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赤い星アンタレスを探しに
清里へ家族で旅行に行く事にしました。あの『銀河鉄道の夜』のあの蠍座の話し・・・・。
『どうか神様。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて夜のやみを照らしているの・』
八ヶ岳は星の降る町、そうだ、アンタレスを探しに行こう!
星座早見表と星座の本とそれに磁石と懐中電気を揃えてゴールデン・ウイークの5月2日から2泊の計画で川越を出発!
清里へ・・・・。清里はカラマツとアカマツと白樺に囲まれた里。カラマツは針葉樹の可愛い新芽で枝の先に新緑の葉が点描写のように飾られていました。
白樺とカラマツ
アカマツと
山桜の林
八ヶ岳を望む
牧草地で
草を食む
羊たち
夜10時になると、清里は町の明かりをおとして星の降る町になります。
11時頃女房とペンションの庭に出て、夜空を見上げるとそこには、満天の星が輝いていました。
なぜ11時かと言うと、星早見表を5月2日に23時を合わせるとアンタレスが南東の空低く表われるのです。
磁石で方角を決めて、それに星早見表を合わせて夜空を仰ぎみると、北斗七星がはっきりと柄杓の形をして輝いていた。その一端を5倍のばしたところに北極星があった。良く見える一等星をたどって、春の大曲線と言われる、うしかい座ノアルクトゥルス、おとめ座のスピカを見つけ、その真南の位置から東の方向に移動して南東の空低く、ついに赤い星アンタレスを見つけました。
他の星よりは少し赤っぽく見えていたので分かりました。
「あれがさそり座のアンタレスだ!Tくん見つけたぞ!!君の好きなさそり座を!!」と心の中でさけびました。
見つけた感動と同時にあの賢治のさそり座の話を思い浮かべていました。
『みんなの幸せのために、私のからだをおつかい下さい』と祈ったさそりの話し・・・・・。
涙がいっぱい溢れてきました。さそりの祈りが私のこころを突き刺さしてきます・・・。
子供の頃、星の話しが大好きでよく父に連れられてプラネタリュームに通っていました。天文学者になりたい夢をもっていました。でも、ある時、広大無限の宇宙が永遠の死の世界と結びついてしまい、もの凄い恐怖感をもつようになってしまいました。その時から天文学が嫌いになってそこから逃げていたのです。永遠・無限の世界が怖くって。
でも今は、キリストの世界を知った時から、その恐怖感から解放されて、宇宙は無限の愛を秘めた美しい世界に変わりました。
中3の時書いた卒業文集で「古代人と天文学」を書いた。 |
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ハバクク書
私は、見張り所にたち、
とりでにしかと立って見張り、
主が私に何かを語り、
私の訴えに何と答えるかを見よう。
主は私に答えて言われた。
幻を書きしるせ。
これを読む者が急使として走るために、
板の上にはっきり書きしるせ。
この幻は、なお、定めの時のためである。
それは終わりについて告げ、
もしおそくなっても、それを待て。
それは必ず来る。遅れることはない。
見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
よく松沢さんの部屋で音楽を聴いていた事がよくあった。彼はいつでもC型肝炎のだるい身体を横にして、ゴロンとしている事が多く、私もソファによっかかって、CDを聴いていた。
五十過ぎの男が、あがた森魚の『赤色エレジー』を聴きながら、この曲いいよなぁ・・・かったるくて、厭世的なところが等とメランコリックな会話をよく交わしていた。
カンパネラこの曲の演奏はすごいと言っていた!彼がボーとしてラジオから流れて来る曲を聴いていたら“ハー!”として飛び起きたと言う。誰が演奏しているのか?フジコ・ヘミングと聞いてすぐにCDを買いに行ったそうです。 彼の感性の鋭さを垣間見た気がしました。
フジコ・ヘミングがピアニストの道を断たれ、挫折してある病院の掃除婦の仕事をしている時、そこに一台のピアノが置いてあった、なにげなくピアノを引いていると、車いすに乗った老人が看護婦さんに引かれ、曲に吸い込まれるようにやって来た、その目には涙がいっぱい溢れていた。この老人は家族も無くすべての希望を断たれ、無感覚な人間になって、言葉も無く、感動すらなくなってしまっていたのだった、その老人の目からはいっぱいの涙があふれでていたのです。
初めて、 フジコ・ヘミングは自分の持っている天命を知りピアニストの道を再び歩きだしたそうです。
ハバクク書これは神さまがフジコ・ヘミングへ送られたメッセージだったのです!
フジコ・ヘミングはあまり譜面通りには演奏しないと聞いたことがあります。それこそが彼女の持っている感性が自由にその曲を通して響きわたり感動を与える事のできる天性なのでしょう。
松沢さんの心を揺さぶったのが分かる様な気がします。
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銀河鉄道の夜
銀河鉄道は白鳥座の北十字星から南十字星への天の川を走る旅です。物語はケンタウルスの祭りからはじまるジョバンニとカムパネルラの話です。ジョバンニは知らないうちに乗っていた銀河鉄道の客室でケンタウルスの祭りで別れた親友のカムパネルラと出会います。
北十字星の輝く白鳥座の駅を出発して、そこから美しい宝石を散りばめたような景色を銀河鉄道の車窓から身を乗り出すように二人は眺めて行くのです。
りんごと野茨の香りとともに背の高い青年と小さな姉弟が現れます。しばらく行ってからジョバンニは赤く輝く光を見つけます。
それは蠍座の赤く燃えている火でした。女の子はジョバンニにお父さんから聞いた赤く燃えている蠍の話をきかせます。
「蠍いい虫じゃないよ。・・・・・・」ジョバンニは言います。
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんがこう云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生懸命逃げて逃げたけれど、とうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてあがれないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生懸命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。
どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神様。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。
そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて夜のやみを照らしているのを見たって。 いまも燃えているってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火がそれだわ。」
そして列車はケンタウルス座の近くにある南十字星に着いた。
みんなはあの北十字星のときのようにお祈りをはじめ、「ハレルヤ、ハレルヤ」の明るいこえがひびき、そらの遠くから何ともいえずさわやかなラッパの声をきいたと書いてある。
やがて青年と姉弟は知らないうちにあの十字架の前の天の川にひざまずいて、その見えない天の川をわたって一人の神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちに来るのを二人は見た・・・・。
いつしかカムパネルラもジョバンニの前からすがたを消してしまう。
ジョバンニはケンタウルスの祭りでカムパネルラと別れて丘の上で眠っていたのであった。その眠りから目が覚めたジョバンニは、友達を助けて自らの命をささげたカムパネルラの死を知るのである。
ジョバンニの見上げた夜空には蠍座の赤く輝く星がうつくしくきらめいていた・・・・・。
ザーとした、あらすじはこんな事です。
いつも思わせられる。宮沢賢治は何故このような話しを書いたのだろう・・・。
この話は1925年ごろから1931年まで3.4回書き直されている。1931年はあの「あめにもまけず・・・」の書かれた年です。なにかのつながりを感じてなりません。
あの蠍の祈りのように、自らの命を友の為に捧げたカムパネルラ!
一人の神々しい白いきものの人が・・・・・。イエス様の姿にちがいない!
青年が去る時の会話に
ジョバンニは女の子を引き留めたい一心で「そんな神様うその神さまだい。」と言います。
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」と聞く。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく手をくみました。
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
賢治は2年後の9月21日に神さまに召されました。何回の書き直されている「銀河鉄道の夜」。1931年には賢治は身体の不調を感じはじめ遺書を書いていた事を考えると心の奥深く決するものがあったように思われて、法華経の人と言われる宮沢賢治のミステリアスを感じてなりません。
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銀河鉄道の夜
花巻で最初のクルスチャンで内村鑑三を師にした斎藤宋次郎をモデルに宮沢賢治は「あめにもまけず」の詩を書いた。
クリスチャンの目からは「あめにもまけず・・・」の詩は、斎藤宋次郎を通してイエス・キリストの姿が見えて来る。
それならば、宮沢賢治の目からは斎藤宋次郎を通して何を見ていたのだろうか? はたしてキリストか?
いや!それはちがう。宮沢賢治は熱心な法華経の人。
法華経とは釈迦が悟りを開いて“この世のすべての人達を救う為の"仏法の真理”を法華経に表したものであり、熱心な法華経の人宮沢賢治は、“真理の世界から衆生救済のために迷界に降りてこられりる如来”を見ていたのだと思う。 真理は二つとは無い!真理は一つ! ならば同じものを見ていた?。
創世記第一章には 。
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
:何もない世界、無の世界には何も起こり得ない。混沌とした闇の深淵であるならば永遠に何も起こり得ない混沌とした闇の深淵である。偶然はありえない!全てが必然である!神の霊が水の上を動いていた。と聖書は言っている。
静寂な水面にポンと刺激を与えると輪を書くように波が幾重にも幾重にも広がって行く・・・・
“有る神”は最初の揺らぎを与えた。光よあれと!その揺らぎが連鎖を生み天地創造へ次から次へ物が創造され人が造られた。
ならば、天地創造の神が一つならばその真理も一つである。
ですから、宮沢賢治もきっと私たちと同じものを見ていたのだろう。
仏教もイスラムもヒンズーも宗教を越えた真理は一つであると思う。一つから生まれた兄弟姉妹であるのだから。
宗教を越え一つの真理に集まった時、
天に地にキリストの再臨のラッパが高らかに響きわたるだろう!
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円空の世界
アニミズム・万物に霊が宿ると信じる信仰がある。人間のもつ素朴な信仰である。あの万葉人もネイティブ・アメリカンもアミニズム的感性をもっていたと思う。自然を愛し自然に対して常に畏敬の念をもっていた。
さては、あの日本中に数知れず、円空仏として民衆の生活の中に残していった円空。
何も飾らぬ一刀のもとに彫りあげた仏の像。 木の中に宿っている霊、魂を無心の心で引き出していった円空の仏像は言い知れぬ優しさと慈愛すら感じさせてくれます。一つのアミニズムなのかも知れない。ほほ笑みかける円空仏!
円空は何をみていたのだろう・・・・。
元々は素朴な神と人との結びつきから始まり、そこから人が作り出した宗教は教理だの教義だのと理屈を付け権力と結びついて、虐げられた庶民とはかけ離れたところで発展をとげていった。
円空の仏たちは、神々しく祭り上げられた仏たちとは違い、虐げられた庶民の生活の中で時には抱きかかえられ、肌と肌の触れ合いの中で生き生きとした信仰をもたらせていた。今でも各地に庶民の生活に結びついたお祭りが残されています。
余分な一刀を省き、必要かつ単純な荒削りの彫刻の中に生き生きとした魂が溢れ出て来るその素晴らしさに驚嘆させられる。
ほほ笑みを浮かべた円空仏を彫るにはどのようにしたら彫れるのですか?
の質問に、仏師は「あたしはまだ彫る事は出来ませんが、それは只々無心になる事です、幼子のように。木を彫ると言う事も考えてはいけません。それこそが木に宿る霊、魂を引き出す事だと思います」。
『幼子のこころを持ちなさい』
イエス様の御心を思い浮かべた!歴史的に見ても、宗教は一人歩きして、権力と結びついて神の御心からかけ離れてしまい、いつの世も貧しき人、弱き人たちは置き去りにされてしまう。
マルチン・ルターの宗教改革はその腐り切った、神の御心から離れてしまった宗教をキリストに立ち返えさせる為のものであり、
聖書の御言葉、御心に立ち返らせ、そして特権階級のものであった聖書を庶民に普及させるものでもあった。
そんな事を考えていると、円空のこころの世界が少し分かったような気がしてくる。
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