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百万分の一の命
私の友人がメキシコを訪れた時の話しです。 夕暮れ時、人影のとだえた海岸を歩いていると、遠くの方に誰かが立っているのに気がつきました。 近づいてみると、メキシコ人の男が何かを拾っては海に投げ入れているのです。
さらに近づくと、それはヒトデでした。 男は、引き潮で波打ち際に残されてしまったヒトデを、一つ一つ拾い上げては海に投げ入れていたのです。 どうしてそんなことをしているのだろうと不思議に思った友人は、男に話しかけました。
「やあ、こんばんは。 さっきから気になっているんだけど、何をしているか聞いてもいいかね?」
「ヒトデを海に帰してやっているのさ。 見ろよ、たくさんのヒトデが波で打ち上げられて、砂浜に残されてしまっているだろう。 おれがこうやって海に投げてやらなかったら、このまま干からびて死んじまうよ」
「そりゃあ、もっともな話だが、この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。 それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな!?それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。 君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けたって、何にもならないと思うがな」
これを聞いた男は白い歯を見せてニッと笑うと、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾いあげ、海に
投げ入れました。
「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」
そう言うと、また一つヒトデを拾い上げ,海に向かってなげ入れたのでした。
そうです!ほんの小さな小さな物語です。
友人は言いました。「この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。 それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな!?それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。 君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けたって、何にもならないと思うがな」
そうだよね!誰もがそう思ってしまうよね。
でも、この男は、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾いあげ、海に投げ入れました。
「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」
『いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでる』・・・・・・・・この心だよね!たとえ百万の命を助けられなくても
心から喜んでくれる一つの命があることの大切さ! 私たちはついつい諦めてしまう寂しいよね!
イエスさまはこう言われている 『YUO DID IT TO MI』と。 どんな小さなものにも手を差し伸べることは、私にしたことだと。 イエスさまの愛はこのような小さな一歩から始められるのです。忘れ去られた、隠された小さなものに目を向けられている、イエスさまの愛がそこにあるんだね!
東日本大震災で多くの人々が尊い命を亡くされ、住んでいた家も愛する家族も一瞬のうちに奪い取られて寒さと寂しさの中で悲しんでおられる被災者の方々そして、幼い子供達。胸が痛みます。 私は正直思った、神は居るのか! 創世記18章20節〜19章を何度も読み返していました。神は低地に立ち止まらず山へ逃げろと言います。
大津波と硫黄の火の雨こそ違うが、私には理解が出来なかった。 こんな不信仰な私よりも、神を愛し、信仰深い人達も大勢いたと思う、教会もみんな全て消滅してしまった。
大震災以来初めて、教会へ行って礼拝を受けた。
エステル記4章14節からのメッセージでした。 『この時の為にこそ』
心に残ったのは『今知らずとも、後に知るべし』の御言葉でした。
今何でこんなことが起こってしまうのか嘆き苦しみその理解に苦しんでも、必ずあとにその意義の理解できる時が来る。
人は苦しい過去、忌まわしい過去を変えることは出来ないが、キリストの福音に出会うことで全ての過去の忌まわしい評価をバラ色の評価に変えられる。
この時の為にこそ、過去の価値が表される。私たちの人生を導かれてるイエスさまの愛を感じることができるのです。
今、地獄の苦しみの中にいる被災者の方々、『今知らずとも、後に知るべし』・・・・・強く生きてください祈っております。
千葉で「らーめん三軒屋」のチェーン店を経営している息子が、気仙沼へらーめんを持って行って被災者の方々へ温かいらーめんを食べて頂きたくボランティア活動をさせてもらったそうです。
親である私には何の知らせも無く、私の会社の同僚からテレビで息子さん出てたと聞いて初めて知りました。
誰にも知らせず行ったことが、私にとってとても嬉しかった。
寒くて、おにぎり一つの配給の中、温かい一杯のらーめんはどんなに喜ばれたことだろう、それを思うと嬉しくて涙が出てきました。心の中で息子に「ありがとう」て言いました。
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