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つぶやき
ある者は、霊的なことや信心の業において、自分は非常に熱心で勤勉であると感じているので、 この得意感から・・・・聖なることは、本来、人をへりくだらせるのが本当であるが、彼らの不完全さ故に、たびたび隠れた傲慢の芽のようなものが吹き出してくる。その結果、彼らは自分の行為と自分自身にいくらか満足を覚えるようになる。
ここからは、また、いくらか空しい、時としては非常に空しいある種の欲望も生まれてくる。
それは、他人の前で霊的なことを話したい、また時には、これらのことを教えられるよりも他人に教えたい、という虚栄的な欲望であって、他人に自分の業を自慢し独断的におしつけてくる。
自分が行なっている業を自慢して神をほめ、取税人を軽蔑したパリサイ人に似ている。
彼らに対して、悪魔はしばしば、これらの業を、もっとたくさん行おうとする熱心や欲望をあおり立てる。
それは、彼らの傲慢やうぬぼれを、増大させるためである。悪魔は、彼らが行なうすべての業や徳は、彼らにとって何の価値もないばかりか、かえって彼らを悪徳に引きもどすものであることをよく知っているからである。
そして、彼らのうちのある者などは、自分以外の者がよく思われることを望まないほどの、ひどい状態になるのである。
それで、機会さえあれば、行ないとことばで他人を非難し誹謗する。
彼らは兄弟の目にある塵は見えるが、自分の目にある梁には気がつかない。
『 マタイ7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか』
教義・教論・・・釈義。うんざりだ!キリスト教をしているから、宗教をやっているからめんどくさくなる。
自分の業を押し付けたり、得意になったり、お互いに慰めあったり、うんざりだ!
服を脱げというのは、身につけている宗教の服を脱げという事だ、教義の服を脱げということだ!
鎧のようにガッチリ着こんだ教義の鎧を脱げと言っても無駄だろう!
上から目線、下から目線!何を言っているんだ!神の前では上から目線も下から目線もない!
「そこは聖なる場所、はきものを脱げ」と言われたのは、汚れの無い純粋無垢なこころをもって神の前に跪けと言うこと。神の前で謙遜・謙虚を教わる。
宗教の服を脱げということは、頭の中だけで分かってるつもりでいるキリストを捨てて、真実キリストとの交わりをもつことを意味する。
エキュメニカルも宗教の服を脱いで、すべての教義・教論をお互いに捨て去らなければ無理だ!
宗教を超えたところに真実キリストと出会える。
そこにキリストの愛と真実の福音がある!
ガラテア2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
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2011年10月11日
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