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キリストと科学
10月4日の読売新聞の「時代の証言者」の江崎玲於奈氏の記事に面白いことが書かれていました。
その箇所を抜粋してみると。
自然や宇宙を支配する絶対唯一の神が存在すると信じるキリスト教は、絶対的な自然の法則を追求する科学の精神と共通する側面もあります。だからこそ近代科学は、キリスト教文化圏で開花したのでしょう。 日本人が好きな「心」という言葉にぴったり当てはまる英単語はありません。
「心」には、マインド(知性)とハート(感情)のふたつの面があります。私がマインドの極みであるサイエンスにひかれたのは、ハートの極致に神がいるという同志社での教えに触発されたからのようです。いずれも「心」の極致といえます。
玲於奈氏は同志社中学でキリスト教と出会い、チャペルの礼拝に熱心に通ったそうです。でも彼はキリスト教信者にはならなかったようです。
それは、科学では何事にもまず疑問を発し、思考しなければならないのですから、神の存在を疑わず信じなさい
という教えを受け入れることができなかったそうです。
疑問を発するところから科学は始まり。疑わず信じるところからキリスト教は始まる。
相反するところからのスタートです。
記憶が定かではなくなってしまったので、間違っていたらごめんなさい。
ニュートンのところへ無神論者が訪ねて来て、そばにあった大宇宙の模型をみてニュートンに質問した「この模型はどうやって作ったのか?」とたずねたらニュートンは「偶然にできた」と答えた。
無神論者は「こんなに精巧なものが偶然にできる訳がない!」といったらニュートンは「この大宇宙は神が造ったと言ったら君たちは信じたか?!」と言った。
科学者は疑問を追求していくとあまりの緻密な仕組みに驚嘆し、神の世界を知らされるとよく聞きます。
広大無限の宇宙から見れば地球なんてミクロの世界。ましてその中の人間なんて、ましてその中の頭脳なんて・・・・・推して知るべし。
『西遊記』のなかの孫悟空の話しに自分の力に傲慢になった孫悟空が、御釈迦様に自分の持つ力を自慢します。「この觔斗雲(きんとんうん)は世界の果てまで一っ飛びで行ける!」と豪語します。御釈迦様は「ならば行ってみよ!」と言いうと孫悟空は自慢の觔斗雲に乗って飛び立ちます。しばらく飛んでもうそろそろ世界の果てだろうと思っていると、行く手の雲の上に4本の柱が立っています。「さぁ!世界の果てに来た」と思いその柱に着いた証しの文字を書くとそれは御釈迦様の指であった。という物語があります。
その傲慢さゆえに御釈迦様は孫悟空を岩の中に閉じ込めてしまいます。
私は謙虚に神の存在を信じます。
科学の行きつく果てに神の世界があるからです! |
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