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鎮魂
今日、3時頃一通のメールがとびこんできました。
『今朝松沢好子さん召されました 』 との知らせでした。
松沢さんの死後、松沢家では病弱なお母さんのもとでは養い切れず、好子さんの実家に近い療養施設で養生をしていましたが、脳腫瘍の後遺症が悪化し殆んど意識のない状態が続いていたようでした。その好子さんが召されたという知らせでした。
生前、松沢さんから、よく好子さんの健康な時の写真を見せてもらいましたが、とてもチャーミングな美しい人でした。
「え!この人が好子さん!」と思わず言ってしまったぐらい美しい人でした。
結婚に反対され、教会を飛び出して駆け落ちした松沢さんの気持ちが分かるような気がしました。、生活の苦しさに耐えながら、松沢さんは本のセールスをやったり、職を転々として苦労をしながらも、貧しさの内に幸せがあったと話してくれたのをしみじみ思いだします。
でも、その幸せは長くは続きませんでした。好子さんが脳腫瘍を患い、もう駄目かも知れないという手術が祈りの内に奇跡的に成功して命は取り留めましたが、好子さんは幼子のような変わり果てた人になって松沢さんの元に帰ってきたのでした。
ある時、松沢さんと好子さんを連れてカラオケに行った事がありました。そこで、「神田川」の曲が流れたら、好子さんの目から涙が流れていました。
それを見て松沢さんが「好子、昔を思い出しているんだね・・・・・・。好子はこの「神田川」を聞くと昔を思いだすんだ。」と私に話してくれました。
飛んでいる記憶の中からあの貧しくも幸せだった、短いささやかな幸せを思い出していたのでした。
その時の松沢さんの心境は如何に切なかっただろうか・・・・・・。 好子さんをそーっと抱きしめてあげたい衝動にかられたのを思い出します。
松沢さんは私に何時もこう言ってました。『好子は妻というより、妹のように愛しいんだ』と・・・・・・・。
松沢さん!好子さんは今朝神さまに召されて松沢さんの傍に行ったよ!
神さまはきっと、好子さんの一番輝いていた時の魂に戻して御国へ連れて行かれたと思う。
好子さん!松沢さん!あの短かった幸せな時を天国で取り戻してね!
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上杉鷹山にキリストの面影を見る
ある日、中川牧師,経由で一つのDVDが野の花さんから送られてきました。
観てほしい作品なのでどう思われたか感想が知りたいという事でした。
上杉鷹山・・・・高山右近なら分かるような気もするけれど?
少し困惑しながらも、とりあえず観て見ることにしました。
冒頭のシーンから思わず気を惹きつけられた思いで観入ってしまいました。
それは、幼少の鷹山が折衷学者・細井平州に教えを受けるシーンから始まります。
細井平州は幼少の鷹山に『学問とは世の為にならなくてはならない。朱子学は学問の学問になってしまっている。言葉の遊びになってはいけない。』と教え諭すところから始まるのです。
私は野の花さんに次の様なメールを送っています。
『最後まで涙が止まりませんでした。上杉鷹山、私は良くは知りませんでした。こんな人が日本の歴史の中に生きていたのを知って感動と嬉しさで一杯です。
DVDではありますけれど、物語は大切なことを教えてくれました。聖書を読んでいるような気持ちになって観ていました。上杉鷹山の中にキリストを観た思いが絶えません。
冒頭の学問とは何かを教わるシーンは物語のすべてを語りかけています。
『学問とは世の為にならなくてはならない。朱子学は学問の学問になってしまっている。言葉の遊びになってはいけない……』確かに確かに・・・・・・善い師につくことは如何に大切かを問われる。
難しく語るより、より分かりやすく語ることの方がいかに難しいか、それは本物がそこになければ語れないんです。
言葉の遊び、言葉の空回りになってはいけないんです。
内にキリストが生きていなければ、香りがしなければ、温もりがなければ・・・・・・・・。
上杉鷹山の中にそれを観ているような気がしました。』
今の、キリスト教界に例えると「福音とは世の為にならなくてはならない。神学は神学の神学になってしまっている。言葉の遊びになってしまってはいけない。」と言えるかも知れないのです。
頭の中でキリストを知り、頭の中のキリストを語るそれが福音だと思い込んで伝道するから、聞く人たちにはいっこうに響いてこない。
アーサー・ホーランドはよく言う。『お前たち!お前たちの生きざまを示せよ!生きざまの中で触れたキリストを現せよ!』
キリストはドロドロとした現実の中に居る。そのドロドロとした現実の中でキリストに触れた人の語る福音は深みがあり人のこころに響きわたる。
現実という社会に翻弄され、苦労してきた人の中にキリストの面影を見ることがよくある。でもその人はキリストを知らない!
生活を支えなければならない為に世間から外れた仕事をしなければならない人もいる。身を汚さなければ生きて
いけない人もいる。礼拝に出たい、でも現実には汚れた仕事をしなければならない。
ある人が牧師に相談した。その牧師は「そのような仕事は早くやめなさい」と言ったという
。頭の中で語るキリストの愛だからこんな安っぽい愛しか語れない。
キリストの愛とはそんな安っぽいものではない。そこに神のパラドックスがある!http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/4/4d/Mt.Shirataka.jpg/300px-Mt.Shirataka.jpg
わたしは福音を語ることとは、まずその人の中にキリストの愛に触れられた真実があること、それがキリストのまなざしとなって溢れ出ることだと思うんだ。そしてドロドロとした人間の生身を通して語られるからこそ福音の素晴らしさがあるような気がする。啓示とはちがう福音の素晴らしさはそこにあると思う。
ドラマの概要
上杉鷹山 二百年前の行政改革
江戸時代、歳入の三倍にも膨れ上がった赤字を抱え、幕府への領地返上もやむなしとされ、瀕死の状態にあった藩をよみがえらせた米沢藩主・上杉鷹山。
保守はの重臣たちの激しい反発にさらされながら、下級武士や領民とともに次々と改革を行った鷹山の功績を追った人間ドラマ。
鷹山は貧しく、虐げられた弱気者たち、小さき者たちに手を差し伸べていく様は正にキリストの面影を見る思いがしました。
さて、鷹山が国元・米沢藩に初めて国入りする時(養嗣子だったので江戸に住まい米沢には行っていなかった)
国は荒れ果て、出迎える領民の目には希望を失くした絶望した力ない姿があった。
鷹山は手元の暖をとる為の小さな火鉢(表紙で手に持っている物)に目を向ける、と!そこに灰に覆われた中に小さな火種を見つける。
この消えかかった火種も小さな積み重ねによって大きな火となることに注目して、改革に取り組んでいく。
野の花さんはまたこのようなメールを送ってくれました。
『…あの時は、途中までぼんやり観ていたんです。
国入りの場面で「山も川も土も皆死んでいた。 何より、そこに住む人の表情が死んでいた…。」 が突然リアルに迫って来ました。 私の過ごして来た世界の姿だったから。希望がなくて、死んで澱んだ目をしていましたから。 『灰の中の火種』に胸を打たれました。それを心に探しました。 本当に、神様がふっと息を吹きかけてくださったようでした。 今観ても福音の香りがしますね。 これが必ずしもノンフィクションでなかったとしても、あの日あの時、私を灰の中から引き出し、教会へと向かうよう押し出してくれたことに変わりはありません。』 今、統一協会から脱しきれず苦しんでいる人、家族を捕られて苦しんでいる人、又、野の花さんのように自力で抜け出ても希望を失い、無気力な生活をしている人たち。
野の花さんは聖書を読むのが怖かったと言います。フラッシュバックの恐怖にさらされての生活。
しかし、普通の人ではなんでもない、このドラマのワンシーンが教会へ向かわすきっかけを作ったのです。
神は正に野の花さんの目をそこに留めさせ力をあたえてくれたのだと思います。
ですから野の花さんは、統一協会に苦しむ人たちのことをこころの底から心配しています。
その苦しみを経験してきた人でなければ、分からない事が多くあるのでしょう。
泣きながら私に訴えてくる時さえあります。
こんな人を心無い人は悪魔の使い魔女と言う人がいました。
心ある人ならば、どちらが悪魔でどちらが魔女なのか分かるはずですから何も言いません。
自分だけの世界で、再臨主などと名乗るのはいいでしょう。 純粋な人を巻き込むのだけは止めて貰いたいものです。
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