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米原を通過した上りの新幹線はまもなく名古屋に到着しようとしていた。通路側の席から米原駅が見えたわけではないから、通路と乗降口を隔てる自動扉の上を「米原付近を通過」というテロップが流れたのだろう。 大阪での出張をなんとかこなした孝之は、新幹線に乗る前、百貨店の地下でいつもより少し気どった弁当を買った。出発前、席を予約してあった列車にはとうに乗り遅れていた。車内でビールでも飲みながら一息つこうというもくろみだったが、東京行の自由席の予想を超える混雑のため、喫煙車に席を確保するのがやっとだった。新聞を広げる隣の客に遠慮して両肩をすぼめ、そのまま寝入ってしまったらしい。 目覚めると、関ヶ原あたりを通過するところだった。関ヶ原あたりというのは、米原を通過した時点から逆算して、ということである。そのときはただ、通路に出て、自宅に電話を入れようと思ったのだった。 今年三歳になる息子は、帰宅するころにはもう寝ついているはずだ。子守に疲れた妻も夜が早い。とりあえず、夕飯の用意が必要ないことを知らせようと、携帯電話を手に席を立った。そういえば、大阪で買った弁当にもまだ手をつけていない。背広の上に羽織ったままのウールのコートにはすっかりタバコの匂いが染みついていた。四年前、妻の妊娠を知って以来、孝之はタバコを口にしていない。妻の腹にはもうすぐ四ヶ月になる二人目の子もいる。帰ったらすぐ、熱いシャワーを浴びよう。 そのまましばらく、車窓の景色を眺めていた。高架線路沿いの中層マンションの通路には蒼ざめた常夜灯が灯っていた。郊外型店舗のネオンサインが、文字を判読する間もなく背後に流れていった。ここにもやはり、当たり前の生活がある。東京へと急ぐ心に、縁もゆかりもない街の夜景が揺らめく光の尾を引くようだった。 席へついた孝之は、自動扉の上のテロップをぼんやり眺めていた。朝ホテルのテレビで聞き流した政治経済のニュースのほか、日中世間を騒がせたさまざまな事件事故が、疲れた目には少し速すぎる速度で流れていた。新幹線に比べれば大分悠長とはいえ、これも目の前を通り過ぎる他人の生であることにかわりはない。何かを確かめるように頬を撫でると、朝丁寧に剃刀をあてたはずの顔がいやにざらついていた。 * 東京駅に着くと、酔客で混み合う在来線を乗り継ぎ、最寄の駅にたどり着いて一息ついた。妻子の待つ自宅までは徒歩二十分くらい、いつもなら何のためらいもなく歩き出すところである。一泊二日の出張帰りのこの日は小型のキャスター付きバッグを引きずっていた。駅前のロータリーには、いつものようにニ台のタクシーが待機していた。これに乗れば、ぼんやりしているうちに、川沿いのアパートの前まで、疲れた体を運んでくれるだろう。いや、思えばまったくそうすべきだったのだ。 孝之は客のいないタクシー乗り場を横目に、ロータリーから暗がりへまっすぐ延びる舗装道路を歩き始めた。まだまだ栄えているとは言いがたい郊外の住宅地に不釣合いな道の両側には歩道も整備されている。等間隔で並ぶ街灯の黄色っぽい光が冷たい路面を照らしていた。街灯の細い首はまっすぐな道を両側から抱きこむように湾曲しているので、闇を貫く光のトンネルのように見えなくもない。ここでは真新しい電灯もまだ、闇の厚みを際立たせることにしか役立っていない。 一歩道はやがて片側二車線の高架道路をくぐる。人の匂いに染まっていない乾いた冷気を吸いこみながらいつもよりゆったりした歩調で進むと、いつの間にか、前にも後にも人影らしいものはなかった。白っぽい電灯がコンクリートの土台に穿たれた天井の低いトンネルを照らしていた。外に溢れた光は闇に膨らんでいた。夏ならば電光に群がる羽虫のたぐいもいまは見当たらない。 暗がりから現われた男に孝之が不意を突かれたのは、しかし、人気のない風景に馴染んでしまったせいばかりではない。男は闇そのものから現われ出たようだった。行く手を遮られたわけでもないのに、無視することができなかった。 男は身ぶりで付いてくるよう促した。言葉は交わさなかったが、ほかに人気もなく、男の態度にはどこか有無を言わさないものがあった。伸び放題の髪も髭も白いものが勝った男は、汚れたグレーの綿ギャバジンのコートまで、灰色一色だった。真冬の郊外にはふさわしくない服装である。先を行く背中は醜く曲がっていたが、杖はついていなかった。男が何を求めているのか図りかねたが、くたびれた老人が壮年の男につけこむことができるとすれば、疲れと感傷に緩んだ良心ぐらいだろう。浮かしたタクシー代を握らせ、追い払えるものなら、そうしたかった。 男の後に従ううち、孝之はいつか見知らぬ路地に踏みこんでいた。我が家を目前にして、面倒に巻きこまれるのはごめんだ。そう思いながら、重いキャスター付きバッグを手に提げ、枯れた雑草と埃まみれのガラクタを踏み分けていた。大きな学校の裏手だろうか。サークルの部室が入った校舎と金網がいたるところ破れた外塀の間の、道ならぬ道を辿っていた。ここも昼間は下手な楽器のおさらいや運動部員の掛け声が入り乱れる賑やかな場所なのだろう。 突き当たりの潅木の茂みをかき分けると、突然見慣れたアパートが目にとまった。ここに越して数年経つ孝之にとっても、思いがけない抜け道だった。いつも通いなれた道より大分近いようである。あっけにとられた孝之には、男がなぜ、我が家の在り処を知っているのかという、当然の疑問さえ思い浮かばなかった。 孝之ははっと我に帰って灰色の男を追い抜き、二階の玄関に通じる階段を上り始めた。切り開かれたばかりの川沿いの土地に建つアパートはすべての部屋にまだ借り手がつかず、シャッターが閉ざされたままの窓もあったが、階下の部屋には留守中新しい住人が入ったらしく、干しっぱなしの洗濯物がだらりと下がっているのが夜目に蒼白く映った。風のない夜だった。 物音を立てないよう玄関を通り、ダイニングキッチンを抜けると、男を玄関先に残したまま、鍵も閉めていないことに気づいた。ただならぬ風貌の男に出くわす寝起きの妻の困惑が思いやられた。しばし息を殺して闇に目を凝らしたが、男が部屋に上がりこむ気配はなかった。少し猫背気味の背に紺のカーディガンを羽織り、地元の小さな事務所で働いていた直美は、ただでさえ人見知りする性格だった。 男が近づけば、暗がりでも饐えた体臭でそれと知れるだろう。実際、それほど距離を縮めた覚えもないのに、孝之はその臭いを疎むように顔をしかめていた。そのこわばりを解きながら音もなく襖を引き、夫婦の寝室にしている四畳半の和室に足を踏み入れると、幼な子を包むようにゆるやかに屈曲した直美の寝姿が目に入った。孝之は腰をかがめ、息子の寝顔をたしかめようと髪をかきわけ、はっと身を引いた。妻の懐でやすらかな寝息を立てているのは、年恰好は息子とかわらないとはいえ、見知らぬ女の子だったからである。 不思議なことに、孝之はそれでもそこが我が家であることを疑わなかった。玄関の鍵を開け、靴を脱いだときから、たしかに、そこが我が家でありながら我が家でないような、奇妙なよそよそしさを感じていたのは事実である。妻の肩を揺すって、寝ぼけてはいても、おかえりという一言を聞けばよかったのかもしれない。孝之は、しかし、女所帯の寝こみを襲う凶漢にでもなったかのように、じっと身を強張らせていた。起こしてはいけないような気がした。 ざわざわと波立つ心とは裏腹に、目が暗闇に慣れてくると、自分がふだん深夜そっともぐりこむ隣の布団に、誰か別の人間が寝ていることに気づいた。小学校に入るか入らないかという年頃の男の子だった。孝之の脳裏をよぎったのは、帰るべき安息の場所を奪われたという思いより、戦慄とともにすべてを照らし出す、稲妻のような覚醒だった。それはたしかに、今年三歳になるはずの息子の姿だった。 * とはいえ、夢のからくりを知った孝之はすでに、品川に向けて速度を落としつつある上りの新幹線の乗客だった。眠ってはいても、同じ方向に運ばれているという身体感覚は存続するのだろうか。名古屋で乗客が入れ替わったとき、禁煙車に空いた席にさっと身を滑りこませたのだった。鎌田、大森から有楽町へ連なる首都の夜景を眺める孝之は、ゆめうつつの境から、自分の場所がないという、あの奇妙に生々しい疎外感を引きずっていた。 息子が六歳になっているとすれば、あの小さい女の子は妻の腹にいる二人目の子だろうか。家族の三年後と考えれば計算は合うが、いまはその律儀な符合が予知夢めいて不気味なようだった。夢のお告げに従うとすれば、自分の不在は何を意味するのか。夫婦を離婚に導くような、致命的な不和の種があるとは思えない。別離に遺恨がつきまとえば、夫婦生活の忌々しさを記憶に呼び覚ます、あの郊外のアパートに留まることを直美が選ぶはずもない。自分はある日出て行ったまま、帰らなかったのだ。六歳になった息子を認めた孝之は、あのとき、禍々しい光に射抜かれた未来を垣間見た気がした。妻の寝姿を見下ろす男は、もはやこの世のものではないかのようだった。 品川駅の地下ホームに客を落とした新幹線は、ゆったりしたカーブをなぞりながら最後の減速をしていた。なんともいえないこの息苦しさも、一晩ぐっすり寝れば、一山越した後のけだるい疲れのなかに溶解してしまうだろう。それはよくわかっていた。今日はタクシーを拾って帰るか。自分を甘やかす気まぐれであるかのように呟くと、孝之は重い腰を上げた。 歩いてトンネルに辿り着けば、あの灰色の男は現れるだろうか。そんなはずはない。このばかげた気の迷いを追い払うためだけに歩くには、あの一本道は長すぎるようだった。
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長くなりすぎたので四分割しました。
2007/2/7(水) 午前 0:24
一気に、読みました。__読む前からわかっていた事ですが、引き込まれますね。__自分が今、徹夜仕事を抱える忙しい身なのだという事も忘れました。
2007/2/9(金) 午前 2:11
はじめて小説っぽい小説を書いてみましたが、その最初の読者が柏▲さんだったというのがうれしいですね。
2007/2/9(金) 午前 10:54
ジロキチさんの小説はいつもエッセイとかとは違って、すごい暗い感じのものが多いですね。ちょっとオカルトみたいに思えます。早く家族5人で仲良く暮らす生活に戻って欲しいですね(T_T)
2007/2/11(日) 午前 9:20 [ ono**2002pe*ce ]
言われてみればそうですね。小説というのは心の陰の部分を描くものという思いこみがあるのかもしれません。改めて読んでみるとあまりうまく書けているとはいえませんが、闇というものが主題になっているので、「暗さ」が伝わったという意味では成功したのでしょうか・・・
2007/2/12(月) 午後 9:29