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ペンテコステの日に思う
アーサーとの会話より
アーサーと雑談の中からこんな話をしました。
『神様は言葉で天地を創り、そして、ヨハネの福音書にはじめに言葉があった、その言葉とはロゴスと原語では言うけれど、すべての宇宙の道筋をあたえる源だという感覚だというその言葉が、人となって地上に来たそれに命があった。
その命は人の光であった。それはイエスさまのことを言っているのだけど、その言葉が受肉し人となった。
だから神様の存在を見失った人間、人間らしさを失った人間に神を信じる生き方はこのような魅力的な人間になれるんだよ!という一つのモデルでもあるんだ。
だから俺たちが追求する最も粋な人間味ある人間の見本がジーザスなんだ、だからジーザスはカッコいいし粋だし、魅力に満ち溢れているんだ、男が男に惚れるようなそんな存在でもあるんだよ。
その存在を心の中に持っているということは、その言葉が人となった存在を俺たちの中にも受肉して、こんどは俺たちの血液を通して筋肉通して、生き方通して心と思いと知性、力をもって神に栄光をあらわしなさい、人を愛しなさいその部分が絶対に一つになって、かもし出されてくると思うんだ。
キリストの姿に似てくるというのは結局、イエスさまと愛の関係をもってその中で完全完璧ではないけれど、愛はその被の罪を覆うというのが絶えず先にながれていくから、
そこの恵みによってその被によって救われている感動が俺らの体の免疫力みたいに神に愛され、生かされ、創られた者だという、本来見失っていた自覚を回復して
それが、もろ俺らの現実の中に現れるから、それを意識してないやつで、失望してちょっと心を病んでいるやつが、その人を見ると、なんでこの人魅力的なんだろう。
言葉を語らなくても、そいつがそこに居るだけでかもしだす香りとか、熱でやはり菌に感染するように感染する部分も大いに有ると思う。
だからこの人オーラがあるなぁとか、魅力的だなぁというのは、ある意味でやはり自分にないものをこの人は持っているとか、本来は自分の中にあるんだけれど意識していない。
でもこの人は意識して生きている、でもそれを押し付けようとしていない。
でもその魅力に自分も影響されてこの人は素晴らしいなぁ、魅力的だなぁ、と思うとその人の中にあるものも魅力的だなぁと思う。
その人がジーザスの話をすると、ナチュラルに心に入るんだけれど、神学的なものばっかりでキリスト教を伝えている人は、言葉で伝えるけれど、その人の中にキリストが生きてないから、またそういう体験でないからギャップを感じてしまうんだなぁ。』
(この会話は録音した音を聞きながら文章に起こしたものです)
このアーサーとの会話の中から、私が以前に話した『愚者のこころは言葉に宿り、賢者の言葉はこころに宿る』のことばを思い浮かべました。正にその通りで、神学を学んで、哲学を学んで、私はキリストを知り尽くし、聖書を知り尽くし、そんな思い込みの中でメッセージをしても、その人の中にキリストの香りがしないから、キリストの温もりがないから、言葉だけが空回りして人のこころの中に入ってこない。
ペンテコステの日・・・・・・・。
師であるイエスさまを尽く裏切り、世の中から迫害されボロボロに打ち萎れていた弟子たちの上に神は聖霊を注ぎました。小さき、弱き者たちの上に、無学で粗野な弟子たちの上に・・・・。ペテロのあの大演説は正に内なるキリストのなせる技であると思う。
あのフランシスコもその人の中にキリストが生きていました。
あのリジューのテレーズもその人の中にキリストが生きていました。
そして、あのマザー・テレサにもイエス・キリストは生きていました。
俺がドロ沼に落ちた時
その人は
手をさしのべて
たった一つの言葉を言った
「私はお前を愛しているよ」 と
その時
ドロ沼の真ん中に
その人は居た
私が落ちたドロ沼のドロをかぶり
金色の瞳を輝かせて この詩の作者の中にもキリストは生きていた
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金色の瞳ですね。。
君知るや我らが神は人となり奈落の底にて我を呼ばれり
2011/6/13(月) 午後 7:50 [ - ]
彼はキリストを断ち切ろうとした。切ろうとしても、切ろうとしても断ち切れなかった。断ち切れたら楽になると思って。身も心もドロ沼に落ち、汚れきった時、金色の瞳を見た、同じドロをかぶり「私はお前を愛しているよ」と・・・・・。
キリストの愛に真実触れた者は、何も語らずともその姿からイエスの愛は溢れ出てくる。
2011/6/13(月) 午後 9:37