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この文章は四十二歳だった頃、まだ幼かった二人の息子たちの為に宛てた、わたす事のなかった手紙
です。 (弟の竜二の結婚式のとき、兄弟二人に父からのメッセージとして彼達にわたしました。)
『今からもう二十年近くにもなります。私が学生の頃、桐が丘養護園とゆう肢体不自由児の学校へ
写真を撮りに行った事がありました。(学校で写真の勉強をしていました。)私が写真を撮っている
と、小学校の3・4年生ぐらいの男の子でしょうか、体じゅうギブスのバンドで縛られ、まるで中世
の鎧を着た戦士の様に「ガチャ、ガチャ」と音をたてて、校門のところを歩いている子供がいました
私はそばに母親が居ることに気ずかず、私はその子にむけてシャッターを切りました。
その時、母親は子供に向って、こう言いました。 「何々ちゃん(名前は忘れました)おにいちゃん
に自分で立っている写真を撮ってもらいましょう。よかったね」 その時の言葉が私の心の中に
今でも残っています。 その時、お母さんは、どのような気持ちで言ったのか? 「何をするのです
か」と私に怒れば、子供はそれ以上に傷付くし、母親の心は、もっともっと辛かったのでは無かった
ろうか、いろいろ考えていました。私のあまりにも身勝手な心無い行動に自己嫌悪におちいり、
しばらく悩んでいた。 校長先生にお会いしてそのことを話したら、先生は、にこやかに「その写真
をその子に持って行ってあげなさい、きっと喜びますよ」と言って下さいました。
その学校の中で若い先生とも話しました。 ちょうど体育の時間でした。ボールを持って二人一組
でポールを回って次ぎの組にボールをわたすだけの運動でした。 手の不自由でない子は、手の不自
由な子の代わりにボールを持ち、足の不自由で無い子は、足の不自由な子の代わりに駆けます。
そこには自然と思いやりが生まれ、やさしさがいっぱいあふれていました。「何々チャン頑張れ」
しきりに応援していました。私は感動しました。 このちいさな子供達は、自分が不自由に生まれて
きたゆえに、同じ苦しみを理解し、人の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、純粋に自然のままの
「やさしさ」と「おもいやり」が身についているのだなあ、と思いました。 普通の学校には無い
ものを私は教えられました。 その若い先生は「転んだ子がいても、この学校では手を貸すより、
じっと見つめてあげる事の方が親切なんです」って。
その時以来、私は本当の「やさしさ」とは、何なのか考える様になりました。
私は灰谷健次郎が大好きで、ほとんどの本は読んでいます。 その中で、「だれもしらない」の
麻里子の話があります。障害をもつ麻里子がバス停までの二百メートルを四十分かかって歩く道すが
ら、色々な事を発見してゆきます。私達がかんたんに、見過ごしてしまう事を麻里子は、一つ一つ新
しい感動として発見していきます。 私達は自由がゆえに不自由なのです。
中略
「幸せ」も同じです。「幸せ」は私達の心の中にあります。 貧乏していても、「幸せ」を感じる
心があれば、辛い生活の中でも「幸せ」を感じる心があればその人は「幸せ」です。
人間の心というものは、素晴らしいもので、道端の小石一つさえも素晴らしい宝石にもなりえるの
です。 私の仕事は、肉体労働ですから汗を一杯かきます。 その汗の一粒が、我が愛する子供
達の一粒の血となるのです。 働いて流す汗の一粒の価値は、人間一人一人、皆同じです。
でも、世の中ではその汗の一粒に金銭価値の差をあたえます。
「優しさ」を意識した時、それはもう「優しさ」ではありません。 「思いやり」を意識した時
それはもう「思いやり」ではなくなるのです。 それは、無意識の中で「差別」が表われている
のです。無意識の中で行動することは私達にとってはとても、とても難しい事だと思います。
だから、私達はいつも、いつも「優しさ」と、「思いやり」の心を求めつづけてほしいのです。
私は、私の子供達二人には、本当の「優しさ」と「思いやり」の解かる人間になってほしいのです。
勉強が少々出来なくても、健康で明るく「優しさ」と「思いやり」の心が有れば、人間どんな立場
境遇に置かれても、自分の中の「幸せ」を失わない、強い人間に成れると思うからです。
竜仁、 竜二の為に 父より 』
当時、私は運送屋をしていました。男手ひとつで幼い息子たちを育てるので精一杯でした。
子供達のために、自分の人生を捨てるつもりで必死で子供達と向き合っていました。
今思うと、辛くて、寂しくて、不安だらけだったけれど、いちばん充実していたように感じる。
神様は私を遠くから見ていてくれた。辛かった時、寂しかった時、私に手を差し伸べてくれていた
イエスさまの愛に気ずかなかった・・・・いや!イエスさまの元に導かれている自分に気がつかな
かっただけかも知れない!
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