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棕櫚の日曜日
エルサレム入城マタイ21章16節(エルサレム入城)では、子供だちはその純粋な目でイエスの真実にふれ、「ダビデの子にホサナ」と叫びつづけていた。
この場面で律法学者たちはイエスに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」と詰問するところがある。
これに対してイエスは「聞いています、“あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された”と書いてあるのをあなたがたは読まなかったのですか。」と答えた。
この答は詩篇8章の“あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって力を打ち建てられました。」の引照句であります。
ダビデはこの詩篇8章で人間実存への根源である天地創造、つまり創世記1章を語ろうとしました。
このテーマは“私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。”・・御名は全地にわたり・・つまり地において主の御名を讃美することが主題であります。
それは神学者や哲学者や祭司などによらず(人の知恵など神の前では、とるにたらぬもの)、「小さきもの」幼児や乳飲み子の口による賛美は、この世の最大の神の敵も、その前に敗退する。
幼子のように純粋で無心をもって神を讃美する信仰こそが最大の力であります。
つまり、天の上にある神の栄光は「父なる神」によりベツレヘムのうまぶねで生まれ受肉し人の子としてこの地上に降りてこられたイエスさまの栄光を「わが主よ!わが父!」と純粋、無心な幼子の心をもって信仰し賛美することであります。
「信仰の大盾をもて」と聖書に書いてあるとおり、幼子のような純粋、無心な神への信仰が、この世の最大の神の敵、サタンもその前に打ち負かされる。
わかりますか?わたしたちは神学がどうの知識がどうのと知恵をふりかざしている人がいますが、そんなことではなく幼子のような信仰を目指しましょう。
それから、エルサレム入城で見逃せない事がもうひとつあります。
それは、ゼカリア9章9節の、預言者ゼカリア預言通り、
『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに』
雌ろばの子の子ろばに乗っての入城は、凛として颯爽と馬に跨って入城するその王なる王の姿ではなく、人の下部として働かされる“ろば”、それも雌ろば、それよりもさらに低い“子ろば”での入城は謙遜の象徴でもあった。
その御姿は、権力や権威をかざす王ではなく、よわき者、小さきものに仕える王としての在り方を身をもって現されました。
あのベツレヘムのうまぶねに人の子として受肉し、貧しき者、小さき者と生まれた神の子がこのエルサレム入城、そして十字架の贖いのイエス様の愛へと、常に低きところから愛の手をさしのべてくれる神の愛の偉大さを感じ感謝せざるを得ません!
受難への道を歩まれる「主のうしろ姿」を思い、イザヤ書53章を読みながら、常に、罪深き私たちと苦しみを共にして下さる神の愛に感謝しましょう。
アーメン!
イザヤ書53章
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが 私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たち のすべての咎を彼に負わせた。 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の 前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの 民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きは なかったが。 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけ にえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって 多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分の いのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむ いた人たちのためにとりなしをする。 |
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