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一粒の麦のたとえ
今年2年生になる義也が「おとうさん!友達に聞いたんだけれど、トウモロコシの実を植えるとトウモロコシが出来るの?」て聞いてきた。
私はそくざに「ああ!出来るよ!」と答えてしまった。 と言うのも私が小学生の時にトウモロコシの水栽培の観察を理科の時間でやった事があった。
なんで今まで覚えていたかと言うと、子供心にも悔しい思い出がありました。それは、観察の発表も終わり発芽したトウモロコシを庭のある子は家へ持ち帰り、自分の家の庭に植えていた。私の家は庭が無かったのでそれが出来なかったのです。
植えたこのトウモロコシは大きく成長して実がなるまでになったのを見て、出来なかった悔しい気持ちが今まで心の隅に忘れないであったようです。 やり残したことの一つだ!
「実験してみようかぁ〜」 義也は「うん!やろう、やろう!」とはしゃいでいました。
本当はスーパーでトウモロコシを買って、それでやりたかったのだけど、時期的なものか売って無くて、仕方が無いので100円ショップでトウモロコシの種を買ってきた。
平たいお皿の中にティッシュペイパーを敷き詰め水を浸み込ませて、その上に種を置いた。観察を開始した。
3週間頃から、すこし変化が表われてきた。 白い根が出てきた。
又1週間頃から、今度は緑色の新芽が表われてきた。発芽だ! すこし陽のあたる方へお皿を置いてあげた。
そして、この3連休は家族旅行で家を三日空けることになって、旅行から帰ってみると、義也が興奮した声で
「おとうさん!おとうさん!早く来て!葉っぱがこんなに大きくなっている!!」と叫んでいた。
「おお!すごい!天気が良くなったら庭に植えかえてあげよう。」
さあ、これから先は幼いころやれなかった事を子供達とやろう! 私の心もどこかはしゃいでいました。
こんな小さな処ににも、こんな感動があるんだ!
種を蒔けば芽が出る。当たり前だろう・・・。私達はどこかその様な冷めた目で物を見てはいないだろうか?
神様は私達人間に感動する感性を与えてくれた。 それは神様との対話の始まりでもある。
小さな命の力づよさ、生きている事の素晴らしさを神様はこんな小さな処までにも、私達に語りかけている。
なのに、私達は無感動、無感性でどこか冷めた心でものを見ている。子供たちを除いて・・・・。
私ははしゃぐ子供達を見て、この子らがもう少し成長してものを理解できるようになったら、「一粒の麦」のたとえ
話しを聞かせてあげよう。
命の受け継ぎ。 親は命の土台となって子を成長させる。親は子の命の糧となり我が子の土台となる。
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2010年03月25日
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