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のぞみ教会の餅つき大会
創世記32章22〜32
「格闘に象徴される真摯な祈り」のテーマで御言葉が語られました。
神と格闘したヤコブは神が「夜があけるから、わたしを去らしてくれ」と言うのを「わたしはあなたを去らせません
わたしを祝福してくださらなければ」と言い返します。
ヤコブと神さまとの外連のない関係と言うのか、対峙に素晴らしさを感じさせられる。
神はヤコブに「イスラエル」神の支配する人という名を与えて祝福する。
私たちは時にはヤコブのような神と対峙する真摯な祈りをもつ事が大切な様な気がします。
マタイ 7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます 礼拝のあとは餅つき大会でした。
一晩水に浸けておいた、もち米を蒸し釜で蒸して、蒸しあげたもち米を臼に移して餅つき大会の始まりです!
私は食べる方に徹していました。
つき上がった餅は きな粉餅 あんこ餅 なっとう餅 おろし餅に分けられ、それと、とても美味しい具沢山の御雑煮が振る舞われ,青空の下でとても楽しい一時を持つことが出来ました。
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(ベルナールの絵画 マリヤとマルタ)
『トーマス神父とその仲間たち』
トーマス神父 「ああでもない、こうでもない。心はウロウロ。
遂に己を失ってイチジクの葉陰にオロオロするエワの子等に、神は聞かれる。
「お前は、何処にいるのか(存在)」と。自分自身であることを止めて、お前は何処に行ってしまったのか。
神は、「何をしたか。(行為)」と過ぎ去ったことの詮索はされない。
「どのくらい儲けたのか。(所有)」とも調べられない。
「どれ程立派な人になったか。」をも、云々されないであろう。
神は、おまえが、おまえ以外のものであることを求めはしない。
存在そのものであられる神を離れる時、人は自分の存在を失う。
その不安は、自分以外のものを求めてさまようが、繁栄も成功も、これを解消することなく、
かえって、欲望と不安を増加させるばかりである。
神無しには、楽しみも虚しく、苦しみも損失でしかない。
『お前は、どこに在るのか』 創世記3:9
一番大切なことは、今、神の前に在ること。どれ位しっかりと、今いる自分であるか。
神の在られるところに、しっかりと、忠実に居る時、そこに楽園がある。」 存在について問う神 私の友達の「実の木さん」のブログに前記の記事が載せられていました。
そんなブログの内容が私の頭の中を思い巡っていた時、
先日の私の新しい教会「のぞみ教会」の礼拝メッセージはルカ10章38〜42でした。不思議な事に私が思い巡らしていると、必ず神さまは私にきちっと答えを出してくれるのです。
松沢さんの時もよくありました。礼拝の前に牧師室で話をしていると、彼が「それ!今日メッセージで語ろうとしていたんだ。」と言われたことも何回かあり不思議に思っていました。
のぞみ教会
ルカ10章38〜42
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 シオンの丘の上にあるエルサレムそのすぐ東にあるベタニヤの町に住んでいるマルタとマリヤとラザロの家庭をイエス様は愛されていた。イエス様にとっては安らぎの場所でもあった。
『マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』とイエス様に問いただす。
イエス様は『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。』と言われた。
それは多くの事を思い煩うことの象徴で、ああでもない、こうでもないと思い煩う
多くの事に、思い煩っているが、思い煩わなければならない事は一つしかない。それは神との関係を確りと持つ事である。神の前に確りと立つことである。
イエス様はマルタにこう言う。『どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません』
神の前に立つこと。
悩まなくてはならないものは、ひとつだけ、それは魂の問題であること。
神の前に立つと、おのずから自分自身が見えてくる。
見失っている己をとりもどすことが出来てくる。
創世記3章9節
『3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』
これは神がアダムに反省を求める言葉である。神とアダムの立ち位置を問い正す。
創世記3章22節
『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。』
われわれと言う言葉は、畏敬の複数と言われる。
神は自分自身に向き合える属性をもっている。
その神に似せられて造られた人間は、自分自身を客観的に見られる姿、自己と向かい会える姿、つまり反省をすることの出来る、神の属性をもっているから、神の言葉に照らされる時、清い光に照らされた時、自分自身がみえてくる。素直になれて、悔い改め神との正しい関係が示されるのである。
高橋牧師のメッセージより
存在そのものであられる神を離れる時、人は自分の存在を失う。
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私の守護神は不動明王だと言われていました。不動明王をお参りするときは『ノマクサンマンダーザバラダンセダーマカロシャダーソヤタヤウンタラターカンマン』と経を唱えたものでした。
般若心経を唱え、尺八を吹きながら霊場を巡礼したこともありました。
不動明王は大日如来の化身だと言われます。
不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。またその忿怒の形相は周りの危険をも顧みず我子を救おうとしている必死の形相とも言われる。まさにその忿怒の形相に秘められた我が子を思う慈しみの心の溢れた姿であるといわれています。
その必死の不動明王を守るためその東西南北を守っているのが、東を守る持国天、西を守る広目天、南を守る増長天、北を守る多聞天。所謂四天王である。
空海の開いた真言密教は密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という三つの姿で現れるとする。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。そして不動明王にしめされた「教令輪身」である。
如来は色々なものに姿を変え煩悩を抱えた衆生を救いに顕れると言われている。
空海が唐の長安で修行をしていた時、その当時長安では『景教』が隆盛を極めていた。景教とはネストリオス派キリスト教の中国での呼び名であって、十二使の一人トマスの教えの影響を受けた宗教と言われている。
三位一体は三輪身に・・・・。
釈迦が修業の末、悟りを開くために菩提樹の下に座した時、世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せたところ、釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに超力で降伏したと伝えられる。
これも正に、荒野の中でサタンと対峙しサタンを退けたキリストの姿である。
空海の教えの中に巡礼行者の『同行二人』といわれるものがある。『同行二人』とはいつでも弘法大師様と共にある。
それはキリスト教のイエスさまと共にある教えと一緒で、空海の真言密教の中にも『法然』『親鸞』と同じ様な
キリストの姿が見える。
ゆえに、『あらゆる宗教を越えた全ての上にイエス・キリストの真理は輝いている!』のである。
わたしはいつも思っている事がある。
それはキリストの強さである。強いがゆえに弱くなれるのである。
十字架のうえのキリストの姿、ボロボロに打ちひしがれたその弱い姿こそ、強き者があえてその姿を私たちの為に、さらけだしてくれているほど私たちにとって辛いものはない!
キリストの慈愛にあふれたその姿の中に大切なものを守ろうとする忿怒の姿がある。
釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに超力で降伏したと伝えられる。その時の釈迦の内にも不動明王の忿怒の姿があった。
クリスチャン・スマイル、私は大嫌いだ!
私の心の中に大きな傷がある。信頼していた友に尽く裏切られた傷がある。大きな罪を犯し5年・正しく言えば6年の実刑を受けて刑務所に入り、その辛い刑務所生活の中から送られて来た彼の懺悔とも言われる神さまにすがる内容の手紙の数々。その手紙を読むたんびに大きな恵みを分かち合える喜びにしたっていた。6年間、早く彼にあって神さまの恵みを彼と分かち合いたいと期待をふくらまし、待ちに待った彼の出所を彼の身柄引き受け人として迎えに行った・・・・・・。
でも僅か一・二カ月の短い歳月の中で尽く裏切られた。何も変わっていなかった、あんなに素晴らしい手紙を書いて来たのに人間の本質は現実の世の中においては簡単には変えられないことが分かった。以前わからなかった彼の本質を知らされた事の方が私のこころに深い傷を負わされた。神を愚弄している事の怒りを感じている。それでも神は許せというのか!今の私にはそれは出来ない!成増教会にも行けなくなってしまった。
先日教会役員から一つの連絡を受けた。教会に行ってない私に「松沢さんと共に亡くなったSさんの旦那が12月26日の礼拝でギターの演奏を特別賛美でします」との事だった。私は「彼は全て許せたのですか?」「ウン・・・・・」口を濁して役員の人は「苦しみの中を乗り越えて、私たちの教会へ来てくれて賛美してくれることは、この上ない恵みです!」と喜んでいた。私は何故かあまり嬉しくなかった。何故だか素直に喜べなかった。ただ被害者の夫として周りから同情を受け、方外は慰謝料をふっかけ、傷ついていた松沢さんの病弱なお母さんにまで
過酷な鞭を振り下ろした人を簡単には信じることが出来なかった。
過酷な苦しみを通して、寛容な信仰を持って神の前で賛美する素晴らしい信仰者として成増教会の人々から称賛の拍手を受けるのだろう。そう思うと何故か心から喜べなかった。
何に置いても恵みだ!恵みだ!感謝!感謝!と喜び合うクリスチャン。
キリストにも忿怒の姿がある!
釈尊にも忿怒の姿がある!
大切なものを守ろうと必死の姿が有る。大切なもの救おうとする必死の姿がある!何事にも揺るがない不動の強さを秘めている忿怒の形相がある。
愛は寛容だとキリストは教える。寛容とは強さである。何事にも揺らぐことのない不動の強さである。
十字架のキリストほど強い者はいない!大切なものを守ろうとする、大切なものを救おうとする不動の強さが、キリストから溢れ出いる!忿怒の形相の内に慈愛に溢れた不動の愛が秘められている。
私はこの狼の写真が大好きだ。
狼はネイティブ・アメリカンの中では智慧の象徴として崇められている。
賢く、家族愛の豊かな動物で家族を守る為には死に者狂いで立ち向かう勇気の象徴でもある。
大切なものを守るために、この鋭い眼光とむき出した牙
まさに忿怒の形相である、この裏に大切なものを救おうとする溢れ出る慈愛を感じさせる。
クリスチャンよ!
大切なものを守るため怒れよ!
忿怒の形相を持てよ!
大切なものとはキリストの愛だよ! |
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祈り
http://www.aritearu.com/pic/pinkball.gifキリストを愛するとは、すべてを愛することである。彼とともにすべてを愛するのでなければ、イエス・
キリストを愛しているとは言えない。私たちはブッダを愛する。この人の誠実さはキリスト教的だから。
マホメットもまたしかり。いのちと愛の足跡を見いだすところなら、どこにおいても人は安らぎを感じる
であろう。なぜなら、そこで神に出会うからだ。
http://www.aritearu.com/pic/pinkball.gif全宇宙、全歴史、全人類を網羅した供え物を携える私たちを受け入れてくださるキリストの広大な
次元の中に入りましょう。すべての被造物に代わって、神が愛であり、神が三位一体であり、神が
貧しさであり、神が自由であることへの感謝をささげましょう。まさに、神のうちに私たちは自分自身
に到達し、あの洗足のときイエスが教えられた感嘆すべき秘密を知ることができるのです。すなわ
ち、偉大さとは人の上に立つことにあるのではなく、偉大さとは自分を与えること、それも、より多く
与えることであって、神が無限に偉大であるのは、まさに、神が私たちの足を洗うために、永遠に
被造物の前にひざまずいていてご自身を与えておられるからなのです。
http://www.aritearu.com/pic/pinkball.gif最初のアメリカ人(インディアン)は沈黙を深く信じていた。沈黙は完全な平衡のあかしである から。沈黙とは、体と精神と魂が完璧な釣りあいをとっていることである。
自己を保っている人は、葉の一枚たりとも動かぬ木のように、小波ひとつ立たない輝く池のよ うに、つねに静かで、実存のあらしに揺すぶられることがない。無学な賢者の考えによれば、
もしあなたがその人に「沈黙とは何か」と尋ねるならば、その人は、「沈黙とは大いなる神秘!」 「聖なる沈黙はそのお方の声!」と答えるであろう。
もしあなたが「沈黙のもたらすものは」と問うならば、その人は、「自己抑制、真の勇気、堅忍不 抜、尊厳、そして崇高。沈黙は人格にとって隅の親石である。」というであろう。・・・・・・・
「生命の織物」 女子パウロ会より引用
荒野の狼の遠吠え
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祈り
Native American おお、大いなる精霊よ、その声を、私は風の中に聞き、
その息吹は、この世界のすべてにいのちを与える、
大いなる精霊よ、私の祈りをおきき下さい。
私はあなたのまえに一人の人間として、あなたの多くの子供たちの一人として立っています。
私は小さく弱い。私にはあなたの強さと知恵が必要です。
どうか私を美の中にあゆましめ、赤々と焼ける夕空をいつまでも見守らせてください。
私の手が、あなたの創ったすべてのものを大切にし、
私の耳が、あなたの声をききもらさぬようにさせて下さい。
あなたが私たちにお教えになったことども、
一枚の木の葉、一つの岩の下にもあなたがそっとひめた教訓の数々を知ることができるように、
私を賢明にして下さい。
おお、私の創造者よ、私は強くありたい。
私の仲間にうちかつためにではなく、
私の最大の敵、私自身とたたかうことができるように。
汚れのない手と、まっすぐなまなざしをもっていつでもあなたのみもとに行くことが出来るように、
やがて、私のいのちがあの夕焼けの空の色のように消えるとき、
私のたましいが、なんの恥じ入るところもなく、
あなたのみもとに行くことが出来るようにさせて下さい。
私は結婚する前にアッシジの聖フランシスコに導かれ、カトリックの洗礼を受けた。
その後、私はアメリカ・インディアンの精神に触れ、彼ら先住民族の方たちが如何
に「与え尽くし」に生きた民であるかを、創造主の教えを如何に忠実に守りぬいた
民であったかを感じるようになっていった。彼らが持つ崇高な精神文化を知れば
知るほど、そして2000年もの間、キリスト教が犯してきた人間・環境破壊を思うに
つれ、私が歩く道はいつしか彼ら先住民族の視点という灯台に導かれているのを
感じている。確かにキリスト教でもカトリックは第二バチカン公会議から、積極的に
異文化の中からも神の霊性を感じ取ろうとしている。しかし、今の私は、何故この
ことに気づくまでこれほどの長い歳月をかけなければならなかったという疑問が、
頭から離れないでいる。この2000年もの間に、どれだけ多くの方たちの魂を破壊
し、生命の糧を奪い取ってきたか。どれだけの血と涙が大地に吸い込まれてい
ったのだろうか。三位一体の互いを与え尽くす神の姿は失われ、教義の解釈に
よる分裂が延々と続けられてきた。常に七世代先の世界を考えて今を生きてき
た先住民族の方たちとは対照的に、キリスト教の世界観は創世記から終末まで
一直線に描かれており、未来の世界・人類に対しての責任など全く顧みられる
ことはなく、その責任と義務をすべて放棄してきた。勿論キリスト教の歴史の中に
おいて、アッシジの聖フランシスコに代表される聖なる輝きが幾つか輝いている
のも事実である。しかし、その聖なる輝きが先住民族の方たちの殆どすべてに
共有されていたことを私たちはどのように受けとめなければならないのであろう
か。聖書という文字を持たない彼らが、何万年も守り続けてきた現実をどのよ
うに理解したらいいのだろう。彼ら先住民族の方たちは万物を通して創造主の
息吹に触れていた。そしてそこにはいつも、喜びと感謝と祈りが横たわってい
る。万物の声を聴くこと、この深い沈黙のうちにしか聴けない声に導かれて、
彼ら先住民族の方たちは創造主の息吹に触れ合ったのである。文字によら
ないこの出会い、この出会いが彼らの魂にしっかりと刻みこまれていったので
ある。私は弱い人間である。まして真理を語る資格などないのだろう。ただ、
私はこの真の求道者達の言葉に耳を傾けたい。そして今でも心の片隅のど
こかに残る三位一体という互いを与え尽くす神への畏敬を抱くものとしてアメ
リカ・インディアンの精神をこの世から失うことだけは、絶対ゆるされてはなら
ない。一人一人が深い沈黙のうちに存在そのものと向き合う姿勢なくして、
どうして真理を語ることなど出来ようか。自分のまなこにフィルターをつける
ことこそ真理への冒涜であり、神への反逆である。たとえそのフィルターが
聖典と言われるれるものであっても、それが存在そのものの重みを覆い隠す
ものであり続けるならば、、その眼には決して聖なる輝きは映し出されること
はないだろう。この2000年もの間、キリスト教が徹底的に破壊してきた先住民
族の豊饒な精神文化とキリスト教の真髄が相交わり、聖なる輝きを放つ次元
が果たして存在するのか今のわたしには見えない。だが、その探求なくして
私の今歩むべき道はないと感じている。
1998.10/3
『シモーヌ・ヴェイユの言葉より』
私は、イエス・キリストを信じています!
でも、キリスト教と言う宗教の中にはイエスさまは居ない!
あらゆる宗教を越えた全ての上にイエス・キリストの真理は輝いている!
私はシモーヌ・ヴェイユの言葉に深い感銘を受けました。
私たちや、私たちを取り巻く環境は皆、自然の一部である。
すべてが命のつながりの中で生きていて、互いが互いを必要としている。
環境を大事にすることは、自分自身を大事にすることなのだ。
鷲やビーバーは、幾千年間同じ形で生をつないでいる。
七世代先の人々のことを考え、自分たちが受け継いだ生き方を子供たちに伝えよう。
滝の音や燃える火に心を傾けること。
幼い子供に話しかけること。
草木の生命に思いを馳せること。
それらは偉大な精霊と交わることである。
私たちを含めて、すべてが地球の住人なのだ。
空気、太陽、火、水、土 ------- すべては所有することができない。
偉大な精霊を、どうやって所有できるというのだろう。
火は、私たちが生きていくうえで欠かせないものである。
火は暖かさを与えてくれるだけでなく、生きる指針も与えてくれる。
火と対話しよう。
水や雨を大切にしよう。
水は私たちの考えを浄化してくれる。
雨は空気を浄化して、地の渇きをいやしてくれる。
私たちは水や雨なしでは生きられない。
地球にあるものは皆、それぞれ存在する意味と役割をもつ。
自然の音に耳を澄ませば、自然は私たちに色々なことを教えてくれる。
鳥の鳴き声に耳を澄ませば、自分の心がわかってくる。
魚の泳ぎに目を向ければ、自分自身の答えが見つかる。
花には生命を絶やさないようにするという役割がある。
花の美しさや色にもそれぞれの役割がある。
目標に向かう私たちに力を与えてくれ、未来への夢を広げてくれるのである。
目がないから見えないとは限らない。
耳がないから聞こえないとは限らない。
鳥、魚、花、木、すべてが私たちの話を聞いている。
彼らに向かって心を込めて話すこと。
寒い冬の日に、木々が話をするのが聞こえてくる。
私たちや、私たちの未来について話している。
いつでも木々を敬うこと。
木の枝がなければ花は咲かない。
木があってこそ森になり、その美しさも生まれるのだ。
なぜ木を倒したり、森を破壊したりするのだろう。
木は私たちに生命の息吹を与えてくれる。
鷲、鹿、ビーバー、すべてが自分たちの流儀で生きている。
それぞれがビジョンを持っている。
肝心なのは、他人をまねることなく自分自身のビジョンを持つことだ。
夢は私たちにストーリーを語り、ビジョンの源を与えてくれる。
私たちが得たビジョンは、また他の人の夢となる。
人々に良い夢を見せてあげることだ。
ひとりひとりの画家は夢をもっている。
一枚の絵には、何かが隠されている。
画家の語りかけに耳を傾け、自分たちと結びつきのある話を聞こう。
太鼓の音や人々の歌は、私たちの心臓の音だ。
私たちの心臓の音は、いつでも宇宙の鼓動を映している。
歌を歌いたくなくなったり、太鼓を打ちたくなくなれば、
誰も私たちの鼓動に耳を澄まさなくなるだろう。
知恵の種は、私たちの中心にある。
自分自身の中心に、汚れのない思考とよい水を与えること。
そうすれば、閉じた中心が開いてきて、知恵の実を結ぶことだろう。
私たちの未来は過去にある。
時は流れているのだから。
日々くりかえす行いこそが生活であり、文化を伝えることである。
年長者から知恵を学ばなければならない。
そして、それを実行しなければならない。
一日一日を生きていくことが、生きる目的なのだ。
日が暮れてしまったら生きる目的を失う、というわけではない。
年を重ねてから、幼いころのことや仲間のことを思い返す。
眼にも胸にも涙が浮かんでくる。
そんな時、人は幸せを感じ、その尊さを知る。
デニス・バンクスの言葉
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