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「ああモンテンルパの夜はふけて」
1 モンテンルパの夜は更けて
つのる思いに やるせない
遠い故郷しのびつつ
涙に曇る月影に
やさしい母の夢を見る
2 燕はまたも来たけれど
恋し我が子は いつ帰る
母の心はひとすじに
南の空に飛んでゆく
さだめは悲し呼子鳥
3 モンテンルパに朝が来りゃ
昇る心の太陽を
胸に抱いて今日もまた
強く生きよう倒れまい
日本の土を踏むまでは
戦後、大ヒットしたこの歌も、この歌を歌った国民的な大歌手 渡辺浜子も戦後63年という時の
流れの中に忘れ去られようとしている。
でも私達はこの歌に秘められた素晴らしい事実!メッセージを決して忘れてはならない。
もう4年ぐらい前だっただろうか、タクシーの乗務中、神田から所沢まで老夫婦をお乗せしました。
その車中での話、お客さまは吉田義人さまといわれる方で、日本で最初のオルゴールを作った方で
日本橋三越で催されたオルゴール展に出席された帰りだったそうです。
吉田さんの作られたオルゴールに秘められた話をしてくれました。
戦後フィリッピンのモンテンルパ収容所に百余名の日本人戦犯が収容されていました。
ある日渡辺浜子さんのところに一通の手紙が届きました。その手紙の中に一つの譜面と歌が入ってい
ました。それがこの「モンテンルパの歌」でした。渡辺浜子さんはこの歌を持ってモンテンルパ収容
所へ慰問しに行きました。当時の渡辺浜子さんは「蘇州夜曲」など多くのヒットを持つナンバーワン
の人気歌手でした。最後にこの歌を歌われたとき大合唱になったそうです、このことが日本中に報道
され、それを聞いた吉田さんは感動されて、渡辺浜子さんを訪ねて「私に出来ることがあったら、ぜ
ひ手伝わせてください」と頼んだそうです。そうしたら渡辺浜子さんは「この曲をオルゴールに出来
ないか」と言われたので、「ああモンテンルパの夜はふけて」をオルゴールにしたそうです。
商売するつもりは無かったので3台しか作らなったと言っていました。 それを渡辺浜子さんは
お土産代りに、当時のフィリッピン大統領キリノ氏の所へ持ってゆきその曲を大統領に聞かせたら
そのもの哀しい美しい曲に心ひかれて、この曲はどのような曲ですか?と聞かれたので、「この曲
は、このモンテンルパの収容所の人が故郷を偲んで作った曲です」と伝えたところ、キリノ大統領は
心動かされ、私個人の権限では少しの人しか救うことが出来ないから、これを国会にかけて取り上げ
よう、と言ってくれたそうです。それからすぐの数か月後、収容戦犯百余名、全員の日本帰還が政府
発表として許され実現された。・・・・・それを為されたキリノ大統領ご自身はマニラ市街戦で家族
奥様と娘さんを日本兵によって亡くされていた。「私は家族を亡くした者の苦しみと寂しさは身に
沁みてよくわかる。同じ気持ちを日本で待っている家族の人たちにあじあわせたく無い」と言われ
たそうです。
吉田さんは私の作ったオルゴールがお役に立てたという事が、たとえ誰にでも知られなくとも私はそ
れでいいと思っている。と話されていました。もう4年位も前の事、吉田さんはご健在でしょうか。
キリノ大統領のうえに注がれた主の愛にハレルヤ!
一つのオルゴールが多くの人たちを救った美しいお話です。
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狼様、はじめましてで、こんばんゎ〜!!!☆^^
☆ 美笑





とても、良いお交わりをさせていただき感謝でした
昨日直接聞いた素晴らしいお話ですねっ
2009/6/22(月) 午前 0:32
怪傑ハリマオーが出てきたり、いつもユーモアたっぷり。でも載せている事はとても素敵なことばかり、誰だろう?
「嵐を呼ぶ男」の義人さんしかいないよね!間違ったら御免なさい。また逢いましょう。
2009/6/22(月) 午前 1:07