荒野の狼

気張らずにありのままの自分でいよう。

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天使の唄

 
天使の唄
 
 
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もう、ずい分と昔になってしまった話しですけれど・・・・・。
 
知り合いの子で、生まれながらに心臓に小さな穴があいていて長くは生きられない運命を、背負って生まれてきた子がいました。
その子の父親はヤクザでした。
 
私の家には何故か多くのヤクザが出入りしていました。博打打ちあり、的屋あり・・・。 それならヤクザ事務所?そう思うでしょう。
父は巣鴨で開業していた、れっきとした歯医者でした。 どうしてそうなったのか詳しい事は分かりませんが、とにかく変わった医者でした。中学生の頃、親父と巣鴨の繁華街の飲屋にいくと、『先生!』[先生!』とヤクザが挨拶に来るしまつ。飲屋の女将さんが「なんの先生だか分からないわね!」とよく言っていました。
その子の父親は巣鴨では顔のきくヤクザでした。親父はSはヤクザになっているような奴ではないと、彼をヤクザの道から足を洗わせ堅気にもどらせたのです。それからは、地道にペンキ屋を営んで幸せな生活をしていましたが。優しくて子供好きなSさんに待望の男の子が生まれました。その喜びもつかの間!その子の心臓に小さな穴があいていたのです。
Sさんは親父に「俺の罪をこの子に背負わせてしまった!」と涙をながしていたのを思い出します。
 
専門医はこの子が大きくなって体力が付いた頃手術を考えましょうとのことでした。
親父はこの子の為に家が暗くなるのを心配していましたけれど、その心配も無く外目からは幸せな家庭に見えていました。それだけに、Sさん、奥さんは大変な苦労だったと思われました。
二つ上のお姉ちゃんはまだ小さいにもかかわらず、いつでも弟に寄り添い、騒ぐと弟の体にさわるので優しい思いやりをもって、遊んで上げていました。
 
その子は、幼いながらも自分の定めを感じていたのか、素直でダダこねる事もなく、とても優しい気持ちをもった静かな子で、それを見るたびにSさんは秘かに涙をながしていたのです。
 
ある日、奥さんがその子をおんぶして我家に来ました。、五歳にしては体も小さく唇は紫ぽい色をして普通の子とは
明らかに違うのを感じ、笑みを浮かべたその顔が切なく私の心に残っています。
 
その時お母さんが私たちに言いました。『この子ったら、バキューム・カーを見て「僕大きくなったら、バキューム・カーの運転手になりたい!」って言うんですよ』・・・・・・・・。
その頃の私を含めて子供達は、バキューム・カーがいるのを見ると「にげろー!」と息を殺して駆けだしたものです。
 
さて、その子も小学校に上がる歳になりました。お姉ちゃんは弟のことが心配で休み時間は弟の教室へ行って時間が空けば弟に寄り添っていました。
手術の話しが持ち上がって、Sさんは毎日のように、医者である親父と相談していました。なかなか決心がつかなかったようです。
手術をしなければ、命が持たないし、手術をしても成功する可能性も40パーセントどちらを選ぶか苦渋の選択でした。 親心として涙をのんだ苦渋の選択で手術を受ける事になったのです。
 
手術はその当時日本で心臓移植の一人者と言われた榊原先生の手で行われました。
当日、手術室に入っていくその子の顔は笑みを浮かべていたそうです。幼いなりに心配かけてはいけないように思ってなのか、今まで育ててくれた感謝の気持ちの、幼いなりの表われなのか・・・・・。
その子は、その笑みを残したままもう帰ることはありませんでした。
 
「バキューム・カーの運転手になりたい!」の言葉と笑みを残して。
 
でも、その子の周りには愛が、思いやりがいっぱい、いっぱい溢れていました。
その子はお姉ちゃん。お父さん。お母さんに大きな愛の恵みを与えてくれました。そして周りの人達にも。
 
        もっと生きたかったろうに・・・・・・
 


世の中には、「生まれてこなかったほうがいい」とか「はやく死にたい」とかいう者もいます。
そう言う人は、この話を「神はむごい」と言うのだろうな。


「聖フランシスコの小さき花」
完全な歓びは十字架の中に・・・・
「さて、兄弟レオよ、この話の結びを聞きなさい。キリストがご自分の友人たちにくださる、聖霊のすべての恵みや賜物にもましてすぐれているのは、キリストへの愛のため己じしん打ち勝ち、歓んで苦しみやののしり、辱めや不快などを耐え忍ぶことです。なぜなら、神からの他のすべての賜物は、それがわれわれのものではなく、神のものであるゆえ、わたしども自身の誇りにすることはできないからです。
ですから、使徒は、『あなたが持っているもので、いったい何をいただかなかったというのでしょうか。
いただいたのなら、なぜいただかなかったように誇るのですか』と言っているのです」。
「けれど、わたしどもは悩みや苦しみの十字架を誇ることはできます。なぜなら、これこそわれわれのものだからです。それゆえ、使徒は、『わたしには、われらの主イエス・キリストの十字架のほかに誇りとするものが断じてあってはなりません』と言っているのです。」
 
この個所は、フランシスコの霊性を顕著に表されているところだと思います。この精神なくして殉教もない。
フランシスコの凄さゆえです。私たちは十字架の中に生かされています。十字架を見上げると言う事は、イエスを愛すると言う事は、こう云う事なんだ!
 
軽はずみでものが言えなくなります。甘えぱなしの信仰です。
 
 
   キリストへの愛のため己じしん打ち勝ち、
        歓んで苦しみやののしり、辱めや不快などを
                          耐え忍ぶことです
 
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