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『つきてみよ ひふみよいむなここのとを とをとおさめて またはじまるを』 貞心尼が良寛さんに入門を願い、手紙に添えてあった歌の返歌として歌われたもの、良寛さんは快く 入門を許す旨の返歌。 手毬をついてみなさい、一二三四五六七八九十、十とついたらまたはじめの一にもどる、道というもの は、これの繰り返しで完成というものが無い。飽きずにするのが道である。 この良寛さんに影響を与 えたのが、あの道元だった。この歌の中に秘められた道元への思いも感じられる。 道元が二十四歳で中国へ修行に行ったとき、船着き場で日本船に椎茸を買いにきた老僧と出会った 道元は「あなたのような高齢な方がなぜ典座(炊事役)のような雑用にかかわって修行を専念なさらな いのですか」と聞いた。すると老典座は道元に「外国の立派なお客さんよ、惜しいことにあなたは まだ修行が何であるか、文字の何たるかもご存知ないようだ。後日私の修行している阿育王山においで なさい」と言って去っていった。道元はそれから二カ月後、天童山に登り修行をしていると、あの 老典座が道元を訪ねて来てくれた。道元は感動して先に話された「文字・修行」の意を問うた。 「文字とは何か」 老僧は、「一二三四五」と答えるのです。 それは数を数えるのではなく一から十まで、つまり はじめから終わりまで、身のまわりにあるものすべてが文字や学問だ、特別な文字や学問などない! と言い切った。 「修行とは何か」 とくに仏道という道があるわけではない、その道一筋に励むならどこでも道を見つけることができる。 千利休の一首に「稽古とは一よりならい十を知り 十よりかえるもとの一」 千利休の一にはじまり一にかえる。その一のなかには全ての真理が輝いている、永久不変の一である。 道元もしかり、良寛もしかりである。 『われつけばかれかつ歌い、われうたえばかれこれをつく、つき去りつき来て時の移るを知らず。 行人われをみて笑う、何に由りてかくの如しと。首をたれてこれに応えず。ことばもてまたいかに 似さんや。箇中の意を知らん要せば、元来ただこれのみ』 良寛が子供達とまりをついているのを見て、人が「なぜそんな遊びをするのか」と問うても答えよう がない。ただ首をたれるだけで、言葉ではいえない。たって私の意を示そうとするなら、ただ三昧に なって「ひいふうみいよ・・・」とまりをつくだけだ。 (松原泰道氏訳・参考) 良寛さんのような牧師さんがいてもいいような気持ちで書いてみました。
体裁ばっかり整えて、すべてを受け入れる寛容性が無い。砕かれる前に砕かれまいと必死なって防御
してしまう。素直さが無い。実に情けない。口では格好付けた良い言葉を並べ立てても、滲み出てくる実 が無い。 自信の中に不動の真理を持っていれば、何事にも揺り動かされない確たる自分を持てるはず。 言い訳もせず不動の心でいられるはず。白隠禅師の逸話の中にこんな話がある。「檀家の大家の娘が親に 言えない恋愛をして身籠ってしまった、『誰が父親か?』と問い詰められ、娘は『白隠和尚です』と答え てしまう。親はかんかんに怒って白隠に詰め寄るが、白隠は何もこたえず、ただただ黙って庭を掃いてい た、大家なその親は白隠を寺から追い出してしまう。それでも白隠は言い訳もせず、何も言わずに寺を でてゆく。しばらくして、娘は本当の話しを親に話した。大家の親は驚いて白隠禅師を寺に連れ戻す。 その時ですら白隠禅師は何も語ろうともしなかった。という話しがある。 現代のような、情報化社会、すぐに要求する情報は手に入る、頭でっかちは増えるけど、それを真に生か す、器が無い。自分を見失っている者が多いだから、ちょっとした事にも、ヒステリックになってしま う。 神学校を卒業したからって牧師にはなれない、そこにはね神様からの賜物があるんです。それを持って いない人は幾ら神学を学んでも、知識を取り込んで、論理で神を語ろうとしても、自分の神は語れない 人の褌で相撲をとるようなものだ。そういうのに限って、プライドが高い、何もたない自分を身抜かれま いとして理屈を言う。謙虚なんて口ばっかりで、傲慢のかたまり。人間を磨いた方がいい、イエス様は 人間の最高の見本として、私達に示された。ならば、人間を磨くことだ、少しでもイエス様に近ずこうと 磨かれた人間から自然と御言葉は迸る。 だから私はあえて言う。良寛さんのような牧師さんが居て欲しいと・・・・。
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内緒さん!コメントありがとう!私は今すごく寂しいんです。本当はこんな事書きたくは無いんです。でもある事がきっかけで、私の心の中の激しい感情を抑えきれなくて書いてしまいました。「それぞれの立場で語られるメッセージ」だからこそ、イエス様の御心の広さとそれぞれに似合った御言葉の確かを感じさせて貰えるのだと私も思っています。期待していたものに、嫌な面を見せつけられた失望感はとても辛いです。信仰の厚い人ならば、主にひたすら祈りつづけて、主の御手に委ねるのでしょう・・・。私にはまだまだ・・・。怒る時には怒り、悲しい時には悲しみ、嬉しい時には飛び上がって喜び、自分の在るがままを主に委ねる事しか出来ません。
2009/9/21(月) 午後 11:10
自分の在るがままを主に委ねることができるのがクリスチャンの特権ではないでしょうか、、、

2009/9/22(火) 午後 10:33
義人!久しぶりだね!コメントありがとう!『モンテンルパ』読んでくれた?オルゴールを作った、吉田義人さん素敵だろう。あの三人の方々も素晴らしいけれども、あのオルゴールの音色が頑ななキリノ大統領の心を開かせたんだから、凄いよね!正に天使が奏でた音色だったんだろうね。神様はこういうところに光をあててくれるんだね。
大きな力無くしてこんな奇跡は起こらないよ!
神様は暗黒の闇の中に、三つのユリの花を咲かせてくれた。真実を見捨てにはならない御方だねイエス様は!
義人の教会、大変なのかい?今の私は寂しく、悲しいよ。失望した。
2009/9/22(火) 午後 11:46
はじめまして。
何か悲しい記事で、読んでしまいました。
荒野の狼さんに期待された人はきっとそんな人間ではなかったということでしょう。
その人がカスであったというだけで、立派な人のように見せて、内側はカスのような人間はゴロゴロいます。
本当に立派なのは、ただ黙って祈り続けるような目の前のおばちゃんかもしれません。
2009/9/24(木) 午前 10:08 [ 白銀の祈り ]
shirogane_inoriさんはじめまして!コメントありがとう!
私の教会にも九十九歳で召されたお爺ちゃんがいました。物にぶつかってはハレルヤ!病気してもハレルヤ!耳が遠くて教会に行ってもメッセージが聞こえない、「お爺ちゃん、何で教会へくるの?」て聞いたら。「イエスさまに会いに来るんだ」と言っていた。
幼子の心を持てと言われる、信仰とは理屈、論理無しに、無心に信じる事だと思っている、しかし、これほど難しい事はない。 今は
ただただ、あるがままの自分を神に委ねるしかないと思っています。
2009/9/24(木) 午後 10:06