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先祖供養

本日に、仁叟寺に葬られている江戸時代初期・当地を統治・・・しておりました地頭の長谷川家の先祖供養法要をご裔孫の方より依頼され、お勤めいたしました。

しかしながら拙僧、宗務所の執務があり、かつまた本日は月に一度の詠範養成講習会もあり、そちらの法要には臨席出来ませんでした。

昨夜に卒塔婆を書きながら、改めまして『仁叟寺誌』の長谷川氏の項を拝読いたしました。

数年前に、逝去された矢島委員と現在も歴史の会などでお世話になっている長谷川委員とで都内の寺院などへ取材に行ったことも思い出しました。

長谷川氏といってもわからない方が大半かと思われますが、鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵といえばわかる方も少なくないかと思われます。

その大先祖(初代にあたる方)が当寺に葬られている長谷川讃岐守です。

それゆえ、明治になるまで長谷川家は江戸詰の長谷川宗家より毎年盆暮には当寺に献茶料などを納めておりました。

幕末には250回忌を修行し、墓前に燈籠が供えられたことも文書などで明らかになっております。

開山堂には開基である奥平家はじめ奈良奉行でも有名であった溝口氏(鹿の角取りを始めた方だとか)や初代吉井藩主の菅沼氏、他の外護者と共に位牌も安置されております。

以前、当ブログで記載いたしました近世文書の解読も、数が多くまた日常の寺務などもあり・・・

あまり進捗状況は芳しくありませんが、それでも何とか進んでおります。

ゆっくりと進めていければ、と思っております。

また、せっかくですので、寺誌より長谷川氏の項を以下、転載。

長谷川讃岐守・淡路守
 仁叟寺本堂西墓所内に、江戸時代初期の宝篋印塔形の大きな墓碑が、南向きに二基建てられている。左側が長谷川讃岐守、右側が長谷川淡路守。初代と二代である。墓碑には、それぞれ「祖庭院殿趙英宗伯大居士 慶長十三年(一六〇八)二月七日寂」、「長松院殿惠林了智大居士 寛永十六年(一六三九)三月九日寂」、とある。
 『寛政重修諸家譜』によれば、長谷川家の本貫地は大和国(奈良県)初瀬で、そこより駿河国(静岡県)小川村に移り住んで数代が過ぎるとある。讃岐守の父は正長といい、今川氏に仕えたのち、徳川家康に仕える。元亀三年(一五七二)の三方原合戦のとき、討死する。享年、三七歳。
 正長には、正成・宣次・正吉がおり、それぞれ別家を起す。正成の長男が正信で、讃岐守の養子となる。宣次家の八代目が、長谷川平蔵宣以で「鬼平犯科帳」の人物である。平蔵の次男に正まさ以ためがおり、正以は讃岐守家に養子に入り九代目となる。
○初代・讃岐守(正吉・久三郎家)。
 天正七年(一五七九)徳川秀忠の小姓をつとめる(一一歳)。のちしばしば加恩があって、上野国甘楽・碓氷両郡にて四〇七〇石余の采地を与えられる。その後、渋谷において別荘の地八万五〇〇〇余坪を賜う。慶長一三年(一六〇八)二月七日没す。享年、四〇歳。戒名、祖庭院殿●英宗伯大居士。上野国神保村の仁叟寺に葬るとある。
 讃岐守が、仁叟寺に葬られた事由として、近郷に自分の采地を領有し、その地に居住していたためと思われる。
 ところで、『自治体史』などにより、各村の大名・旗本の変遷をみてみよう。
  峙醗翊」の項、天正一八年(一五九〇)菅沼定利―慶長五年(一六〇〇)代官林虎之助―伊奈備前守。その後、四給となり、安藤対馬守・渡辺山城守・倉橋内匠頭・長谷川讃岐守となり、その後、転換数次で延宝二年(一六七四)松平信平(吉井領)となる。
 ◆嵬霤賃次廚旅燹天正一八年、菅沼領―慶長三年、代官伊奈備前守・同長谷川久三郎(讃岐守)支配。以後、延宝まで交々支配し、同二年、松平信平(吉井領)となる。
 「中島村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年(一六〇一)より代官支配―同七年より寛文五年(一六六五)までの六三年間、長谷川讃岐守の知行地となる。
 ぁ崗串村」の項、天正一八年、菅沼領―慶長六年代官地―同七年より四給地・倉橋内匠頭(寛文八年没収)・安藤対馬守・渡辺山城守・長谷川久三郎(讃岐守)・三氏は、寛文九年(一六六九)まで知行地とした。
 ァ崗暮村」の項、天正一八年(一五九〇)、菅沼領―慶長六年長谷川久三郎が知行し、寛文四(一六六四)、代官支配となる。
 Α崘歪軋次廚旅燹天正一八年、菅沼領―慶長六年、長谷川久三郎知行、寛文四年、代官支配となる。
 長谷川氏は、吉井地区六町村、高約三千石余の知行地の支配をしていた。この間、長谷川久三郎家も初代正吉、二代正信、三代正相と、四代目正明の代になり、元禄一一年(一六九八)上野国の采地が遠江国(静岡県)城東・山名郡内に領地替が実施される(高四千七一石余を約一二〇年間支配する)。
○讃岐守・淡路守の、約六〇年間の主な出来事について記す。
 永禄一二年(一五六九)、正吉生まれる。元亀三年(一五七二)、父正長が三方原で戦死。天正三年(一五七五)・長篠の戦い、奥平信昌・菅沼定利活躍。同七年、正吉小性組になる。この年、上野国碓氷・甘楽両郡の内に、四〇七〇石余の采地を賜う。同一〇年、武田氏滅ぶ。同一八年、小田原の北条滅ぶ。秀吉、家康に関東国替を命ずる。吉井に菅沼、宮崎に奥平が入る。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦い。改易大名多発。徳川自領増加。翌六年、菅沼忠政美濃加納城へ。小暮村・馬庭村が正吉の知行となる。同七年菅沼定利没す。小串村の一部・中島村・吉井町の一部を知行する。矢田村の代官(正吉)。同八年、正吉(長谷川讃岐守)没す。同一九年(一六一四)、大阪冬の陣。翌元和元年、大坂夏の陣。豊臣家滅びる。豊臣方改易多数。徳川の天下となる。元和二年(一六一六)、家康没す。長谷川正相(三代目)生まれる。寛永一〇年(一六三三)、三代正相書院番。同一六年、三代正信没す。三代目正相遺跡を継ぐ。
○二代・淡路守は正信という。通称・久三郎。長谷川筑後守正成(正吉の兄)の長男で正吉の養子となり、久三郎家二代目を継ぐ。
 文禄四年(一五九五)生まれ。寛永二年(一六二五)采地の御朱印を賜う。のち御徒の頭となり、同三年上洛のとき供奉し、同九年(一六三二年)御書院番の組頭となる。同年従五位下淡路守に叙任す。同一〇年采地七〇〇石を加増され、後この地を収公される。同一六年(一六三九)没す、年四四歳。法名・了智。小石川の吉祥寺に葬る。のちに吉祥寺は、駒込に移される。
 仁叟寺にある正信の墓碑は、後日分骨による供養墓碑である。
 墓碑に、「長松院殿惠林了智大居士 寛永十六年(一六三九)三月九日寂」とある。すでに江戸幕府は大名、旗本に対して、各地の所領地から江戸詰めを命じ、江戸に屋敷を構え居住させていた。
○三代・正相すけ。初め正綱・久三郎。
 寛永一〇年(一六三三)初めて家光にまみえる。同一三年御書院番に列す。同一六年遺跡を継ぐ。慶安三年(一六五〇)家綱に仕えて西城に。のち本城に勤仕。寛文三年(一六六三)御先弓の頭に移る。九月に桜田門修復の奉行をつとめる。一二月布衣を着する事を許される。同四年の洪水のとき、采地荒廃せるにより廩米に改められる。四〇七〇俵余を賜る。天和二年(一六八二)、上野国新田邑楽両郡のうちにおいて五〇〇石の加増あり。貞享四年(一六八七)つとめを辞し、寄合となる。元禄二年(一六八九)没す。年七四歳。法名・遂永。墓地は正信と同じ。
○四代・正明。善右衛門・貞右衛門・五兵衛。正相の二男。
 寛文四年(一六六四)初めて家綱にまみえる。同七年御小姓組に列す。元禄二年(一六八九)遺跡を継ぐ。同一〇年、上野国から遠江国城東・山名両郡へ移る。享保元年(一七一六)没す。年七一歳。法名・日音。谷中の大行寺に葬る。この墓碑は当寺にあり。
○五代・正武。万之助・久三郎。正継くみの長男で正明(四代)の養子となる。
 正徳元年(一七一一)遺跡を継ぎ、小普請となる。同二年、初めて家宣にまみえる。同三年没す。年三二歳。法名・道性。墓地は正信と同じ、代々墓地とする(駒込の吉祥寺)。
○六代・正誠ざね。内蔵助・久三郎・讃岐守・従五位下。号眺山。長谷川久大夫徳たか栄よしの二男で正武の養子となる。
 正徳三年(一七一三)遺跡を継ぎ、小普請となる。享保四年(一七一九)寄合となる。同九年(一七二四)御小性組に列す。同年吉宗に仕え、二の丸勤仕す。同一〇年、西城御書院番となる。同一五年西城御書院番の組頭に進み、布衣を着することを許される。元文五年(一七四〇)小普請の支配に移る。延享四年(一七四七)甲府勤番支配。従五位下・讃岐守に叙任す。宝暦元年(一七五一)西城御持弓の頭となる。同三年任務を辞す。明和元(一七六四)没す。年六九歳。法名・元水。
○七代・正脩むろ。久三郎・三郎助。長谷川徳栄の五男で正誠の養子となる。
 宝暦七年(一七五七)遺跡を継ぐ。明和四年(一七六七)御持筒の頭となり、布衣を着することを許される。同八年(一七七一)小普請組の支配に移る。安永六年(一七七七)没す。年六七歳。法名・普舌。
○八代・正満みつ。栄三郎。正脩の長男。
 安永六年(一七七七)遺跡を継ぐ(三三歳)。采地、四〇七〇石余。後妻は大岡越前守忠宣の女子。
○九代・正以。鉄五郎・久三郎。長谷川平蔵宣以(鬼平犯科帳の主人公)の二男。正満に男子がいたが、死去により養子となる。要職は百人組の頭。日光奉行。
○一〇代・正直。久三郎・能登守。
 要職・寄合。火事場見廻り。寄合肝煎。講武所頭取。日光奉行。万延元年(一八六〇)没す。
○一一代・久三郎。
 要職・寄合。便番。
 長谷川久三郎家と仁叟寺は、江戸時代を通して関係を有していた。代々の当主が先祖供養のためなどで、年三〜四回茶湯料・回向料などをお供えしていた。勝手目録・盆付届・年始状などの、書状・書簡など二〇数通が現存している。
 初代祖庭院の、没後二五四年の墓碑修理の件についての覚状がある。文久二年(一八六二)、家臣中野弥惣左衛門より送られている。墓碑の修理を行うとともに、その時に建立した一対の燈籠が今も残っている。

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