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復活祭
ヨハネ20章1〜17
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』
イエスさまはこの御言葉の通り、死の中から初穂としてよみがえり、私たち罪深きものを天の御国へと導かれる
恵みにあずからせて下さいました。
十字架はいうまでもなく残酷な刑でした。木に吊るされた者は呪われた者と言われていました。
イエスさまは自らの身をその汚れの中に投じて、すべてのものに打ち勝って神の栄光を示されたのです。
今、私たちが跪き仰ぎ見る十字架はイエス・キリストの栄光の証しなのです。
さてさて・・・・。いつの世にも恐れを知らぬ、再臨主と名乗る、この聖なる神の栄光を汚す者が現れてきます。
気が狂っているとしか思えない哀れな者達です。
イエスさまは言われます『子どもたちのような純粋無垢な信じるこころを持つ者でなければ天の御国には、入れません。』と・・・・・・・。イエスさまのもっとも愛する者たちです。
でも、こういう不遜の輩たちの餌食になってしまうのは、純粋なこころをもった人達なのです。何も疑うことなしに信じてしまうからです。
聖書の中にこんなことが書かれています。
『しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。』
このような神の栄光を汚す者のマインドコントロールから抜け出られなく苦しんでいる人たちのいることを忘れてはなりません。
このよき日に、このような記事を載せなければならないことは残念ですけれど、このような不遜な輩と闘っている牧師がいることを覚えてください。中川牧師にエールを送ります!
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洗足の木曜日
ヨハネ13章
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。 13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を 洗ってくださるのですか。」 13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようにな ります。」 13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたし が洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」 13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたが たはきよいのですが、みながそうではありません。」 13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。 13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたが たに何をしたか、わかりますか。 13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような 者だからです。 13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに 足を洗い合うべきです。 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したので す。 イエスさまは席を立たれて弟子たちの前に跪いて、弟子一人一人の足を洗い始めました。
当時はサンダルのような履物ですから、外から帰ると足がすごく汚れてしまいます。水桶が用意されていて、下部や召使などが足を洗ってくれました。イエスさまは自らそれを弟子たちに示されたのでした。
足の裏は人間にとって一番低いところであり、一番酷使されているところでもあります。イエスさまはバブテスマを受けた体は清くても、足は何時も何処でも汚れに晒されている箇所なのでその足を清めて下さいました。
清め癒してくれたのです。
これは、何時でも人の前では下部のように、そして、一番低い者、小さき者の為に仕えなさいと自らの手本を示されたのです。 謙遜の姿を弟子たちに「あなた達もこのようにしなさい」と教え導かれたのです。
洗足の木曜日
謙遜の姿を弟子たちに示されたイエス様
常に、低き者、弱き者、小さき者に
目を向けられているイエス様の愛に
感謝しましょう。
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棕櫚の日曜日
エルサレム入城マタイ21章16節(エルサレム入城)では、子供だちはその純粋な目でイエスの真実にふれ、「ダビデの子にホサナ」と叫びつづけていた。
この場面で律法学者たちはイエスに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」と詰問するところがある。
これに対してイエスは「聞いています、“あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された”と書いてあるのをあなたがたは読まなかったのですか。」と答えた。
この答は詩篇8章の“あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって力を打ち建てられました。」の引照句であります。
ダビデはこの詩篇8章で人間実存への根源である天地創造、つまり創世記1章を語ろうとしました。
このテーマは“私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。”・・御名は全地にわたり・・つまり地において主の御名を讃美することが主題であります。
それは神学者や哲学者や祭司などによらず(人の知恵など神の前では、とるにたらぬもの)、「小さきもの」幼児や乳飲み子の口による賛美は、この世の最大の神の敵も、その前に敗退する。
幼子のように純粋で無心をもって神を讃美する信仰こそが最大の力であります。
つまり、天の上にある神の栄光は「父なる神」によりベツレヘムのうまぶねで生まれ受肉し人の子としてこの地上に降りてこられたイエスさまの栄光を「わが主よ!わが父!」と純粋、無心な幼子の心をもって信仰し賛美することであります。
「信仰の大盾をもて」と聖書に書いてあるとおり、幼子のような純粋、無心な神への信仰が、この世の最大の神の敵、サタンもその前に打ち負かされる。
わかりますか?わたしたちは神学がどうの知識がどうのと知恵をふりかざしている人がいますが、そんなことではなく幼子のような信仰を目指しましょう。
それから、エルサレム入城で見逃せない事がもうひとつあります。
それは、ゼカリア9章9節の、預言者ゼカリア預言通り、
『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに』
雌ろばの子の子ろばに乗っての入城は、凛として颯爽と馬に跨って入城するその王なる王の姿ではなく、人の下部として働かされる“ろば”、それも雌ろば、それよりもさらに低い“子ろば”での入城は謙遜の象徴でもあった。
その御姿は、権力や権威をかざす王ではなく、よわき者、小さきものに仕える王としての在り方を身をもって現されました。
あのベツレヘムのうまぶねに人の子として受肉し、貧しき者、小さき者と生まれた神の子がこのエルサレム入城、そして十字架の贖いのイエス様の愛へと、常に低きところから愛の手をさしのべてくれる神の愛の偉大さを感じ感謝せざるを得ません!
受難への道を歩まれる「主のうしろ姿」を思い、イザヤ書53章を読みながら、常に、罪深き私たちと苦しみを共にして下さる神の愛に感謝しましょう。
アーメン!
イザヤ書53章
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが 私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たち のすべての咎を彼に負わせた。 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の 前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの 民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きは なかったが。 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけ にえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって 多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分の いのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむ いた人たちのためにとりなしをする。 |
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ウェストミンスター寺院
地下室に次のような碑文が刻まれた英国国教会主教の墓がある。
“何の束縛もない若かりし頃、想像は果てしなく広がり、私は世界を変えることをゆめみていた。
ところが、年を重ね賢くなり、 世界は変わらないことに気づいた。 そこで、目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から始めることにした。
だが自分の国も変わらなかった。
老年期に入り、 私の願いは悲痛な思いに変わった。 自分の国もだめなら、 少なくとも、 最も近くにいる家族を変えることにした。
だが、悲しいことに、 これすらままならなかった。
今、私は死の床についている。 なんと、今になって初めてわかったのだ。 変えなければいけないのは、 自分自身だったのだと。 自分が変われば、家族もかわっただろう。
そして家族に励まされて支えられることで、国をよくすることもできただろうし、やがては世界を変えることすらできたかもしれなかったのだ。”
パウロの言葉に(ピリピ2章3節)
「何事も自己中心の虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりのすぐれた者と思いなさい」
ある日こんな体験をしました。
今年新一年生になったばかりの、舞喜が保育園の頃、あかちゃん言葉が抜けなくて時々何を言っているのか分からない時があったので、小学校に入る前に言葉の発音を訓練する施設に入れることとなり子供を連れて通ったことがありました。小さな子供ですから訓練と言っても遊びながらの決して強要せず、飽きさせずの、むしろ大人相手より数段大変な根気のいる仕事でした。
30分の訓練というか発音の練習とあとの30分は子供と先生がゲームをしたり、ボール投げをしたり、
色々相手をして遊んでくれました。 舞喜は毎週そこへ行くのが楽しみだったみたいです。
先生と話す機会があり、その話しの中でこうおっしゃっていました。
「最初の頃は失敗ばかりでした。話をしようと思っても子供は自分の思うままで、こっちの話を聞かないし関心を示さないで好き勝手に遊び回るし、なかなか思うようにはさせてくれませんでした。どうしたら良いのか頭を抱える毎日でした。児童心理学も学校で学んだことなど一切役に立たなかった。
悩んだあげく、はっと気がついた、今までの自分は自分の考え、思いを相手に押し付けようとしているのではないか、自分から変わっていかなければいけないことに気がついた。それまでは、挫折、挫折の繰り返しでした。」と、もう若くはない初老の顔を優しくほほ笑みながら話して下さいました。
変えなければならないのは自分であると・・・・・・・
人の善・悪は人と人との相対性でなりたっているが、絶対的なものではない。
絶対性は神の前で初めて示されるものであって、人は自分の思考を絶対視して自分の価値基準を他に押し付けてはいけない。
そこでパウロは『何事も自己中心の虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思いなさい』と自分から変えることの重要性を説く。
ある伝道師の方がとても難しい言葉をならべたてて神を語っていた。
私はあなたの言っていることはあまり難し過ぎて良く分かりませんと言ったら、その人は「ああ!分からないのは当然です。分からなくても良いのです。私は大学で00哲学を学んでいましたから、私の言うことは難しく感じるのです、よく同じことを質問されます。」と答えた。呆れ果てた。この人本当に伝道しようと思っているのか?
その人がある教会でメッセージをした。あとの交わりの時にあからさまな質問を受けた時、プライドを傷つけられたのか、これまた、その教会の人たちに対して怒り、罵ったということを聞きました。
正に『愚者の心は言葉に宿り、 賢者の言葉は心に宿る。』です。
サン・ダミアーノ教会
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百万分の一の命
私の友人がメキシコを訪れた時の話しです。 夕暮れ時、人影のとだえた海岸を歩いていると、遠くの方に誰かが立っているのに気がつきました。 近づいてみると、メキシコ人の男が何かを拾っては海に投げ入れているのです。
さらに近づくと、それはヒトデでした。 男は、引き潮で波打ち際に残されてしまったヒトデを、一つ一つ拾い上げては海に投げ入れていたのです。 どうしてそんなことをしているのだろうと不思議に思った友人は、男に話しかけました。
「やあ、こんばんは。 さっきから気になっているんだけど、何をしているか聞いてもいいかね?」
「ヒトデを海に帰してやっているのさ。 見ろよ、たくさんのヒトデが波で打ち上げられて、砂浜に残されてしまっているだろう。 おれがこうやって海に投げてやらなかったら、このまま干からびて死んじまうよ」
「そりゃあ、もっともな話だが、この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。 それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな!?それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。 君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けたって、何にもならないと思うがな」
これを聞いた男は白い歯を見せてニッと笑うと、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾いあげ、海に
投げ入れました。
「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」
そう言うと、また一つヒトデを拾い上げ,海に向かってなげ入れたのでした。
そうです!ほんの小さな小さな物語です。
友人は言いました。「この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。 それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな!?それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。 君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けたって、何にもならないと思うがな」
そうだよね!誰もがそう思ってしまうよね。
でも、この男は、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾いあげ、海に投げ入れました。
「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」
『いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでる』・・・・・・・・この心だよね!たとえ百万の命を助けられなくても
心から喜んでくれる一つの命があることの大切さ! 私たちはついつい諦めてしまう寂しいよね!
イエスさまはこう言われている 『YUO DID IT TO MI』と。 どんな小さなものにも手を差し伸べることは、私にしたことだと。 イエスさまの愛はこのような小さな一歩から始められるのです。忘れ去られた、隠された小さなものに目を向けられている、イエスさまの愛がそこにあるんだね!
東日本大震災で多くの人々が尊い命を亡くされ、住んでいた家も愛する家族も一瞬のうちに奪い取られて寒さと寂しさの中で悲しんでおられる被災者の方々そして、幼い子供達。胸が痛みます。 私は正直思った、神は居るのか! 創世記18章20節〜19章を何度も読み返していました。神は低地に立ち止まらず山へ逃げろと言います。
大津波と硫黄の火の雨こそ違うが、私には理解が出来なかった。 こんな不信仰な私よりも、神を愛し、信仰深い人達も大勢いたと思う、教会もみんな全て消滅してしまった。
大震災以来初めて、教会へ行って礼拝を受けた。
エステル記4章14節からのメッセージでした。 『この時の為にこそ』
心に残ったのは『今知らずとも、後に知るべし』の御言葉でした。
今何でこんなことが起こってしまうのか嘆き苦しみその理解に苦しんでも、必ずあとにその意義の理解できる時が来る。
人は苦しい過去、忌まわしい過去を変えることは出来ないが、キリストの福音に出会うことで全ての過去の忌まわしい評価をバラ色の評価に変えられる。
この時の為にこそ、過去の価値が表される。私たちの人生を導かれてるイエスさまの愛を感じることができるのです。
今、地獄の苦しみの中にいる被災者の方々、『今知らずとも、後に知るべし』・・・・・強く生きてください祈っております。
千葉で「らーめん三軒屋」のチェーン店を経営している息子が、気仙沼へらーめんを持って行って被災者の方々へ温かいらーめんを食べて頂きたくボランティア活動をさせてもらったそうです。
親である私には何の知らせも無く、私の会社の同僚からテレビで息子さん出てたと聞いて初めて知りました。
誰にも知らせず行ったことが、私にとってとても嬉しかった。
寒くて、おにぎり一つの配給の中、温かい一杯のらーめんはどんなに喜ばれたことだろう、それを思うと嬉しくて涙が出てきました。心の中で息子に「ありがとう」て言いました。
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