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ベテスダの池
この物語はベテスダの池のほとりに三十八年の間病気で横たわっていた人とイエス様の出会いの話です。
この話を聞くたびに私は今の世の中でも、私たちが人間として大切な心を忘れてしまっている寂しさを感じてしまう。 現代の私たちの状況となにも変わらないような気がしてならない。
一人ひとりの命の大切さや、人と人との絆、協調性の大切さ、隣人愛。 この現代の物質文明のもたらす裕福さの中に人は大切なものを忘れてはいないだろうか? 自分さえよければ・・・・個人主義。人間相互の連帯と協調の崩壊。 どの世の中でも弱い、小さき者たちは置き去りのされてしまっている。
さて、このベテスダの池に歩まれたイエス様は三十八年のあいだ病に悩んでいる一人の人に目を留められる。
「なおりたいのか」と声をかけられると、その病人は「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしが入りかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」とイエス様に訴えた。
みんなそれぞれ病を抱えた人たちですから、われ先に他人のことを思いやるより自分のことを考えてしまうことは仕方のないことなのかも知れません。
この病人はイエス様に周りの人の無情さや思いやりの無さ、無関心さを非難して訴えています。
私たちも自己の不満原因を他者に転嫁してしまうことが大いにある。すぐに、被害者意識の立場でものごとを批判していることがよくある。社会に対して、人に対して。 つまり人間相互の連帯と協調性の崩壊である。
よく考えてみると、この三十八年の病を抱えていた人も、もし逆の立場だったら?同じことをしていただろう!
人を非難するけれど、その自分も同じ立場にいるということが気づいていないのです。
被害者だと常に思い込んでしまって、加害者でもありうる、真の自分に気がつかないでいたのです。
イエス様は何も言わずに、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』と言われた。するとこの人はすぐに癒され床をとりあげ歩いて行った。
イエス様は何も言わず黙って、その人を受け入れ抱きかかえたのです。
三十八年病に悩み、周りの人を恨んできたその人は初めてイエス様と出会い、自分が決して一人でないことを知っり、周りの人を非難してきた自分の罪深さをも自覚して、そんな自分をも受け入れ抱え込んでくれたイエス様の愛に触れたとき芯から身も心も癒されたのでした。
マザー・テレサはこのように言っています。
『この世の最大の不幸は、貧しさや病ではない。むしろ、そのことによって見捨てられ、だれからも自分は必要とされていないと感じることである』
日本人に対してマザー・テレサはこのようにも言っています。
『今日、日本や他の裕福な国々では、とてもひどい飢えがあるかも知れませんね。だれからも必要とされないというひどい恐れ、だれからも愛されていないというひどい貧しさ。だれからも必要とされてないこの貧しさこそ、
一きれのパンへの飢えよりも、もっとひどい貧しさだと思います。裕福な家庭には、このようなあがきがたえずあります。家庭生活は完全に崩壊されつつあります。というのは、人びとはあまりにも物質的なことでいっぱいで、
精神的なことを考えられなくなっているからです。沈黙した心に神は語りかけられます。ですから、まず祈ることです。というのは祈りのないところには愛はなく、愛のないところに互いの信頼や会話や助け合いはありません』
今、日本は千年に一度の大災害にみまわれました。一日にして命を失い。一日にして物を失い。一日にして食料を失い飢えの中に立たされたとき、連日の報道の中から、自分の命を犠牲にして多くの命を救った真実が多くあったことが知らされ、日本国中また多くの外国の人びとからの温かい励ましと支援の数々・・・・・・。
人と人との絆の尊さ、隣人愛!人が遠くに忘れ去っていたものを取り戻せたような気さえ致します。
苦しまなかったら
もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった
もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった
もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった
野の花
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馬酔木ですね。
野辺に咲く 清き馬酔木の慰めを 我も持ちたし 旅路のほとり
2011/6/8(水) 午後 3:27 [ - ]
久しぶりの万葉集ですね!
なにわづに咲くやこの花紫を今に伝えん永久のおみなへ
懐かしき万葉仮名のきれぎれに思い馳せればわれもうたびと
2011/6/8(水) 午後 5:29
ベテスダの池・・・ここに集う人たちはみな苦しみを抱えた人たちばかりでしたね。
やっとイエスさまが来られた。
私も、あの時、イエスさまが来てくれたんだなあと思いおこしました。
苦しまねば愛に気付けなかったか・・・
兄弟姉妹の苦しみがなければ、伝えられなかったか・・・
たくさんの人が私にイエスさまを伝えてくれていたことにも気づかされました。
2011/6/11(土) 午前 1:33 [ - ]
そして、
かけがいのない者として神の前に召し出された中川誠一は、魅力あふれるイエスキリストの愛を中川誠一牧師のメッセージを通して伝えていってください。
真にイエスキリストに触れ合った者はなにも語らずとも、その姿からイエスキリストが溢れ出てくるものです。
魅力ある人として・・・。
2011/6/11(土) 午前 9:07
ヒロさん、ありがとう。
自分の命を捨てて御言葉を拾うのでなければ、神の言葉を語ることはできないように思えています。
だから、カトリックとプロテスタントの問題にも命を捨てるし、統一協会の問題にも命を捨てたいと思うのです。
ヒロさんがかつて教えてくれた真剣の刃の下に身を置いて初めて見えますから。
アーサーの魅力的になったのは、それをしてからですね。
肉を切らせても骨を断つ刀を振るえないと、命の言葉を語れません。
今、少々焦っているのですよ。
何かモタモタしてしまってね、行動が遅いのです。
言葉だけになりそうでね。
2011/6/12(日) 午前 2:33 [ - ]