荒野の狼

気張らずにありのままの自分でいよう。

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2012年05月

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二老人

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この物語には二人の老人が出てきます。
一人は裕福な百姓・エフィーム。一人は富裕でも貧乏でもないエリセイ。
二人は予てからエルサレムへお参りしようと約束をしていました。さて旅立つ事に決まり、エリセイは家じゅうの有り金を集め足りない分を蜜蜂の巣丸太を売って何とか100ルーブリの旅費をつくり旅立ちの準備をしました。
一方のエフィームは預金の中から100ルーブリを取り、200ルーブリを老妻に残して、二人はエルサレムへの長い巡礼の旅に出かけて行きました。
旅に出てからもエフィームは息子に託してきた家の事が心配でなりませんでした。エリセイは上機嫌で家のことなどすっかり忘れ、祈りながら歩いて行きました。そんな旅の途中、エリセイがのどを潤そうと、エフィームにすぐに追いつくから先に行ってくれとわかれて一軒の農家に立ち寄りました。するとその家では、凶作のために家族全員が餓死寸前の状態でした。人のいいエリセイはそれを捨てておけなく、食べ物ばかりではなく土地を買い戻し、売ってしまった農機具や馬まで買い戻してやったので、巡礼のための大切なお金を使い果たしてしまったのです。エリセイは巡礼を諦めて家に戻りました。家に帰って驚いている家の人に「いやあ、金をなくしてしもうた」と人助けをした事はいっさいおくびにも出しませんでした。一方のエフィームは旅をつづけ念願のエルサレムへ着いたものの、巡礼者が多くてなかなか教会の中まで入れない。ところが、三日通って三日とも、帰ったはずのエリセイが最前列で礼拝している姿を見つけました。確かにその横顔はエリセイでした。近づこうとしても余りにも多い巡礼者に阻まれてエリセイを見失ってしまいました。エフィームは巡礼を終えて村に帰ってくると、エリセイはとっくに帰っていて、一生懸命に働いていました。
 
エフィームは帰りにエリセイと別れた農家に立ち寄りました。そこの人たちは去年とは見ちがえるようでした。
去年の凶作で苦しんでいたのとは別人のように不自由なく明るく暮らしておりました。今年は豊年万作でした。
エフィームはエリセイのことを聞いてみました。すると家の人たちは、その時のようすを、エリセイがどこに座り、どのように話していたかその時の事を事細かに覚えて感謝して、よろこび溢れて話しかけてくれました。
そこへ亭主が馬に乗って帰ってきました。それでまたエリセイが自分たちの家でどんなふうに暮らしたかを語るのでした。
 
「あの方がおいでにならなんだら、おらたちみんな罪に沈みこんだまま、死ぬばかりでやした。もう頼みの綱も切れて死にかかりながら、神さまも人間もうらみやしただ。ところがあの方は、おらたちを助け起こしてくださっただ。あの方のおかげでおらたち神さまを知り、世間にはええ人たちがいるってことを信ずるようになりやした。キリスト様、どうかあの方をお守りなすってくだせえまし!以前にゃ、おらたち畜生みていに暮らしてたんだけんど、あの方のおかげで人間になれただ」
エフィームはもてなしを受けみんなから見送られながら帰路についたのでした。

トルストイのこの民話はどこか「善きサマリア人」の話しにも似ています。

善きサマリア人\¤\᡼\¸ 1
ルカの福音書10章30〜35
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
 10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
 10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
 10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
 10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
 10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

強盗にあった人が身ぐるみ剥がされ傷ついて倒れていた。最も神を愛しているはずの、祭司とレビ人は関わりになるのを恐れて見て見ぬふりをして反対がわの道を歩いて通り過ぎて行った。
はたして!感じませんか?・・・・・・・最も助けて上げなくてはならないのは、神さまを愛する司祭やレビ人ではなかったのではないでしょうか!神様を愛する!
救ったのは・・・・・・・ユダヤ人が軽蔑し嫌っているサマリア人だったのです。
これを聞いて何を感じましたか?
『YOU DID IT TO ME』
 25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
 25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです
 
愛するイエスさまはあなたに何を望まれていますか?\¤\᡼\¸ 2
素晴らしい礼拝ですか?
教会を大きくする為の献金ですかそして奉仕活動ですか?
 
 
 
(この記事は私が以前ブログに載せたものです)

『二老人』の話しに入る前置きにヨハネ4章19〜21節が載せてあります。
イエスさまは弟子と離れてヤコブの井戸でサマリヤの女に喉を潤す一杯の水を求めた。

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
 4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
 4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
 4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
 4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

そしてこの民話を読んでいると、もうひとつ思い浮かぶ箇所があります。
それはマリアとマルタの話です。マルタはイエス様をむかい入れるべき、もてなしの仕事に一生懸命働いています。けれどもマリアはイエス様の話に聞き入って手伝おうともしません。マルタはイエス様にマリアへの不満を言いますが、イエス様はマルタをたしなめます。
ルカ10章41節
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 
マルタはイエス様の為に一生懸命に働いていますが、イエス様は言います。奉仕することは大切なことだけれど大切なものを見失ってはいけない、マリアは一番よいものを選んだのです。
 
エフィームもエリセイも一年以上の長旅をしてエルサレムへの巡礼に旅立つほどの敬虔な信徒ですが、エフィームは残してきた家の事が頭から離れません。そして人ごみの中で金を盗まれる心配ばかりしていました。
この本の解説者もこう言っています「心のこもらない聖地詣でよりも、エリセイの行為のほうが、神の心にかなったものだということをトルストイはいいたかったのだと思います。」
 
エリセイはエルサレムへは行けなかったけれど『父を礼拝するのはエルサレムでもない』の御言葉どうり父の居るところ、それは小さき者、弱き者にてを差し伸べることは父にしたことだ!これこそ真の礼拝である!
マザー・テレサは言います。「弱き者、小さき者に触れることはイエス様に触れさせてもらっている事だから、喜び感謝しなさい!」と。
 
教会の奉仕に一生懸命に働いている素晴らしい人達に敬意を称します。でも一生懸命のあまりマルタのように大切なものを見失わないように。
 
『私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』
 
教会の運営上どうしても この世と調子を合わせてしまうことが大いに有ります。
どうぞ、その時はイエス様がマルタに言われたとおり一番善いものを選んでください。
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“自分と同じことを説いている人間がいれば、
           その人を偽善家と呼ぶだろう“
                                          レフ・トルストイ
 
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教会という枠

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先々週、今わたしの行っている教会の総会がありました。わたしはまだ正会員ではないので、「オブザーバーとして参加してもらえませんか?」と牧師さんから言われたので、気の進まぬまま参加してみました。
なぜなら、教会は神さまの元に一人一人が教会という一つのからだの一部の器官として一人一人与えられた賜物、恵みを生かして、神さまの為に仕える場所であるから、世の中の会社と同じような運営手段が入り込むのが嫌なのです。
 
去年一年の活動報告。事細かな会計報告、その監査報告そして承認。まあそれは良しとしてこれからの教会の活動方針の議題にいたって、どのようにして、教会員を増やしていくかの談になると、たまたま先週の礼拝に近くの大きな医療センターから初めて来られた方がおりました。その教会の生え抜きのある役員は「そういう方をうまく取り込んでそこに働いている人たちを教会員に引っぱり込もうと思っている」と真面目に話したのにはあきれ果てた。
まるで、信仰宗教やカルト宗教の手法と変わりない事をなんのためらいもなく話され、またこれからは若い人たちを増やさなければ教会の発展はない。その為に今の牧師さんが75歳定年をむかえる5年後には若い牧師さんを迎い入れ刷新を図らなければならないと言う。余りにも無神経な発言と作為的な伝道手段にあきれ果ててしまった。
教会という枠の中で知らず知らずのうちに神の御心から離れ己の魂を腐らせてしまうパリサイ人が増えていく。
 
ローマ書12章
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
 
こういう話しを聞いたことがある。
ロシヤ正教の神学校の卒業試験の最後にメッセージの試験があるらしい、この試験を通らないと卒業許可がおりないようです。ある学生がメッセージをしました、聞いている人たちの反応は皆素晴らしいと共感されていたそうです。でも、その学生は落とされました。
ロシヤ正教は伝統を重んじる宗教であると聞きます。ロシヤ正教の伝統ある教理と外れているとの理由でした。その青年はその迷いをアーサーに相談しに来ていました。
どう思われますか?
 
宗教とはこんなものです。教団、教派の主旨から外れないように、気をつかってメッセージをする牧師さんも多くいると思います。
宗教・教団・教派は神の身許にあって、自由であるべき魂を、その枠の中に閉じ込めてしまう。
 
ある話しがあります。
『貧しい男が道を歩いていました。そこへイエスさまが通りかかり、その男に聞きました「なんで、そんなに寂しそうに歩いているのか?悲しいことでもあるのか?」と聞いたところその男は「あそこにある教会から追い出されてきました。」と答えました。それを聞いてイエス様はその男にこう答えました「私もあの教会から追い出されたんだよ!」と。』
 
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      霊に燃え、主に仕えなさい
 
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
 
 
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