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成増教会の松沢先生に会いに行ったのは、ちょうどこの時期。 数年も前の出来事だけど昨日のように覚えている。 理想としていた自分とのギャップが苦しくて、いつもため息ばかり。 彼の噂を聞きつけて、興味半分成増教会を訪れた。 カンカンの陽ざしに照らされて成増の駅からダイエー前をとぼとぼと数分。 教会の入口にたどり着くと、同時にオートバイが教会脇に駐車した。 長髪兼上衣をだらしなく垂らした男が穏やかに笑顔で私の脇を通り過ぎる。 長年教会に通い続けながらも決心できない中途半端な求道者、と即座に見下した。 彼が発した「おはようございます」は決して私に対して発せられたものではなく、 受付の初老の女性に対してであったはず。 でも顔の角度からやっぱり私に対してであった。 つゆ知らずの私に対して愛想のよいこの男は何者なのか。 大体、あのやさしい眼差しのわざとらしさの無さは、何故なのか。 そんな思いを抱きつつ成増教会の礼拝に参加した。 礼拝が始り説教の時間となり漸く現れたその男。 牧師のくせに長髪で、 牧師のくせに刺青があり、 牧師のくせにちゃらちゃらとズボンから金属の鎖を見え隠れさせている。 説明のしようがない挨拶を私に投げかけたそのひと、 松沢先生その人だった。 説教の中でパチンコの話が出た。 抜け出せぬ自分の自問の尺度が彼より甘いことに気づかされる。 止めねば止めねばと思う根拠が怪しく、彼の自己受容性に驚かされる。 相槌を打つ多くの会衆。 何が大切なのか。 自分のプライドか? あるべき姿に近づくことなのか? どうしようもない自分が少し愛らしく思えた。 そんな自分でも愛してやってもいいのかな、と思えた。 自覚症状は無いながらも、心のどこかで「こんな自分は祈る資格さえない」と後ろ向きになっていた。 だからこそ、賛美・祈り・聖書朗読全てが型にハマったものとなっていた。 牧師の二言目を的確に予知できると思い込んでいた自分の小ささに愕然とした。 素直にキリストにすがりつくための基本的な心構えを学んだ。 これほどまでに私に衝撃を与えた松沢先生。 そのままでいてほしかった。 彼の最後を思うに、彼が哀れで悲しく絶望的であるにも関わらず、 ジーザスは彼をどのように評価しているのかは人には決して分からないという妙な自信。 彼に対する神様の評価など気にすることはやめよう。 彼が教えてくれたことを私以外の多くの人々に全身全霊をもって、わざとらしくなく素直に体現していくこと。 これをジーザスは望んでいるのであろうと思う。 入道雲に遮られながらも照りつける太陽。 松沢先生との出会いはこんな季節だった 転載・・・さわやか 今年の夏、彼のブログに書かれた記事を転載させて貰いました。
こんな牧師が居たんだと言う事を一人でも多くの人に知って貰いたいの一心から載せてもらいました。 |
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