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真実の愛
メンデルスゾーン 無言歌よりないしょ話 メンデルスゾーンは、ドイツの生んだ有名な作曲家ですが、これは彼の祖父モーゼのお話です。 モーゼはお世辞にもハンサムとはいえない男でしたが、その上、背は低く背中には醜いこぶがありました。
そんな彼がまだ若い頃、ハンブルグのある商人のところへでかけていきました。 その商人には
フランティエという美しい娘がいて、モーゼは人目で恋に落ちてしまいました。 しかし、モーゼの醜い姿は
フランティエをおびえさせるだけでした。
町を去る日が近ずくと、モーゼはありったけの勇気をふりしぼり、フランティエの部屋へ続く階段に足をかけました。 これが、話しかける最後のチャンスです。
フランティエは、輝くような美しい姿で現れました。 でも、顔を上げてモーゼを見ようとしません。
モーゼは悲しみで胸をいっぱいにしながらも、なんとかフランティエに話しかけようと必死でした。
ついに、モーゼはおずおずと言いました。
「フランティエ、あなたは、結婚とは神様がお決めになると信じますか?」
「ええ」。 フランティエは床を見つめたまま答えました。 「あなたは信じているの?」
「もちろんです。天国では、男の子が生まれると、大人になった時、どの女の子と結婚するか神様がお決めになるのです。私が生まれた時もそうでした。でも、私と結婚する女の子は、背中にこぶを持っていると神様がおっしゃったのです。 それを聞いて、私は必死でお願いしました。
『女の子がそんな姿になるのは、あまりにも可哀そうです。どうか、私の背中にこぶをおつけください。その女の子を美しい姿にして下さい』と」
モーゼの言葉は、フランティエの心に何かを呼び覚ましたようです。 彼女ははじめて顔を上げ、やさしいまなざしでモーゼを見つめたのです。 そして彼の手をそっと両手で包みました。
フランティエはモーゼと結婚し、彼を末長く愛し続けました。
この物語はあのメンデルスゾーンの祖父の隠された逸話でしたが、 私も昔このような話を聞いたことがありました。 私は宮城真理子さんが大好きで彼女の本の中にあった言葉だと思います。
「もしこの世に神様が障害を持った子を預けなければならなかった時、この人なら預けても大丈夫。愛情をもって育ててくれると思う人を選んで預けて下さったのだ。」と・・・・。
「ねむの木学園」の園長先生として子どもたちを慈しみ愛情豊かに障害をもって生まれてきた子どもたちに「お母さん!」と慕われている宮城真理子さんに真実の愛を教わりました。
もう遠い昔の事になってしまいました。イエス様と出会うまえの事です。
もう一つの話は、両親が聾唖の障害をもっていて、ちいさな五才になる可愛い娘さんが健気に両親の耳となって助けながら親子三人で理容店を営んでいる家庭と,そこに優しい援助の手を差し伸べてくれている近所の人たち。
報道のインタビュウにその中の一人が言った言葉
「誰かが障害をもって生まれてくる運命をもっているのなら、私も障害をもって生まれてきたかもしれない、
○○さんは私の負うべき障害をもって生まれてきてくれた。だから手助けするのは当たり前の事です。」
と言った言葉が今も忘れないでいます。
何気なくこころに留めていたこれらの言葉が二十年近くたってキリストに触れた時
確かに、確かに重い言葉として私の心を刺し通していた。
真実の愛とは
何なんだろう!
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寂しい夜は・・・・・・
北風よ、起きよ。南風よ、吹け。
私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。
私の愛する方が庭に入り、
その最上の実を食べることができるように。
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つぶやき
ある者は、霊的なことや信心の業において、自分は非常に熱心で勤勉であると感じているので、 この得意感から・・・・聖なることは、本来、人をへりくだらせるのが本当であるが、彼らの不完全さ故に、たびたび隠れた傲慢の芽のようなものが吹き出してくる。その結果、彼らは自分の行為と自分自身にいくらか満足を覚えるようになる。
ここからは、また、いくらか空しい、時としては非常に空しいある種の欲望も生まれてくる。
それは、他人の前で霊的なことを話したい、また時には、これらのことを教えられるよりも他人に教えたい、という虚栄的な欲望であって、他人に自分の業を自慢し独断的におしつけてくる。
自分が行なっている業を自慢して神をほめ、取税人を軽蔑したパリサイ人に似ている。
彼らに対して、悪魔はしばしば、これらの業を、もっとたくさん行おうとする熱心や欲望をあおり立てる。
それは、彼らの傲慢やうぬぼれを、増大させるためである。悪魔は、彼らが行なうすべての業や徳は、彼らにとって何の価値もないばかりか、かえって彼らを悪徳に引きもどすものであることをよく知っているからである。
そして、彼らのうちのある者などは、自分以外の者がよく思われることを望まないほどの、ひどい状態になるのである。
それで、機会さえあれば、行ないとことばで他人を非難し誹謗する。
彼らは兄弟の目にある塵は見えるが、自分の目にある梁には気がつかない。
『 マタイ7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか』
教義・教論・・・釈義。うんざりだ!キリスト教をしているから、宗教をやっているからめんどくさくなる。
自分の業を押し付けたり、得意になったり、お互いに慰めあったり、うんざりだ!
服を脱げというのは、身につけている宗教の服を脱げという事だ、教義の服を脱げということだ!
鎧のようにガッチリ着こんだ教義の鎧を脱げと言っても無駄だろう!
上から目線、下から目線!何を言っているんだ!神の前では上から目線も下から目線もない!
「そこは聖なる場所、はきものを脱げ」と言われたのは、汚れの無い純粋無垢なこころをもって神の前に跪けと言うこと。神の前で謙遜・謙虚を教わる。
宗教の服を脱げということは、頭の中だけで分かってるつもりでいるキリストを捨てて、真実キリストとの交わりをもつことを意味する。
エキュメニカルも宗教の服を脱いで、すべての教義・教論をお互いに捨て去らなければ無理だ!
宗教を超えたところに真実キリストと出会える。
そこにキリストの愛と真実の福音がある!
ガラテア2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
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あどけない眼差し
今朝、女房を駅まで車で送る途中、住宅街の狭い一方通行の道で前の車に轢かれそうになった子猫を見つけました。車を降りて安全な路地の奥の方においてあげました。でも、ニャーニャーと自分の後を追いかけてくる姿を見ると、きっと親を探しているのだろうと思います。
近所の家の飼いネコだったらとか、捨て猫だったらとか、色々なことを考えてしまい、でも先を急いでいたので、後ろ髪を引かれる思いで車を走らせて女房を送って家に帰ってきました。けれど、心配でまたその場所まで行ってみました。もし、車に轢かれていたらどうしよう・・・・・・・。でもその場所には居なかったのでホッとしました。
良い方に考えようと思います。 もし、まだ居たのなら家で飼うつもりでいました。 人の子も、あらゆる動物の子も、皆同じあどけない眼差しをもって生まれてきます。
この眼差しを見ていると、寂しい心も悲しい心も何故か癒され、ほほ笑みさえ浮かんできます。
私たちの心は余りにも汚れきっている。
だからこの「あどけない眼差し」に触れた時、神さまが私たちが生まれた時にも与えてくれていた、純粋無垢な心を取り戻させてくれるのかなぁ・・・・・・・。
神さまは言う「幼子のようなこころを忘れるな」と・・・・
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