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狂信主義は、賢明さでも知性でもないし、愛でもないのです。それは一種の熱病のようなものでもあるし、色つきレンズのようであって、わたしたちを近視眼にし、ついには視力さえも奪い取ってしまうのです。 狂信主義は、スポーツの世界にも政治の世界にも宗教の世界にもあります。宗教的狂信主義は深い悟りと確信からは生まれてきません。 狂信的な宗教には愛がないし、その反対に神経質なまでの傲慢があり、人を裁くのは自分たちの役割とさえ考えているのです。(中略) 一般的に言って、狂信的な人は自分に酔いしれ、言っていることと行動にくい違いがあり、むしろ本能的に行動し、無知なところがあります。 真の宗教には狂信主義的なところはなく、本当の愛があるのであって、それは誰からも強制されることのない人間の自由な心から出てくるのです。 “聖フランシスコ修道会司祭・小平正寿著ー「アシジからの伝言」より” マタイ 21章23から ユダヤの祭司長や長老たちが、イエス様に宗教に関する最高の権威を振りかざして、追求する処がある。彼らも一つの狂信主義者であったかも知れない。神を思う余りに、人間的権威と神の権威を何処かで履き違えてしまい。律法主義に奔り神を見失ってしまっていた。自分達の立場、人間的な権威の保守。律法による裁きの制圧。上からものを言う高慢さ。 イエス様のエルサレム入城では、ゼカリア9章9節の、預言者ゼカリア預言通り、 『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに』 雌ろばの子の子ろばに乗っての入城は、颯爽と馬に跨って入城するその王なる王の姿ではなく、人の下部として働かされる“ろば”、それよりもさらに低い“子ろば”での入城は謙遜の象徴でもあった。 イエス様はそれに依って謙遜を示されたのであったと考える。 宗教という名の下ではとかく、人間的権威、権力欲、それの保身に陥りやすい。純粋に神を見つめる目が知らず知らずの内に、わたしたちを近視眼にし、ついには視力さえも奪い取ってしまうのです。 狂信主義者は神を愛するあまりに陥り易い落とし穴と言っても良いかも知れない。神を愛している事実、狂信その自覚の無い事がいっそうの哀れさを誘う。 “GOD SPELL”神の言葉は宗教ではない! 俺達のもとへきて、そのように弱い俺達との愛の関係をもってくれる素敵なスピリット! 愛のRELATIONSHIP其の物なのです。 黒ずくめのバイカーファッション! これがクリスチャン?顔をしかめるクリスチャンも居る事でしょう。 バイクをこの上なく愛し、自然の中を風を求めて神を感じ。神との純粋なリレイション・シップを求めて走るハーレー野郎達が俺達です! |
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