術後は抗癌剤の副作用と再発・転移の恐怖に襲われ、時には生きる勇気さえ失い掛けました。
そんな中で、芸能人や作家等の著名人の癌闘病の話も聞こえてきました。
自分は、当時は(今もか?)できる限りこう言った話題を見聞きすることは避けていましたが、それでも何人かのことはマスコミでも大きく取り上げられたりもしたので、否応なく耳に入ってきました。
病気に向かい合う姿勢や考え方に共感した人もいましたが、「あんたに、癌患者の代表面なんかされたくねえよ!あんたなんかより、もっともっと大変な思いをしている人は数え切れないほどいるんだよ!」等と、反感を抱いた人もいました。
「俺ほど凄い闘病をしてる患者はいない。」とばかり、事あるごとに自分の闘病を鼻に掛け(そう思える)、手術室にまでカメラを入れた某ジャーナリストや、手術の跡を世間に曝すだか何だか言っている某元女子プロレスラーだとか、「いい加減しろ!」と言いたいです。
「私は癌患者です。すごいでしょう!見て、見て!!」って感じですかね。
癌は死亡原因のトップ、あんたらだけが特別じゃあないのです。
病気を売り物にして稼げる人は良いけど、普通の人は働く場所や家庭さえ失い兼ねないので、辛さも恐怖も内に仕舞って頑張るしかない人も多いのです。
元の会社の先輩にAさんと言う方がおられます。
自分より1年先輩で同じ職場でした。
いい加減な性格の自分とは違って何事もきちんとされる方なので、仕事でも私的にも何かとお世話になりました。
そのAさんですが、今年の7月に肝臓癌が見付かり、8月末に肝動脈塞栓術とラジオ波焼灼術を受けられました。
Aさんは、過去にも心臓バイパス手術や脊椎狭窄症の手術を受けられており、「俺なんか、いつどうなるか分からない身体だから…。」と仰りながらも、片道1時間半の通勤を10年間以上続けられました。
何事にも動じそうもないAさんでしたが、厄介な肝臓癌を宣告された際には、さすがに少し気落ちされていました。
でも、今月初めの検査では「予後は良好」とのことで、再入院や再治療にならなくて良かったと連絡がありました。
そんなAさんを見ていると、「自分など良い方だ。」としみじみ思うと同時に、先出のジャーナリストさんとかの報道や言動に腹も立つのです。
まぁ、一般人のヒガミだと思われても仕方がないし、ここでこんなことを書いても何がどうなる訳でもないのですが、癌を経験した一人としてグチりました。
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丁度手術後12年目の日に、手術後10年目にして初めて「もう大丈夫でしょう!」との言葉が聞けた記事を書きました。
それを機会に、思い付いたことを締め括りとして2、3回に分けて書いて、この闘病記は終わりにします。
この闘病記は、胃ガンが発覚していて以降、その日その日の出来事や体調、心境などをメモ書きした手帳を読み返しながら、また記憶を辿りながら、ボツボツと書き続けてきました。
誰かに読んで欲しいとかと言うよりも、苦しかった時、辛かった時に支えてくれた家族や弟妹たちや友人たち、そしてガン細胞や抗ガン剤の副作用にも負けずに頑張ってくれた身体への感謝の気持ちを忘れないためでした。
自分は、喉元過ぎれば何とかで、いくら後悔したことでも過ぎてしまえばコロッと忘れて同じようなことを繰り返すので、自分への戒めと言う意味もあります。
ガンが発覚して12年、一番の想いは「やっぱり、生きなきゃあ!生きていてこそ!」です。
とにかく辛かったのは、抗ガン剤の副作用でした。
精神面で辛かったのはガンと言う病気に対する恐怖でしたが、肉体的には抗ガン剤の副作用でした。
特に最初の半年は、それこそ生きる勇気も何もかも奪われるようでした。
でも、抗ガン剤を止めるつもりはありませんでした。
守らなければならない家族がいます。
辛かろうと何だろうと、ガンを抑え込んで生きなければ、家族を守るどころではありません。
主治医からは、「如何に生きるかを考えるように…。」と言われたこともありますが、自分は生きるために何をするかでした。
運も味方してくれました。
抗ガン剤の副作用でどうにかなりそうだった時、たまたま治医が交代になりました。
後任の主治医は、1から抗ガン剤の服用量を見直ししてくれました。
先任の主治医(その後、再び主治医となった)は、あくまでも標準治療でしたが、後任の主治医は自分が服用し続けられるギリギリの線を見出してくれました。
そして、「ガンで死ぬより薬で死んだほうがましです!飲めるだけ飲みます。」と焦る自分に対して、
「焦る気持ちは分かりますが、今は10年後、20年後に笑える治療をしましょう!」と諭してくれました。
副作用の中でも一番辛かった下痢と食欲不振も、今は亡き妹が送ってくれたサプリメントが救ってくれました。
勤めていた会社にも甘えさせてもらいました。
10時に出勤して3時には退社と言う日々が続いた時もありましたが、上司や同僚たちが助けてくれました。
手術後2年間は、自宅から歩きで通勤出来ていたことも幸運でした。
当時は、電車での通勤にはとても耐えられませんでした。歩いての通勤だったからこそ、会社勤めを続けられたのだと思います。
長年の付き合いだったM先生に、セカンドオピニオン的な診察を受けられたのも精神的な大きな支えになりました。
何かあった時は、勿論主治医も頼れましたが、M先生にも頼ることが出来ると言う安心感もありました。
他にも、地域の友人たちや旧友、沢山の人たちに支えられました。
5年間の抗ガン剤治療で、身体にはあちらこちらにダメージが残りましたが、命も残りました。
お蔭で、笑うことも、泣くことも、怒ることも出来ます。
家族と一緒に過ごせ、友人たちと馬鹿騒ぎも出来ます。
還暦は過ぎたけど、まだまだ働くことも出来ます。
旅行にも行けるし、田舎に帰って弟妹たちや級友たちと話も出来ます。
やっぱり、生きていなきゃあダメです。
生きていてこそ、家族も守れているのです。
何年か前に帰省した際に、若かりし頃に妹のように想っていた人に30数年振りに会うことが出来た時、こんなことを言われました。
「生きて会いに帰ってくれてありがとう!」
多分、言った当人は忘れていると思いますが、生きていたからこそ言ってもらえた言葉として、大事にしています。
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