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慈
悲
の
愛
昔、清水寺の偉いお坊さんがこう言ったのを覚えています。
『子を抱き立っている母の姿こそ、観音様の姿だ。
子を思う母のこころこそ、慈悲のこころだ!』
昔私は、秩父の霊場を般若経を唱えながら尺八を吹いて巡礼したことがありました。
第四番札所の金昌寺に慈母観音像があります。江戸中期の作とされていますが作者は不明だそうです。常時庶民の目に触れて観賞拝観される身近な作品であり、その高い芸術性は彫刻職人たちの目標であったに違いないとある評論家は言っています。(本来観世音菩薩は女性ではなく限りなく中性に近い存在であると聞いたことがあります。)
子に乳を与えようとしている姿は正に慈愛に満ち溢れた姿を表しています。
さて、聖母マリアさまは、イエスさまを神の御子としての敬う敬愛のこころと、我が子、つまり人間ヨシュアとして見つめるの慈愛のこころを持っています。
ですから、子を抱くマリア様の心にはわが子を思う慈愛のこころが溢れている。
イエス・キリストがゴルゴダへの道を重い十字架を担がされて傷つき、罵られ、唾を吐きかけられてボロ雑巾のように歩まれたその姿を母の目で見つめていらした、心の辛さ苦しさは私たちには計り知れないものがあっただろう。そのこころを自分に置き換えてみるといい。あなたが我が子があのような姿を目の前にさらされた時、じっと見つめる事しか出来なかったとしたら、あなたのこころはどうですか?
マリア様は耐えられた。そして、神の子であるという信仰のこころをもって・・・・・・・・。
「あなたは神である」と信仰告白していた弟子たちは散り散りに逃げてしまったのに、マリア様はじっと耐えられていました。
カトリックの人たちはマリア様を通してイエス様に執り成しの祈りをするそうです。
マリア様は神ではありません。一人の子の母です。ですから、イエス様の神の愛は人間マリア様の愛を通して私たちにそそぎ与えられるのです。
人の愛と神の愛との架け橋がマリア様の愛なんです。
人と人との触れ合いが無くして神の愛を語る事ができないんです。
よく神さまの御心は・・・うんぬんと語る人がいます。コチコチに信仰論理に固まっている。人の愛に触れていないから、逆に冷たさすら感じてしまう。
夫婦の間でも同じでクリスチャンの夫婦が心の寂しさを、夫にまたは妻の愛に求めようとしても信仰論理に固まっているから、冷たさだけを感じて、寂しい心を包み込んでくれる触れ合える愛を感じられなくなってしまう。
そして、夫や妻は、それ以外のところに満たされない愛を求めてしまう事がある。
神の愛とは、人と人、親と子、友だちと友だちとの、こころの触れ合いの仲から与えられるもの。
人を通して与えられるもの。
あのマザー・テレサもマザーの心と貧しい人たちとの愛のこころ触れ合いの仲から、神の大きな愛がそそがれたのです。
マリア様の慈愛・慈悲の心はそれを象徴しているのです。
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こんにちは。
神学も大切ですし、知っていることも大事ですが、僕は単純でいたいです。
聖書も難しく読まずに、単純に読むことにしています。もちろん、たまには勉強もしますが…。
松沢さんからいただいた聖書、大切に保管し、手にして読んでいます。
2011/11/17(木) 午後 1:46 [ Kazu photo ]
Kazu photoさん!
松澤さんは神学校を伝説になるほどに優秀で卒業し、卒業証書をやぶり捨てた人だ
からね!
神学校なんて何の役にもたたん!と言っていた。
素直に感じ取っていけばいいと思います。
頭でっかちのパリサイ人にならないようにすればいい。的外れの神学者のようにね!
2011/11/17(木) 午後 2:20
イエスは元々、パリサイ人の一派に属していたみたいですよ。
マリアがキリストとの掛橋と言うのは、聖人崇敬をはじめとする偶像礼拝に繋がる、カトリック独特の思想ですよ。
お勧めできかねます。
2011/11/18(金) 午前 6:01 [ みやこやみ ]
みやこやみ さん!
『マリアがキリストとの掛橋と言うのは、聖人崇敬をはじめとする偶像礼拝に繋がる、カトリック独特の思想ですよ。』
そうですね!
承知しております。プロテスタントがカトリックを糾弾する第一の要因ですね!
でも、マリア様はあくまでも人間であって神ではありませんよね!
ですから、偶像崇拝には成りませんよ!
みやこやみさんの言われることは充分に理解しております。忠告ありがとうございます
2011/11/18(金) 午前 7:17
神ではないものを神のように崇敬することが問題なのであって、神でなく人間だから問題ないと言うのは、論点がずれてます。
クリスチャンにとって、GOD以外は神ではないのが大前提であって、他を神である、ないを問題にしているのではないのです。
2011/11/18(金) 午後 6:44 [ みやこやみ ]
みやこやみさん!
確かにその通りですね!
みやこやみさんの言われる意味は充分に理解できます。
私もみやこやみさんと同じ天地創造の神こそ、唯一の神だと信じています。
みやこやみさんの思いやりのある忠告を真摯に受け止めています。
2011/11/19(土) 午前 10:19
私もきつい言い方していたので、傷付けたのではないかと、気になっていました。
私のきつい言い方にも関わらず丁寧に対応してくださり、感謝します。
2011/11/19(土) 午後 2:32 [ みやこやみ ]
礼拝と、崇敬は違うのですね。
カトリックの方々はちゃんと分けて考えておられます。見かけで判断し誤解されていますが。
父なる神様(礼拝)←イエス様(神様の御子、神様へのとりなしを願うお方)←御母マリア、聖人方(イエス様へとりなしを願うお方)←自分。
御母マリア、聖人方とは自分の生きてる兄弟姉妹に一緒にお祈りをして下さい、とお願いするような感覚でイエス様にとりなして下さいと願っておいでなので心の在り方としては偶像礼拝ではないです。
神様への取り次ぎはイエス様しかお出来にならないと理解されているので。
御母マリアや聖人が、神様にとりなしをするのではなく、彼らが主と仰ぐイエス様にとりなしをお願いするのです。
立場的には先んじて信仰を全うして帰天された兄弟姉妹に、彼らのお傍においでのイエス様にとりなして下さい、とお願いをしているのですから偶像礼拝では無いですよね?
自分も彼らのように信仰を全うしたいと憧れを持って尊敬の想いを持っているのは信仰の先輩という意味での目上に対する心の礼節で、麗しい事と私は思っています。
礼拝されるべきは父なる神様です。
2011/11/20(日) 午前 1:37
御母マリアは、、自分が崇敬されても、、それを喜んではおいでではないでしょう、。
イエス様が神様の子、、と言う以前に、大切で大事で、、自分の愛する我が子として守りたかった、。その切実な思いが、、十字架を黙ってみとった想い、、。
せめて、、最後をみとる、、そのくらいはしてあげたい、。と、。自分が捕まって殺される危険性を犯してでも、、イエス様のお傍に、、母として最後までとどまってみとっていた、。
イエス様も、、御母マリアが危険にさらされるのは、お嫌だったから、、十字架上から、、自分の母であるのに、婦人よ、、と呼びかけています。
2011/11/20(日) 午前 1:53
弟子に、あなたの母です、。と御自分の母をたくし、貴女の子は、、これからは、この弟子ですよ。と、、
御自分が亡きあと、、御母の老後をイエス様はとても心に掛けて案じておいでであったということ、、。
とても、、御母マリアを母として愛していらした、イエス様、。
イエス様が、、十字架上でまで、、心を砕き最後の最後まで心配して愛して居らした御母、、。
イエス様がそこまで深く愛されていた御母マリア、、イエス様の弟子である私たちクリスチャンがイエス様のように御母を大切に想い愛したからといって罪になるとは思えません。逆に退けていたら、、イエス様は、、御自分の愛している母がないがしろにされているのをご覧になられたら、、悲しむと想うのですけれど、。
2011/11/20(日) 午前 1:54
私は、、プロテスタントですけれど、。
御母マリアが大好きですし、。
彼女のような高く強い、、神様のためなら命がけでもいいと、想って身も心も捧げた信仰を持ちたいと思っています、。
2011/11/20(日) 午前 1:57
マリアさん!ありがとう!
全くその通りなんです。わたしもプロテスタントのはしくれですが、聖母マリアが大好きなんです!私の気持ちを代弁してくれたみたいでとてもうれしいです!
このところに触れるとこのような論争が起きてくるのは想定はしておりましたが、
私の言葉足らずの為、みやこやみさんにも忠告をして頂きありがたいと思っています。でも、あえてここで論争するつもりもありません。
この論争はプロテスタントとカトリックとの間で長く取り上げられていた問題点であったからです。
両者の枠を飛び越えてマリア様を見たとき、マリア様の魅力に魅了されてしまいます。一人の母としてこれほどの慈愛・慈悲のこころを表されたお方は居ないと思っています。
みやこやみさん!マリアさん!ありがとう!
2011/11/20(日) 午前 3:51