荒野の狼

気張らずにありのままの自分でいよう。

風の唄

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見返りを求めない愛

加島祥造
 
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天と地の在り方
天はひろびろとしているし
地は果てしなくして
ともに
長く久しくつづくもののようだ。
それというのも、天と地は
自分のために何かしようとしないで
あるがままでいるからだ。
だから、長く、いつまでも、ああなんだ。
タオにつながる人も
この天と地の在り方を知っているんで
先を争ったりしない、そして
いつも、ひとの
いちばん後からついていゆく。
競争の外に身をおいて無理しないから
身体は長保ちするわけだ。
つづめて言えば
我を張ったりしない生き方だから
自分というものが
充分に活きるんだ。

尺八の世界に、 “萬法即一吹” という言葉があります。
始めの一吹きから始まり、またその一吹にもどる。 一吹にはじまり一吹に終わる。
その一吹にすべての法則、真理が含まれる。
まずは、ひと吹きから始まって、あらゆるものを身に纏っていく、吹く為の技、音色、知識、などあり
とあらゆるものを身に纏っていく。そして、そこから無用なものを剥いでいくとその先は、また一吹に辿りつく。
つまり、その一吹こそすべての法則、真理なのである。    東洋思想で言う悟りの世界である。
人の生もまた然りで、生を受けて、知恵を知識をあらゆるものを身に纏って成長してゆく、我というものも我が身に纏わ着いて離れなくなってしまう。それが人の持つ悲しい宿命なのかも知れない。
 
 信仰も同じのような気がする。純真無垢な幼子の信仰に始まり、あらゆるものを身に纏っていく、
神学、哲学、などありとあらゆる宗教学を身に纏っていく、いくら理屈を捏ねまわしても、人間より崇高な神の知恵には及ぶ由もなく、無駄なものを一づつ剥いでゆく、実に着いたものを取りさっていくほど、難しいことはない。取りさってたどり着くところは、又純真無垢な幼子のような心の信仰にもどっていくような気がする。ただ、ただ無心に神を見上げ、祈る信仰に・・・・
私は何時も不思議に思う。はたして東洋思想で言う悟りって人間である私たちにできるものなのだろうか?
 
大本教という神教の偉い教師も言われている。
『いっさいは神意であること、われはいっさいを神にまかせ奉りて、瞬間瞬間を、赤子のような心をもって送る事』
と・・・・・・。
町田宗鳳先生曰く、赤子のような心で生きることを融通無碍に生きる。と言うらしい。
 
そこで、イエスさまは悟る事のできない罪深い憐れな私たちに「ただ、ただ私を信じなさい!」と幼子の様な純真無垢な信仰をもちなさい!と手をさしのべてくれている。

イエス様は十字架の上で、自我・我が身を捨てた愛を私たちに示された。真の謙遜と謙虚の愛という形を自らの身を持って示されました。見返りを求めない愛を・・・・・・・!

私の尊敬する町田宗鳳先生の『愚者の知恵』からの抜粋です。
 
人間のエゴイズムをもっとも熾烈に自覚した親鸞聖人は、自分の心の中にいるヘビやサソリを見出していました。
 
『悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蠍のごとくなり
  修善(善い行い)も雑毒なるゆえに
   虚仮(内心と外相とが違う)の行とぞなづけたる』
 
少しばかりいいことをしたって、その動機はきわめて不純な場合が多いのです。自分たちが、どうしようもない
エゴイストであることを、まず自覚しなくてはなりません。その自覚がないと、謙虚に生きることができないんです。

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晩年のトルストイは彼の持つ莫大な財産と世界的名声と地位がトルストイの著書に賛同した人達から、言行不一致と非難を受けた。
トルストイはそう言ってくる人たちを決して悪くは思わず。自己批判してこう返事を書いた。
 
『もし、自分と同じような生活をし、自分と同じことを説いている人間がいれば、その人を偽善家と呼ぶだろう。』
 
十月二十八日早朝、家出し三十一日列車の中で肺炎にかかり
十一月七日田舎のアスターポヴォという小さな駅で永眠するイメージ 3
八十二歳。

二老人

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この物語には二人の老人が出てきます。
一人は裕福な百姓・エフィーム。一人は富裕でも貧乏でもないエリセイ。
二人は予てからエルサレムへお参りしようと約束をしていました。さて旅立つ事に決まり、エリセイは家じゅうの有り金を集め足りない分を蜜蜂の巣丸太を売って何とか100ルーブリの旅費をつくり旅立ちの準備をしました。
一方のエフィームは預金の中から100ルーブリを取り、200ルーブリを老妻に残して、二人はエルサレムへの長い巡礼の旅に出かけて行きました。
旅に出てからもエフィームは息子に託してきた家の事が心配でなりませんでした。エリセイは上機嫌で家のことなどすっかり忘れ、祈りながら歩いて行きました。そんな旅の途中、エリセイがのどを潤そうと、エフィームにすぐに追いつくから先に行ってくれとわかれて一軒の農家に立ち寄りました。するとその家では、凶作のために家族全員が餓死寸前の状態でした。人のいいエリセイはそれを捨てておけなく、食べ物ばかりではなく土地を買い戻し、売ってしまった農機具や馬まで買い戻してやったので、巡礼のための大切なお金を使い果たしてしまったのです。エリセイは巡礼を諦めて家に戻りました。家に帰って驚いている家の人に「いやあ、金をなくしてしもうた」と人助けをした事はいっさいおくびにも出しませんでした。一方のエフィームは旅をつづけ念願のエルサレムへ着いたものの、巡礼者が多くてなかなか教会の中まで入れない。ところが、三日通って三日とも、帰ったはずのエリセイが最前列で礼拝している姿を見つけました。確かにその横顔はエリセイでした。近づこうとしても余りにも多い巡礼者に阻まれてエリセイを見失ってしまいました。エフィームは巡礼を終えて村に帰ってくると、エリセイはとっくに帰っていて、一生懸命に働いていました。
 
エフィームは帰りにエリセイと別れた農家に立ち寄りました。そこの人たちは去年とは見ちがえるようでした。
去年の凶作で苦しんでいたのとは別人のように不自由なく明るく暮らしておりました。今年は豊年万作でした。
エフィームはエリセイのことを聞いてみました。すると家の人たちは、その時のようすを、エリセイがどこに座り、どのように話していたかその時の事を事細かに覚えて感謝して、よろこび溢れて話しかけてくれました。
そこへ亭主が馬に乗って帰ってきました。それでまたエリセイが自分たちの家でどんなふうに暮らしたかを語るのでした。
 
「あの方がおいでにならなんだら、おらたちみんな罪に沈みこんだまま、死ぬばかりでやした。もう頼みの綱も切れて死にかかりながら、神さまも人間もうらみやしただ。ところがあの方は、おらたちを助け起こしてくださっただ。あの方のおかげでおらたち神さまを知り、世間にはええ人たちがいるってことを信ずるようになりやした。キリスト様、どうかあの方をお守りなすってくだせえまし!以前にゃ、おらたち畜生みていに暮らしてたんだけんど、あの方のおかげで人間になれただ」
エフィームはもてなしを受けみんなから見送られながら帰路についたのでした。

トルストイのこの民話はどこか「善きサマリア人」の話しにも似ています。

善きサマリア人\¤\᡼\¸ 1
ルカの福音書10章30〜35
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
 10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
 10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
 10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
 10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
 10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

強盗にあった人が身ぐるみ剥がされ傷ついて倒れていた。最も神を愛しているはずの、祭司とレビ人は関わりになるのを恐れて見て見ぬふりをして反対がわの道を歩いて通り過ぎて行った。
はたして!感じませんか?・・・・・・・最も助けて上げなくてはならないのは、神さまを愛する司祭やレビ人ではなかったのではないでしょうか!神様を愛する!
救ったのは・・・・・・・ユダヤ人が軽蔑し嫌っているサマリア人だったのです。
これを聞いて何を感じましたか?
『YOU DID IT TO ME』
 25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
 25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです
 
愛するイエスさまはあなたに何を望まれていますか?\¤\᡼\¸ 2
素晴らしい礼拝ですか?
教会を大きくする為の献金ですかそして奉仕活動ですか?
 
 
 
(この記事は私が以前ブログに載せたものです)

『二老人』の話しに入る前置きにヨハネ4章19〜21節が載せてあります。
イエスさまは弟子と離れてヤコブの井戸でサマリヤの女に喉を潤す一杯の水を求めた。

4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
 4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
 4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
 4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
 4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

そしてこの民話を読んでいると、もうひとつ思い浮かぶ箇所があります。
それはマリアとマルタの話です。マルタはイエス様をむかい入れるべき、もてなしの仕事に一生懸命働いています。けれどもマリアはイエス様の話に聞き入って手伝おうともしません。マルタはイエス様にマリアへの不満を言いますが、イエス様はマルタをたしなめます。
ルカ10章41節
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 
マルタはイエス様の為に一生懸命に働いていますが、イエス様は言います。奉仕することは大切なことだけれど大切なものを見失ってはいけない、マリアは一番よいものを選んだのです。
 
エフィームもエリセイも一年以上の長旅をしてエルサレムへの巡礼に旅立つほどの敬虔な信徒ですが、エフィームは残してきた家の事が頭から離れません。そして人ごみの中で金を盗まれる心配ばかりしていました。
この本の解説者もこう言っています「心のこもらない聖地詣でよりも、エリセイの行為のほうが、神の心にかなったものだということをトルストイはいいたかったのだと思います。」
 
エリセイはエルサレムへは行けなかったけれど『父を礼拝するのはエルサレムでもない』の御言葉どうり父の居るところ、それは小さき者、弱き者にてを差し伸べることは父にしたことだ!これこそ真の礼拝である!
マザー・テレサは言います。「弱き者、小さき者に触れることはイエス様に触れさせてもらっている事だから、喜び感謝しなさい!」と。
 
教会の奉仕に一生懸命に働いている素晴らしい人達に敬意を称します。でも一生懸命のあまりマルタのように大切なものを見失わないように。
 
『私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』
 
教会の運営上どうしても この世と調子を合わせてしまうことが大いに有ります。
どうぞ、その時はイエス様がマルタに言われたとおり一番善いものを選んでください。
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“自分と同じことを説いている人間がいれば、
           その人を偽善家と呼ぶだろう“
                                          レフ・トルストイ
 
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教会という枠

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先々週、今わたしの行っている教会の総会がありました。わたしはまだ正会員ではないので、「オブザーバーとして参加してもらえませんか?」と牧師さんから言われたので、気の進まぬまま参加してみました。
なぜなら、教会は神さまの元に一人一人が教会という一つのからだの一部の器官として一人一人与えられた賜物、恵みを生かして、神さまの為に仕える場所であるから、世の中の会社と同じような運営手段が入り込むのが嫌なのです。
 
去年一年の活動報告。事細かな会計報告、その監査報告そして承認。まあそれは良しとしてこれからの教会の活動方針の議題にいたって、どのようにして、教会員を増やしていくかの談になると、たまたま先週の礼拝に近くの大きな医療センターから初めて来られた方がおりました。その教会の生え抜きのある役員は「そういう方をうまく取り込んでそこに働いている人たちを教会員に引っぱり込もうと思っている」と真面目に話したのにはあきれ果てた。
まるで、信仰宗教やカルト宗教の手法と変わりない事をなんのためらいもなく話され、またこれからは若い人たちを増やさなければ教会の発展はない。その為に今の牧師さんが75歳定年をむかえる5年後には若い牧師さんを迎い入れ刷新を図らなければならないと言う。余りにも無神経な発言と作為的な伝道手段にあきれ果ててしまった。
教会という枠の中で知らず知らずのうちに神の御心から離れ己の魂を腐らせてしまうパリサイ人が増えていく。
 
ローマ書12章
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
 
こういう話しを聞いたことがある。
ロシヤ正教の神学校の卒業試験の最後にメッセージの試験があるらしい、この試験を通らないと卒業許可がおりないようです。ある学生がメッセージをしました、聞いている人たちの反応は皆素晴らしいと共感されていたそうです。でも、その学生は落とされました。
ロシヤ正教は伝統を重んじる宗教であると聞きます。ロシヤ正教の伝統ある教理と外れているとの理由でした。その青年はその迷いをアーサーに相談しに来ていました。
どう思われますか?
 
宗教とはこんなものです。教団、教派の主旨から外れないように、気をつかってメッセージをする牧師さんも多くいると思います。
宗教・教団・教派は神の身許にあって、自由であるべき魂を、その枠の中に閉じ込めてしまう。
 
ある話しがあります。
『貧しい男が道を歩いていました。そこへイエスさまが通りかかり、その男に聞きました「なんで、そんなに寂しそうに歩いているのか?悲しいことでもあるのか?」と聞いたところその男は「あそこにある教会から追い出されてきました。」と答えました。それを聞いてイエス様はその男にこう答えました「私もあの教会から追い出されたんだよ!」と。』
 
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      霊に燃え、主に仕えなさい
 
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
 
 
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心のきよき者

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エスカリオテのユダに関する文献は多くありますが・・・・・・・これもまかり間違えれば異端視され攻撃の的になりかねない。
 
果たして、ユダは救いの内にあるのか、ユダは救いの外にあるのか!
ペテロは・・・・・・イエスを見棄てた。いや!ユダと同じく裏切ったのだ!
          生き延び痛切に悔い改めバァチカンの初代教皇となり
ユダは・・・・・・・激しい悔恨のすえ、自ら命を絶つ!
 
これは神の計画の内にあったことか・・・・・・・!
          ユダなくしてキリストの救いは無いのだから!
イエスさまはユダに言う。
「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」マタイ26−24
 
私はこの個所がいつも気にかかります。イエスさまはユダの避けきれない哀れな宿命を憂いて言っているのではないかと・・・・・・・・。
ならば、ユダにセカンドチャンスはあるのではないか・・・・・・。
 
わたしは「のぞみ教会」の高橋牧師に質問してみました。
高橋牧師は優しい口調で「なかなか決めつけられるものではないし、決めつけてものを判断してはいけない。」
と言われて、ある話しを聞かせてくださいました。
「あるラジオ討論会でユダのテーマで番組が組まれ、お偉い諸先生方が出席なさっていました。
色々な意見交換のあと、お一人ずつまとめの意見を述べて貰う事になりました。ほかの先生方が諸々の意見を述べて、ある名の知れた先生のところに順番がまわってきました。その先生はこう言いました『わたしは分かりません』と、そうしたら局に抗議の電話が殺到したそうです。『なんで!分からないという者を番組に出すんだ!』と、でもそれを聞いていたお弟子さんは『うちの先生が一番良い解答をなさいました』と言ったそうです。」
 
わたしもその話しに納得しました。
どんなに神学を学び、博学であろうと人の知恵の及ばぬところの、神の知恵は分かるはずのないもの!
 
神は言われた『無知の言詞をもって道を暗からしむる此者は誰ぞや』
 
 38:1 主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
 38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
 38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
 38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
 
公の場に於いて、
堂々と『わたしは分からない』と言い切った先生にハレルヤ!と叫びたい!
 
心のきよい者。これは見せかけの清さではない。神の御前でわが身の罪を打ち砕き、さらけ出せる者のことだ。
 
以下は聖書のことばより
 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
  ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
  あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
  しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
  まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
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心のきよい者は幸いです。
  その人たちは神を見るから。
 
 
 
 
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