夢日記

人生の酸いも甘いも味わい尽すのだ!

シューベルト

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D899は、第1番と第3番の類まれな詩情のせいか音楽によるシューベルト詩集というイメージがある。4曲中でも両曲を愛聴している。(日常的に聴くという意味ではない)
第1番ハ短調。最初の和音の強打を聴いた瞬間、聴く者は異次元に連れ去られてしまう。魔力だ!この音楽は人の心をつかんで放さない魔力を持っている。実はシューベルトの第一級の作品はみなこの魔力を備えている。別な言い方をすると、不思議なオーラを発するとでも言おうか。ところで、この曲は暗く孤独な感じの主題の繰り返しなのだが、聴き初めの頃、無限の時空間を浮遊しているような不安感に捉えられて仰天した。まるで、私はどこから来てどこへ行くのか?と問うているような・・・。こんな音楽は聴いたことがない、音楽はここまで表現できるのかと驚愕した。CDの変わったものでは、ミハイル・リッキーの1996年録音のものがおもしろい。内田光子が演奏時間9分43秒、ピリスが11分5秒なのに対し、リッキーは13分6秒とおそらく最長ではないだろうか。いうまでもなくすごくのろいテンポで一つ一つの音がよく分解されて聴き取れる。一見ぶっきらぼうだが味わい深い演奏である。
第3番変ト長調。涙なしに語れないような、そくそくと哀感が迫ってくる名曲である。詩情が薫る叙情性はシューベルトの独壇場だろう。CDではリリー・クラウスの演奏も彫りが深く大好きである。

D935では、なんと言っても第1番、次いで第2番が優れていると思う。
第1番ヘ短調。これもソナタD959の第1楽章に匹敵するほどすばらしい。愁いに満ちた開始だが、途中躍動的な激しさと天国的に美しいメロディまでも合わせ持っている。長調と短調を自在に行き来することにより魔法のような表情の対比を生み出すのは、シューベルト最大の特徴といえよう。
第2番変イ長調。感慨深げに生涯を振り返っているように、寂寞を感じる。

いずれも30才の作だが、あまりにも偉大であるという他にない。

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第1曲アレグロ・アッサイ、変ホ短調。この曲ほど衝撃を受けた音楽はかつてなかったように思う。初めて聴いたときは感動で涙があふれた。一瞬で理解するということが音楽では起こりうる。似たようなことが過去に一度だけあった。20才の頃、モーツァルトの行進曲二長調K237を聴いたときだ。18才のモーツァルトの希望にあふれた幼児性(あえてこの言葉を使う)に感動したのだろう。今回はシューベルトの「疾走する悲しみ」に感動したのだ。この曲はモーツァルトのト短調シンフォ二ーに比べられてよい、というか個人的には凌駕していると信じている。世俗を超越した無為、彼岸の境地。死を視ているような哀しさと安らぎが交互する。構成はABACAだが、AとBがあまりにもすばらしい。これを天才といわずになんというのだろう?これこそ私が探していた音楽だと直感したものだ。当時の私の走り書きでは、Bについて「何の恨みもなく一人静かに死んでゆく」とある。
第2曲アレグレット、変ホ長調。しみじみとした静けさを感じる名曲だが、不安が渦巻くような不気味な中間部を持っている。
第3曲アレグロ、ハ長調。もっとも元気がある。シューベルトらしく終わりそうで終わらない終結部。
いずれも最後の年の5月作。円熟の極みといえる。

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小曲だが、とてつもなく暗く哀しい名曲である。評論家吉田秀和の「シューベルトほど悲しい音楽を書いた人はいない」という名言が、この曲にも当てはまる。開始からして嵐の前のどんよりとした空のようだ。「白鳥の歌」D957の中の「海辺で」などと同様、シューベルトはあっという間に感情を爆発させることができるのだ。突如、泣き叫ぶような切迫した表現。そして慰めのような、祈りのような素朴な名旋律へと移ってゆく。死を目前にしたような鬼気迫る彼岸の音楽。こういう音楽は探しても早々見つかるものではない。しかし、おそらく楽天的な人はこの音楽を嫌うのではないか?私はいうまでもなく惹かれてしまうタイプである。べートーヴェンの死からほぼ1ヶ月後の1827年4月作曲。ベートーヴェンの調性といわれるハ短調。素人の空想だが、偉大な先達の死がシューベルトに与えた衝撃、喪失感、悲しみ、などがこの曲に反映しているのでは?しかし、30才にしてこの風格!なおこのCDの表示では8曲目だが、実際は9曲目である。

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数日前初めて聴いて、あっイタリア語だ、モーツァルトのオペラ風だと気づいた。「妻の娶り方」とでも訳すのだろうか。1827年作曲。今日もう一度聴いて改めて唖然とした。これはドン・ジョヴァンニのアリアそのものだ!モーツァルトのファンの方に聴かせたら真作だと疑わないであろう。まるでモーツァルトの魂が乗り移ったようで、畏怖すら感じる。あまりにも徹底しているので、模倣を通り越してそのものになってしまっているのだ。(こんな大胆不敵なことをやってのけた作曲家は他にいないのではないか)これは一体どういうことだろう?モーツァルトに対する尊敬、憧れ、なつかしさ、それとも遊び心?・・・モーツァルトはシューベルトを知るよしもなかったが、シューベルトはベートーヴェンはもちろんモーツァルトもよく研究していた。第40番のト短調シンフォニーを生涯もっとも愛していたという。ともあれ、晩年のシューベルトの不思議な一面を見た気がする。もしモーツァルトがシューベルトを知ったとしたら、驚愕しただろう、と私は思う。CDはフィッシャーディスカウとジェラルド・ムーアのコンビによる。

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シューベルト最後のピアノ・ソナタにふさわしく、本来の自分に立ち還った感がある。あらゆる希望を捨てている、とクラウディオ・アラウが評しているのはこの第1楽章だろう。第1主題はこの世に別れを告げているかのようだ。語りかけるような内面世界、純粋さ、彼岸性、ここでは沈黙も音楽の一部になっている。シューベルトの心は音楽でできていたと信じるしかない。よってこの音楽も全く独特で、孤高なのだ。私もゆくゆくはD959よりこちらを最高と思うかもしれない。第3楽章スケルツォ。この人は鳥のように歌うために生まれてきたんだなあと、いつも感嘆する。文句なしに愛さざるを得ない。第4楽章は第1楽章を受けるには軽すぎるといわれるが、哀愁漂う音楽である。 最後のピアノ・ソナタとはいえ、実際はD958,D959,弦楽五重奏曲D956などと同時に、1828年9月に忽然と、身辺整理でもするように一まとめに完成させている。(これらの創作過程は謎である)8月には嵐のような白鳥の歌の歌曲群、6,7月は最後のミサ曲、それ以前も多数のピアノ曲、連弾曲、歌曲・・・。モーツァルト同様、一切合財同時進行で作っていたのだろう。 内田光子は故意にピアノが輝かないように演奏している。

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