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『信仰の論理』 三谷隆正 著より
使徒ヨハネの晩年について、ヒエロニムスの語り伝えた話しにこのような話しがあります。
ヨハネは晩年にはエペソの信徒と共に暮らしていました。ヨハネはすでに非常な老年であって、信徒に支えられて集会に出ていた。そこで信徒たちに与える御言葉は「子らよ、互いに相愛せよ」としか言わなかった。何時も何時も同じ言葉しか語らなかったヨハネに倦怠を感じ、信徒の一人がヨハネに質問した。「なぜに一つの言葉を繰り返すのか?」と。
ヨハネはその問いに「これ主の誡めなるがゆえである。そうしてこの誡めを守りさえすれば、それだけで事足りるのである」と。これがヨハネの残した遺言であった。
キリスト教は愛の教えであるとともに、謙遜の教えである。 では謙遜とは・・・。泣きっ面さげることが謙遜なのではない、むつかしき顔することが深刻なのではない。よろこぶこと、愛すること、己れの利を計らずして他の益を計ること、それが謙遜であり、深刻な生活である。
しかるに、日夕自己の救いを口にして、昼も夜も自己の罪を数え、自己の欠点を物色しつつ、その一事をもって自家の宗教的体験を誇る人がある。われはわが罪人なるを知れり、ゆえにわれは謙遜なりと誇るのである。誠に奇しき誇りである。 われ誇らずと誇るのである。かくして己れを浄くしようとするのであるか、浄くしてしかる後、己れを救わんとするのであるか。兄弟よ、それはパリサイ人の徒の誇りである。
キリストの救いは何の条件をも、何の対価をも要求しない。己れ浄きがゆえの救いではない、救われたるがゆえの浄めである。 (中略)
(抜粋)日夕自己のけってんを物色して、嘆き暮らすのが謙遜であるのでない。それは逆手に出た誇りである。しからずんばなぜにかくも自分の屈託し続けるのであるか。その謙遜は人をその私から解放するものである。 そうしてその解放のゆえに、人の前にも、神の前にも、人をしてのびのびと自由ならしめ、小児のごとく快活ならしむるものである。小さくいじけるのは偽の謙遜である。忍び音の自慢である。
しかし真の謙遜はかくのごとく卑屈な態度を採らない。彼はすでに「子たるの自由」に与ったのである。
喜ばざるをえない、愛せざるをえない。義務だから、救いに入るの条件として欠かすことをえないから愛するのでない。私から解放されたゆえ、おのずから他を愛せざるをえないのである。
われわれに己れが相に誇ろうとする意志の存する限り、われわれが真個に謙遜であるをえない限り、われわれは決して愛を体することをえない。
すなわち愛は絶対の謙遜を要求する、残りなく私を棄てよと要求する。われらたがいに相愛しうるためには、互いにその私を去ることが必要である。
(中略)
われらが真に相愛せんとせば、われらの愛は必然神にまで遡らなければならぬ。遡って神にまで到らない愛は、すべて妥協である。生煮えである。神はかかるものに告げて言い給うであろう。
『黙 3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。』と。
あるいはまた、神を愛すると称して、人に背き世を捨てる人がある。しかし人と世とは神のいたく愛し給うところである。
神は汝自信を愛し給うと同じ愛をもって、また汝の隣人を愛し、この宇宙を愛し給うのである。
神の愛し給うこれらに背いて、そも何処に汝の愛を実現しようとするのであるか。汝の愛は神の愛に背いているではないか。それが神への愛であるか。(中略)われらもし真実神を愛するならば、どうして神の愛し給うものを、われもまた愛せずにおられよう。(中略)
神は生命なればまた愛なれば、神とともに活き、神とともに愛してのみ、彼を知り、彼を体験しうるのである。しからばいかにして、かれとともに活き、彼とともに愛しうるか。
ここにただ一つその道がある。「己れを棄ててその十字架を負い」心より兄弟を愛するこである。
誡めの中最も大なるものは、心をつくして主なる神を愛することと、己れのごとくその隣人を愛することとであるとキリストも教えられた。隣人を愛して徹底するならば、必ずや主なる神をも愛せざるをえないものであるゆえに、老ヨハネはそこに気づいて、彼の短い言葉に、老後の全力を傾け尽くしたのであろう.
曰く「子等よ、互いに、相愛せよ」と。「この誡めを守りだにせばそれにて事足りるのである』と。
新年を迎え、何気に本棚をあさっていたら、ボロボロになった三谷隆正の『信仰の論理』の本が目に留まった。昔、肌身離さず持ち歩いていた愛読書でした。表紙が破れ。剥がれかかっていたのを絆創膏で修復(?)にしては少しひどいかも知れないけれど。忘れかけていた旧友と出会ったような気持ちで読み直してみた。新たな気持ちで読んでいると、また新しい感覚が湧いてきて夢中になってついつい明け方まで読んでしまった。この本は松沢牧師から貰った本で二人でよく内容を語り合ったものだった。
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>隣人を愛して徹底するならば、必ずや主なる神をも愛せざるをえないものであるゆえに、老ヨハネはそこに気づいて、彼の短い言葉に、老後の全力を傾け尽くしたのであろう.
うーん。
確かに・・・隣人を愛して徹底するならば、神を知るだろうな・・・
本当にその人を愛するならば、十字架の苦しみに触れることになるから。
ヒロさんが松沢先生を愛したように。
2010/1/6(水) 午前 1:15 [ - ]
じっくり考えても分からないので、『落伍者の祈り』をあまり深く考えずに読むことにしました。
そしたら、心に留る箇所がいくつも出てきました。
『テロのあった日』
テロのあった日
その日
街では大勢の人が死んだ
空が いつものように青い
テロのあった日
その日
空は いつものように青かった。
恐ろしいくらいに・・・
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確かに、たくさん人が死んでいるのに、それでも空は青く、何も変わらずに晴れ渡っていました。
今もそうなのでしょうね。
いつもと変わらぬ青空の元で、今日もたくさんの人が死に、悲しみとうめきがあるけど、
青空は何も語らずに、何も教えないで、青々としています。
2010/1/6(水) 午前 1:40 [ - ]
初めまして・・。三谷隆正の本ですね。無教会の人ですね。大学時代無教会に入れ込みまして、三谷隆正の全集(三巻)を買いました。いまは書棚の隅にひっそり眠っていますが・・。
2010/1/7(木) 午後 6:47 [ kabanotakara ]