荒野の狼

気張らずにありのままの自分でいよう。

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魂の響き

 
 
 
 
 
 
 
 
          
           
    
           
       
            


読売新聞の「顔」というコラムに鼓童の第一人者である見留知弘氏の記事が載っていた。
見留知弘、私が彼と初めて会ったのは、もう三十五年も昔の話になってしまう。
 
当時私は、それも今から数えて五十年も前になってしまうのですけれど、東京には和太鼓の形すら無く、夏になると夏祭りの盆踊りで地元の頭連中がドドンガドンと太鼓を叩いているだけの粗末なものでした。
 
当時私は中学三年生でしたが、二人の兄貴分の先輩にやぐら太鼓を教わり、新しい音の研究と叩き方、を生みだしてバチを放りながら叩いたり、回しながら叩く技を作って、年あるごとに新手を編み出し今のやぐら太鼓の基礎を作っていったのです。
 
最初の頃は、私たちがやぐらの上で太鼓を叩くと皆が踊りを見ずに太鼓を見るのが楽しいと見に来る人が多くなり、土地の若い衆が太鼓を教えてくださいと頼みに来ることが多くなりその輪が広まって東京中に太鼓会が出来てきました。
 
今太鼓を叩いている音や技は私たちの考えたものだ!と言っても言い過ぎではありません。
 
太鼓の師匠であった私の兄貴分が小山流の津軽三味線の名手であったことから、「津軽じょんがら太鼓」を創ってくれとの要望で当時は誰もやっていなかった、大太鼓の三連打ちを考え出したのです。今ではどの太鼓会でもやっていますが、またそれと、太鼓だけでの演奏をどう名付けたらよいのか考えたすえに「組太鼓」と称して初めて演奏したのも私なのです。
 
その当時は、湯島の「助六太鼓」と私たちの『東京太鼓』ぐらいしかなく、北海道の「北海太鼓」ができたくらいで、佐渡の「鬼子座」それから別れた「鼓動」はまだ出来ていませんでした。
太鼓の指導の面でも少しの妥協も許さない性格上、皆から恐れられた存在であったかもしれません。
 
私が見留君に会ったには一線を外れて指導を後進にゆずっていた時でした。顧問としてたまに皆の指導に行った時に、後輩の会長から紹介されました。
まだ一年生になったばかりの、小さなかわいい坊やでした。太鼓を叩かせると小さな体でとても上手に打てていたことを思い出します。ご両親がとても熱心でありました。たしか荒川の小台に住んでいて、ペンキ屋さんであったと記憶しています。
 
そのあと、十数年して私も完全に「東京太鼓」から退いていましたが、林英哲のスタッフをやっている元弟子の子から見留くんが「鼓童」で太鼓を打っていることを知りました。
 
今や世界を代表する和太鼓の奏者に成長された見留君をどうしても、あの時の可愛い坊やの印象が強くて、
ついつい「見留君」と言ってしまうのは失礼なことなんだろうな。
 
『鼓童』の新代表ですか!
世界の『鼓童』ですから素晴らしいです。
見留氏の太鼓への第一歩が「東京太鼓」であったことを誇りに思います。
 
今まで苦しい時も多くあっでしょう、理屈では通らない世界です。
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 和太鼓の一本打ちの魅力は
         音の強弱と間と打ちての魂の
                         調和が無限の響きとなって
                                     表されることです。

 
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