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(ベルナールの絵画 マリヤとマルタ)
『トーマス神父とその仲間たち』
トーマス神父 「ああでもない、こうでもない。心はウロウロ。
遂に己を失ってイチジクの葉陰にオロオロするエワの子等に、神は聞かれる。
「お前は、何処にいるのか(存在)」と。自分自身であることを止めて、お前は何処に行ってしまったのか。
神は、「何をしたか。(行為)」と過ぎ去ったことの詮索はされない。
「どのくらい儲けたのか。(所有)」とも調べられない。
「どれ程立派な人になったか。」をも、云々されないであろう。
神は、おまえが、おまえ以外のものであることを求めはしない。
存在そのものであられる神を離れる時、人は自分の存在を失う。
その不安は、自分以外のものを求めてさまようが、繁栄も成功も、これを解消することなく、
かえって、欲望と不安を増加させるばかりである。
神無しには、楽しみも虚しく、苦しみも損失でしかない。
『お前は、どこに在るのか』 創世記3:9
一番大切なことは、今、神の前に在ること。どれ位しっかりと、今いる自分であるか。
神の在られるところに、しっかりと、忠実に居る時、そこに楽園がある。」 存在について問う神 私の友達の「実の木さん」のブログに前記の記事が載せられていました。
そんなブログの内容が私の頭の中を思い巡っていた時、
先日の私の新しい教会「のぞみ教会」の礼拝メッセージはルカ10章38〜42でした。不思議な事に私が思い巡らしていると、必ず神さまは私にきちっと答えを出してくれるのです。
松沢さんの時もよくありました。礼拝の前に牧師室で話をしていると、彼が「それ!今日メッセージで語ろうとしていたんだ。」と言われたことも何回かあり不思議に思っていました。
のぞみ教会
ルカ10章38〜42
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 シオンの丘の上にあるエルサレムそのすぐ東にあるベタニヤの町に住んでいるマルタとマリヤとラザロの家庭をイエス様は愛されていた。イエス様にとっては安らぎの場所でもあった。
『マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』とイエス様に問いただす。
イエス様は『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。』と言われた。
それは多くの事を思い煩うことの象徴で、ああでもない、こうでもないと思い煩う
多くの事に、思い煩っているが、思い煩わなければならない事は一つしかない。それは神との関係を確りと持つ事である。神の前に確りと立つことである。
イエス様はマルタにこう言う。『どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません』
神の前に立つこと。
悩まなくてはならないものは、ひとつだけ、それは魂の問題であること。
神の前に立つと、おのずから自分自身が見えてくる。
見失っている己をとりもどすことが出来てくる。
創世記3章9節
『3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』
これは神がアダムに反省を求める言葉である。神とアダムの立ち位置を問い正す。
創世記3章22節
『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。』
われわれと言う言葉は、畏敬の複数と言われる。
神は自分自身に向き合える属性をもっている。
その神に似せられて造られた人間は、自分自身を客観的に見られる姿、自己と向かい会える姿、つまり反省をすることの出来る、神の属性をもっているから、神の言葉に照らされる時、清い光に照らされた時、自分自身がみえてくる。素直になれて、悔い改め神との正しい関係が示されるのである。
高橋牧師のメッセージより
存在そのものであられる神を離れる時、人は自分の存在を失う。
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2011年02月17日
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