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プア・イズ・ビューティフル
主よ貧困と飢えのうちに生き死ぬ
世界中の同胞のために働く私たちを
そのことにふさわしい者にしてください
貧しい者は、金持よりも美しい顔でよく笑う私はネット上で繰り広げられている、キリスト教の教義論争、真理論争を読んでいて疲れてしまいました。
疲れている時、何時も読みたくなるのが、フランシスコやマザー・テレサやリジューのテレジアの本なんです。
それは、それらの先人の生きざまの中に、生き方を通して語られてくる真理を感じるからです。頭で語るキリストでなく、キリストに真実ふれた生き生きとしたキリストの愛の真理を感じるからです。
教会の本棚にあった「マザー・テレサ あふれる愛」 沖 守弘著 を見つけ借りてきて読んでみました。
まだマザー・テレサが日本ではあまり知られていない時期に写真家としてマザー・テレサの生活の中に家族のように密着しマザー・テレサからも信頼されていた人の本でした。クリスチャンでない彼であったらこそ、先入観なしにマザー・テレサを通してキリストの愛の真理に触れられたのだろうと思う。
「私はある日、托鉢で得たわずかな米を、スラムにすむやせ衰えた主婦にわけあたえました。するとどうでしょう、彼女はそのわずかな米をさらに半分にわけて裏の家に持って行ったのです。私が、あなたの家族は十人もいるのにそんなに少なくて大丈夫なの、ときくと、彼女はニッコリ笑って、でもあの人の家はもう何日も何も食べていないんです。と答えたのです。私が、貧しい人は美しい、という意味が少しはおわかりいただけたでしょうか」 (1976年カナダ、バンクーバー、国連人間居住会議の壇上にて)もし貧しい人びとが飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が、その人たちにパンを、服を、そして愛を、思いやりをあたえなかったからなのです。飢えている人がいます。でもそれは、パンがないためではありません。愛、思いやりへの飢え、だれかの“自分”でありたいという思いがみたされない飢えなのです。裸の人もいます。服がない、ということではありません。見ず知らずということだけで、やさしい心づかいをしめしてもらえないという意味の裸なのです。でも、それらの人びとに話すことはできるだけ少なくしましょう。説教してきかせても、それは人とふれあう場にはなりません。ほうきをもってだれかの家をきれいにしてあげてごらんなさい、そのほうがもっと雄弁なのですから。本の著者・沖さんは次のように言った。
『天国の神の福音を説くことに精力をつかって、ともすれば現実と遊離しているキリスト教は、しょせんそういうものだと、なんの疑問ももたなかったぼくには、マザー・テレサたち<神の愛の宣教者たち>の身の処しようは、ことばの本来の意味でラジカルに思えた。比喩的にいえば、天国へ天国へと上昇することをキリストのもとにいたることだとする“常識的”宗教と、貧しき人びとのなかへ、さらに貧しい人のなかへと無限に下降し、貧しき人々
のなかへにキリストそのものを見よう、下降することによって、
みずからがキリストと一体化しようとするマザー・テレサたちの活動と、そのベクトルは真反対だ。
究極、貧しいなかのもっとも貧しい人こそキリスト、という信念は、マザー・テレサたちをラジカルにし、彼女たちはラジカルでありつづけることにおいて、その精神は剛毅であり、きわめて楽天的でありつづけるのではないか。』
宗教キリスト教をしていると、真理がどうの、教理がどうのと論議しているあまり、パリサイ人のように知らず知らずキリストから遠のき、的外れになってしまうような気がする。
キリストは私たちのすぐ近くにいる。予定論がどうの、セカンドチャンスがどうのこうの・・・・・・。
それは過去のどえらい神学者さまの考え出したこと、所詮人間の貧しい思考の産物にすぎない。
神を信じることは、自分のすべてを神に委ねることである。生まれたての赤子が母に抱かれて無心に乳を吸い
眠っているさまのように。
コリント人への手紙
キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。 1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。 1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。 1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。 1:31 まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。 リジューのテレーズも自叙伝の中でこう言っています。
私が歩いていた道は、ほんとうにまっすぐで光に満ちていましたので、イエズス様以外の道案内の必要がなかったのでした。
この世においでになった時、喜びにあふれて「天地の主なる父よ、私はあなたに感謝いたします。
これらのことを賢い人、りこうな人に隠して小さな人々にお示しくださったことを」と仰せになった主は、私の上に
御あわれみを輝かせたいとお望みになりました。
小さく弱い者であったからこそ、主は私のほうに御身をかがめ、御自分の愛に関する事柄をひそかに教えてくださったのです。
ああ、もしも学問に生涯をささげた学者たちが、私のところへ尋ねに来たとしたら、わずか十四歳の子供が、彼らの博学の発見することのできなかった秘密を悟っているのを見て、きっと驚いたことでしょう。なぜなら、この秘密を知るには、心の貧しい者でなければなりませんから・・・・・・・・・
好子さんの昇天を通して 幼子に変えられ、純粋にイエスさまに身を委ねられていた
信仰を見つめるにつけ
真の安息とはすべてを委ねた。
イエスさまの懐の中にあるのだなぁ!
イエスさまの眼差し
親切で慈しみ深くありなさい
あなたに出会った人がだれでも
前よりももっと気持よく
明るくなって帰るようになさい
親切があなたの表情に
まなざしに、ほほえみに
温かく声をかけることばにあらわれるように
子どもにも貧しい人にも
苦しんでいる孤独な人すべてに
いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい
世話するだけでなく
あなたの心をあたえなさい
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題 : マザー・テレサさんのこと
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マザー・テレサさんが、初めて、インドの社会に入って行っ
た時は大変でした。
彼女にあったのは自分の志(こころざし)だけ。
彼女を受け入れたのは、インドの「ヒンズー教の方たち」で
した。
彼女の活動のための家を貸し、彼女の活動のための手助けの
人達が駆け付けました。
元々、マザー・テレサさんのやりたい志の事は「ヒンズー教
の方達はしていました」。
だから、正確に言えば、「マザー・テレサさんが、志を同じ
くする人たちの中に入って行った」なのです。
ヒンズー教の方達は、多神教。
イエス・キリストやマリアもヒンズー教の神々の一人として
いる宗教。
この様な宗教教義の面からも、マザー・テレサさんもスムー
ズに受け入れられました。
一神教のキリスト教には「異教徒を殺せ」の教義がある様に、
異教徒を忌む宗教ですので、
参考URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/
2012/8/9(木) 午後 0:56 [ けいせん ]